「はい、これ。言われた通りやってきたから」

 翌朝、神宮寺からきたラインの指示通り、人気のない裏庭で課題を手渡した。
 昨日の雨はすっかり止んで、今日は快晴。頭上には気持ちのいい真っ青な空が広がっているのに、今朝の私はくすんだブルーでしかない。
 チャートを解き終わったのはけっきょく3時過ぎだった。眠くて怠くて腹立たしい。顔をそむけたまま雑にノートを突きつける。神宮寺は大袈裟に喜んで私からそれを受けとった。

「わ~ぉ、さすが部長っすね。責任感ハンパね~。あざっす!」

 厭味っぽい感謝の言葉。このふにゃふにゃした軽い物言いがウザい。
 今まで2年男子とは交流もなく存在すら気にも留めてなかったけど、コイツってばだいぶクセ強だ。

「字、キレイっすね。これじゃ俺がやったんじゃないって即バレかも」

 神宮寺がノートをパラパラめくるのが視界の端に入る。
 終わったなら早く立ち去りたい。1秒だってこいつのそばにいたくない。

「それじゃ……」

 いちおう機嫌をそこねないように短く声をかけてから、私は素早く踵を返した。
 でも彼はそれを許さず、私の腕をグイッとつかんで自分の元に強引に引き寄せる。

「りりあ先輩、待って」
「な……なによ。用は済んだでしょ?」
「まあ、いいから。とりあえずこっち見て下さい」

 大きな手が私の顔に伸びてきて、両頬をパチンと挟みこんだ。
 至近距離で顔を覗きこまれる。背が高いからすごい威圧感。身動きが取れない。

「なんか、だいぶ顔色悪いですね。目の下クマだらけだし、肌も唇もちょっと荒れてる。ご自慢の神ビジュが台無しって感じ」

 はぁ? なに言ってるの。コーチの指導でクタクタだった日に、あんな脅して宿題押しつけてきたくせに。

「誰のせいだと……」
「ああそうでした、俺っすね。俺の一言で、みんなの憧れのりりあ先輩がそんなふうになっちゃうんだ。……めっちゃ快感なんですけど」

 私を押さえつけて見下ろしながら、クツクツと低い声で笑う神宮寺。
 こいつ……歪んでる。

「触んないでよ!」

 私はキッと睨みつけ、頬に触れていた彼の手を勢いよくはねのけた。
 神宮寺はちょっと驚いて、でもまたニヤリと唇の端を吊り上げる。そしてブレザーのポケットからスマホを取り出し、私の目の前でわざとらしくチラつかせた。

「いいんですかね、そういう態度で。こっちには決定的なヤツがあるんすけど」
「……あんたもオーディション受けるんでしょ。こんなことしてそっちだって、ノーダメージってわけにはいかないんじゃないの?」
「う~ん俺、現在ランク33ぐらいなんすよ。今のままだと選抜は絶望的で。でもランク1位のりりあ先輩が抜けて、紗英先輩と潰し合ってくれたら、メンバー入りの可能性もあるんで」
「……」

 これは捨て身の作戦ってやつなんだろうか。もしその覚悟が本気なら、あの動画を拡散されて痛いのは私だ。
 何も言え返せなくなった。下の方でギュッと拳を握り、黙って屈辱に耐える。

「じゃあ、りりあ先輩。また放課後にでも」

 神宮寺はひらりと手を上げて私に背中を向けた。
 放課後……って、まさかあいつとこれから毎日、部活で無駄に絡んでいかなきゃいけないの?
 彼の姿が見えなくなってから、私はズルズルとその場にしゃがみ込む。会いたくない。気味が悪い。次は何を要求する気?
 地面がガラガラと崩れていく音が聞こえた。オーディション前の大事な時に、私はなんて(ヤツ)に弱みを握られちゃったんだろう。
 敵はもう、紗英だけじゃない。


