オーディション当日の体育室は、朝から何とも言えない緊張感で満ちていた。
 アップテンポのJ-POPがいつも以上の音量で流れ続ける。お喋りなあの子も、笑いの絶えないあの人たちも、それに一瞬たりとも後れをとらないようにと、鏡の前で黙々と課題の振りを繰り返し踊っていた。

 センターは無理だとママに泣いて訴えてから2日。私は自分のためだけにダンスの練習を続けていた。
 純粋に音に乗るのが楽しくてしかたないっていう、初期の感覚はまだまだ取り戻せそうにないけど。私はやっぱりダンスが好き。大会の選抜メンバーとして誰よりも多くリズムを刻み、より長く舞台に立っていたい。
 そう考えたらオーディションの1位通過は、私が狙うべき必然になった。
 ママの期待と重圧を肩から振り落としたことで、心身ともにだいぶ軽い。今なら自分のベストなパフォーマンスができるような気がしていた。
 
 オーディション開始はお昼を食べた後の1時から。
 悔いのない結果を残したいと誰もがギリギリまで練習を続ける中――私の罪を掘り起こす、最後のソレ(・・)は起きてしまった。


「あれ? 紗英、シューズは⁉」

 トイレ休憩から戻ってきた紗英に、部員の一人が驚いたように声をかける。
 さっきまでピンクのアディダスだった彼女の足元が、肌色に変わっていた。靴を何も履いていなかった。この体育室でそんな部員は一人もいない。
 私はそれを目の当たりにして、背中に冷たいものを走らせる。

「劣化してたみたいで、急にインソールが裂けちゃったの。クッション入ってたやつだから足裏にすごい違和感だし、ゴム底もなんかグラグラして」

 紗英は素足のつま先をトントンと打ちつけながら、フロアーの心地を確認していた。
 まさか裸足で踊る気なの? ジャズやコンテンポラリーならともかく、早くて細かい今回のステップはシューズなしじゃ無理だ。オーディションで不利なのは一目瞭然。
 私がソールに切り込みを入れたせいだ。ウソでしょ……このタイミングで……。数日前の策略がついに実をつけた瞬間なのに、ちっとも嬉しくない。むしろ心がザワザワする。

「まあ、どうにかなりそうかな?」

 そう呟きつつも、不安そうに足元に視線を落とす紗英。私は罪悪感に耐えられず、彼女のもとへ駆け寄る。

「紗英、ちょっと来て」


 体育室をいったん出て、プレハブの部室に紗英を連れてきた。
 二人きりになった私はおもむろに自分のダンスシューズを脱ぎ、迷いなく紗英に差し出す。

「サイズ24でいけるなら、私の履いて。インソールはエアーじゃないけど同じメーカーだし違和感ないと思う」

 私の突然の提案に、紗英は目を白黒させていた。両手を横に振ってNOを示す。

「なに言ってるの。だってそれ借りたら、りりあが困っちゃうでしょ?」

 大事なオーディション直前にライバルからシューズを譲られるなんて、何が起きてるか理解できないだろう。
 理由も分からず受け取ってくれるわけない、ちゃんと話さなきゃ。私は大きく深呼吸して意を決する。

「ごめん。紗英のシューズ、私が切ったの」
「え?」
「数日前、ここに置いて帰ったでしょ? コーチと一緒に課題曲でデュオを踊った日」
「ああ、たしかに」
「それが悔しくて、オーディションでミスればいいのにって。アッパーとゴム底の間にハサミを入れたの。インソールもすぐに破けるように切り込んだりして」

 シューズが駄目になったのそれが原因だと、私は素直に白状した。
 紗英は泣くことも興奮して大声を出すこともなく、黙って私の話を聞いていた。怖いくらい落ち着いた様子でこちらを見据える。

「あと、もうひとつあるの。コーチとのストーリーの事なんだけど……」

 続けて動画の件を切り出すと、紗英のまゆ毛がピクッと持ち上がった。

「誰が、とは言えないけど。あれが流れることは前もって知ってたの。コーチと変な関係じゃないって事も分かってた。でもあえて何もしなくて……」

 紗英が精神的にやられちゃえばいいとそう願ってしまった事も、正直に伝えた。

「ごめんなさい」

 自己満足の謝罪であることは重々承知してる。許してもらおうなんて期待もしてない。
 それでも今伝えなきゃいけないって思った。罵られても、軽蔑されても。例えオーディションの参加資格を失っても、紗英にきちんと話をしておきたかった。
 私は深々と頭を下げて、彼女の言葉を待つ。

「ビックリなんだけど……それ」

 紗英は微かに声を震わせた。

「……私が怖かったの?」
「うん……」
「私に嫉妬したってこと? りりあが?」
「負けそうで焦って、つい……」
「……そうなんだ」
「本当にごめんなさい! だからこのシューズ、代わりに使って!」

 もう一度差し出してみたけど、紗英は「大丈夫」と頑なに受け取らなかった。

「借り物のシューズより、素足の方が私らしいし」

 そう呟いて目を細めて笑う。

「オーディション頑張ろうね。一緒に」

 柔らかい声で、私を許してくれた紗英。
 一緒に頑張ろう――いつも紗英が口にしていた、空々しいと思ってたはずの言葉に、今とても救われる。
 紗英ってこんなに強くて綺麗な子だったんだ……。私は彼女に新しいカオ(・・)を見た気がした。


 *

 午後一の私たちの仕事は、長机と椅子を運ぶこと。汗とシューズの匂いがする体育室の壁際に、年に一度の審査員席が完成する。
 オーディションは公開式。ジャッジするのは顧問の先生、Masaコーチ、華やかなダンス経歴をもつOB・OGの全5名。
 泣いても笑ってもこの1回で、夏の大会メンバー31人が発表される。
 私が目指すはのは1位通過のセンター。10年の経験とスキルを武器に、誰と比べることのない私は私のダンスをするんだ。もう迷ったりしない。
 ラインに流れてきたパフォーマンス順によると、紗英がトップバッターで私がトリ。辞退と欠席を除き、受験者は97人だった。
 でもそのリストに神宮寺の名前は見当たらない。それがちょっとだけ気になっていた。


 体育室が静寂に包まれる。顧問の先生の低い声でオーディション開始が告げられた。
 名前を呼ばれた紗英がフロアーの中央に出ると、部員たちはいっせいに彼女の足元に注目する。普段の練習ならともかくこんな大一番で、裸足でのパフォーマンスはあり得ない。きっと審査員もびっくりしてるだろう。
 でもそんな好奇の視線を物ともせず、紗英は背筋をスッと伸ばして笑顔で会釈をした。その堂々たる姿がすでに眩しい。

 課題曲が流れ始める。ターン、ステップ、アイソレーション。10年選手の私から見ればまだまだスキル不足。
 でも紗英の演技はいつも伸び伸びとしなやかで、自由で。胸がキュッと締めつけられるような切ない感動があるの。
 観る者の視線を吸いとる、圧倒的な表現力――。私はこれがすっごく本当にすっごく、羨ましい。
『完璧な自分』にこだわってきた私に、紗英は”完璧じゃなくても輝ける”ってことを、見事に体現してくれた。

 私も今日は自由に踊るよ。
 最低な部分も全部さらけ出して、これまで付けていた仮面を投げ捨ててやるの。
 ママが求めてみんなが期待してる、『完璧で理想のりりあ』からの解放――。
 ああ……体が軽い。こんな清々しい気分は久しぶりだ。