 *

 音楽が鳴り響く放課後の体育室は、理想の私を演じられる場所。
 長い髪さえも小道具にして華やかに身体を弾ませれば、みんなが羨望の眼差しで私を見つめる。
 上手い、すごい、カッコイイ、綺麗。どんな囁きも力になって、私をいっそう輝く存在にしてくれる――はずだった。
 そう、昨日までは。


「ねぇ、今日どっか調子悪いの?」

 一曲踊り切った私のところに、紗英が不意に歩み寄ってきた。

「なんで?」
「うん……音に遅れるなんてりりあらしくないから」

 他の誰でもない、紗英に気づかれるなんて不覚。
 頭が重くて色々モヤモヤして、さっきからパフォーマンスに集中できてないのは自分でもよく分かってる。こんなの『完璧なりりあ』にはあり得ない。
 でもそれもこれも全部、元を正せば紗英の存在が原因だ。

「ちょっと寝不足なだけだよ。心配かけてゴメンね」

 毒を吐きたい気持ちをグッとこらえて笑顔を返す。

「私のことより、紗英は平気?」
「ん? なにが?」
「……ほら、昨日大雨だったでしょ? 咳してる子も多いみたいだし、オーディション前に気になるとこないかなって」

 私は紗英の足元にチラリと目をやる。
 ピンクのダンスシューズは健在。どうやらソールの変化にはまだ気づいてないらしい。私の思惑通り、劣化はじわじわ進行してるんだろう。

「私は元気だよ~、体だけは丈夫なの。でもりりあが心配してくれるなんて嬉しい♡」

 顔の前でVサインなんかして、無邪気に笑う紗英がウザい。
 ああ、いっそぶっ倒れてくれればいいのに。

「なら良かった。あと5日……気をつけてね」
「うん、りりあもね! オーディションぜったいに一緒に頑張ろうね!」
「そうだね」

 笑顔の仮面をまといながら、本音を押し殺して会話する。なんて不毛なやり取り。
 一緒に頑張ろうなんて、楽しもうなんて。どこの青春アニメだろう。センターに立てるのはたった一人、オーディションは戦場だっていうのに。

 ふと背中に視線を感じて振り返る。
 斜め後方、数メートル離れたとろこにいた神宮寺と目が合った。
 2年生部員で集まってアップをする中、真顔で私をじっと捕える視線。手にはまた例のアイフォン。
 チームで上げるTikTokの撮影担当なのか知らないけど、今のあいつにカメラを構えて闊歩されるのは、まるで監視されているみたいで不気味だ。
 新たな敵、これ以上弱みを見せないように十分に用心しよう。そしてこっちも注意深く観察しなきゃ。
 少ししてお互いの目の向きが変わった後、私は改めてあいつに視点を戻した。
 頭一つ分飛び出した高身長に、ステージ映えするだろう長い手足。みんなと似たような白いTシャツに黒のスエットパンツなのに、良くも悪くも目立ってる。
 うちのダンス部は各学年にリーダーがいて、普段はそれぞれ学年チームで活動することが多かった。年に一度だけオーディションでメンバーを決定する、夏の大会チームで一緒にならなければ、学年を越えての交流は薄い。
 だから神宮寺の存在は認識していたものの、あいつがどんなヤツかなんて興味もなかった。去年の入部以来、私の視界に入りこんだこともないし、彼の名前を口にした記憶もない。
 それがこんな形で関わることになるなんて……。
 警戒しなきゃ。顧問やコーチにチクれば済むものを、わざわざ脅しのネタに使うようなヤツだ。これまで以上に距離を置いて、他人でいた方がいい。


 *

「りりあ先輩、お疲れっす。一緒に帰りません?」

 でもそんな考えを嘲笑うかのように、部活が終わってすぐ、神宮寺は私を堂々と引きとめた。
 体育室の出入り口。行き交う部員たちの目が気になって、慌てて彼につめ寄る。

「止めてよ、そんな大声で」
「あ~、すいません。でも先輩にこのまま逃げられたくなかったんで」

 珍しい私たちのやりとりを、みんなが興味津々で見ているのが分かった。
 それにたぶん気づきながら、神宮寺はニヤニヤと私に迫ってくる。

「俺、すっごく腹減ったんで。飯でも行きましょうよ」
「はぁ? どうして私が、あんたと……」
「ん? だって積もる話もありますよね。俺たちもう、ただの先輩後輩じゃないですし」
「ちょっと、その言い方……!」

 反論しかけた私に、神宮寺が自分のスマホをつきつける。

「ね? 行きましょう」

 こいつ……面白がってるんだ。ダンス部のリーダーとしていつもみんなに指示する立場の私が、動画ひとつで自分の思い通りに動くのを。
 底気味悪い支配欲にゾっとした。選抜にも入ってないたかが後輩の男に、好き勝手されるなんて屈辱でしかない。でもあの動画を拡散されたら終わる。
 大人しく言うことを聞くしかない私は、「分かった」と小さく頷いた。

 そんな恥辱的な光景が、近くにいた人達の目にはどう映ったんだろう。

「え? うそ! りりあと神宮寺くん? 意外~」
「ビジュ強カップル誕生じゃん。ねえ、いつから?」
「いいよね~部活内恋愛♡ 私もした~い!」

 キャッキャッと華やかな声を上げて、ここ一番の盛り上がりを見せる部員たち。ダンスをしてる時よりもぜんぜん楽しそうで、解せない気持ちが苛立ちになる。
 煩い。そんなんじゃない、そんなわけない。カップルとか恋愛とか、私はそんな浮ついた気持ちで部活をやっているわけじゃないのに。

「……バカみたい。そんな騒ぎ立てる暇があるなら、もっとダンスの練習でもすれば?」

 ポロっとこぼれた本音に、その場の空気が凍りついたのが分かった。
 あ……ヤバっ。『完璧なりりあ』なら笑顔で上手に交わさなきゃいけないのに、今日はそんな余裕がなかった。

「は~い、りりあゴメンね~」

 引きつった笑顔で含みのある返事をして、はしゃいでいた部員たちがダラダラと歩きながら立ち去っていく。
 やっちゃった……こういう感じ、久しぶりかも。ここまでどうにか上手くやってたのに、スルー能力発揮してきたのに。
 また少し、私の仮面が壊されていく。


 *

「りりあ先輩、待って下さい! だから飯っ」
「今日はお財布忘れたし、残高もないから」
「だったらとりあえず俺が出すんで。そこのサイゼでも入りましょうって」
「……お腹空いてない」

 駅までの道を早歩きで進む。
 半歩後ろからウザ絡みしてくる神宮寺に、交差点でとうとう腕を引っぱられた。

「俺に、そんな態度でいいんですか?」
「……もう今日は十分でしょ? みんなの前で私を服従させて、恥もかかせて。部長を懐柔させる2年の俺スゴイっていう、快感も得られたんじゃないの?」
「……」

 怒りにまかせてこいつの手を振り払った私は、どんなグチャグチャの顔をしてたんだろう。
 神宮寺は私を見下ろして少し黙りこんでから、プイと背を向ける。

「じゃあ明日の昼、ジュースでも奢って下さい」

 冷淡な口調でそう残すと、駅とは別方向に足早に立ち去った。
 やっと解放されてホッとする。


 ピロン♪ ママからのラインが来た。

【明日はお弁当いるの?】

 そう聞かれて、今日のが食べられなくて残っているのを思い出す。
 やばい。こんなの見られたら、またしつこく詮索される。
 食欲ないの? 何で? オーディション前に大丈夫なの? そんなんじゃセンターとれないわよ――って。
 私はコンビニ前のごみ箱に、お弁当箱の中身をひっくり返した。揚げ物とソースのちょっとすっぱい匂い。
 顔をしかめながらその場を離れると、ピロン♪ またラインが鳴る。

【明日も朝から部活よね?】
【オーディションまであと5日。1位とれるように頑張って!】
【りりあなら大丈夫。応援してるよ】

 底なしのママの期待と激励が、今日は過去イチ重く感じた。