その日は朝から叩きつけるような雨が降っていた。
 部活の時間になってもそれは止む気配もなく、体育室の窓に大きな水音がぶつかって弾ける。
 ヤダな、曲が聞き取りづらい。でもそんな素人みたいなことを言ってる場合じゃないから、ふぅっと深呼吸をして集中力を戻した。
 今日はコーチが直接指導に来てくれてる貴重な日。
 見て、真似て、習得して。できる限り自分のパフォーマンスをアピールしなきゃって、みんないつも以上に気合が入ってる。

「りりあ、イイね。細かいところまで拾えてるし、正確に音をつかめてる」

 大会ナンバーのコレオグラフと、オーディションのメイン審査を担当するMasa(マサ)コーチが、私を名指しで褒めてくれた。
 プロの世界で実力と人気を誇る、20代半ばのイケメンダンサー。縁が合って数年前から、揚斗(あげと)高校ダンス部の指導に当たってくれている。
 ジャンルはフリースタイル。ヒップホップをベースにグルーヴ感を大切にした、物語性のあるダンスをするのが特徴。
 彼のレッスンを受けたくて入学してくる生徒もいるってほど、部員にとって憧れの存在だ。もちろん私もその一人。
 だからね、コーチから特別に声をかけてもらえるなんて優越感と安心感が隠せない。107人の羨望と嫉妬を背中に感じながら、私は「ありがとうございます」と大きく頭を下げる。

「でも今回の振り付けすごく難しくて、まだ自分のものにできてる感はないです」
「そう? 体の使い方もいいし、音ハメもバッチリ。スキル、表現、完成度って、90点はいってると思うよ」
「いえ、そんな……」

 やった! 私に対するコーチの評価、予想以上に高い!
 思わず口元が緩むと、Masaコーチはちょっと考え込むようにして言葉を続けた。

「でも、もっと自由に踊ってもイイかな」
「自由に……ですか?」
「うん、りりあのダンスは綺麗すぎるのが惜しいから。りりあが踊りたい! ってものをもっと観たいかも」
「はぁ……」

 煮え切らない返事をしてしまった。
 コレオグラファーの落とした振りを、正確に踊るのがダンサーの役目なのに。それが求められるはずなのに。
 自由って、なに? 私はいつだって、できる最高のダンスをしてるはずだ。


 スピーカーから再び課題曲が流れ出した。この二日で100回以上は聞いてるだろうアップテンポのJ-POP。
 コーチが軽やかに鏡の前に立ち、アップ代わりに上半身をウェーブする。

「じゃあ、一度踊って見せるから。全員その場に座って。――あ、っそうだ。たまには一緒にやるか」

 そして思いついたように呟き、こちらにふわっと笑顔を向けた。
 一緒に……って。ウソっ! Masaコーチとデュオ⁉ こんなチャンスめったにない。嬉しい! 私は胸の高鳴りを抑えながら、意気揚々と彼の隣に歩み寄る。なのに――。
 彼の視線は次の瞬間、あっさりと私を通り越し、後ろの列に注がれた。

「紗英、いけそう?」

 はぁ? なに、それ……。
 信じられない気持ちで背後を振り返る。
 紗英はいったんしゃがみかけて、コーチの呼びかけに目を白黒させながら再び立ち上がった。

「え? え⁉ 私ですか?」
「うん、ちょっとオレと並んで踊ってみようか」
「は、はい!」

 硬直する私の脇を、彼女は小走りですり抜けていく。
 どうして……どうしてあの子が選ばれるの?
 中央に立った紗英は3桁の部員の視線を浴びて、モジモジしながら顔を赤らめた。恐縮してる素振りなんか見せても、内心では鼻高々に違いない。
 なんでよ。実力的にもさっきの流れからしても、そこに立つのは私じゃないの?
 前に出ようと踏み出したこの右足が、どうにもこうにも引っこみつかない。悔しくて恥ずかしくたまらない。


 曲が流れ始めると、2人はアイコンタクトでカウントを取ってから腕を弓なりに振った。
 コーチのダンス、やっぱり素敵。全身をつかって自由自在に音を操る、柔らかくてキレのある動き。私の目指すとこだ。
 それに比べて紗英は緊張してるのか、いつも以上に手足の動きが先走ってる。ステップは尖り過ぎてるし、ターンも首の残しが甘くて上手いとは言えない。
 それなのに……目が離せないのはなぜだろう。
 紗英の短い髪から飛び散る汗がキラキラ光って、こんな悪天候にも関わらず太陽が差しこんでいるように見えた。形容しがたい吸引力に思わず息を飲んでしまう。

「平均的にはまだ50点。だけど表現力に関しては200点だね」

 踊り終わってから、Masaコーチは紗英にそう伝えた。
 私には全部90点って、完成度も高いって褒めてくれたくせに。ダンスを始めてたった2年の紗英が200点ってなに?
 それじゃ私のこれまでのダンス歴、ゴミみたいじゃん。

 昨日のママの言葉を思い出す。
『心配いらないわよ。りりあは10年以上も続けてるんだから』
 本当に、そう……?
 視界をふさぐ闇のような感情が一瞬で私の胸を覆った。
 恐い、不安、どうにかしなきゃ。このままじゃ負けるかもしれない。勝利を確実なものにするには、やっぱり紗英が邪魔だ。
 私が望むのは次のオーディションで1位通過して、大会ナンバーのセンターに立つこと。そのために今より自分が上昇できないなら、這い上がってこようとするヤツを蹴落とすしかない。
 紗英を潰すしかないんだ。


 *

 ダンス部には男女それぞれ更衣室があって、離れのここが『部室』と呼ばれる共有スペースになっていた。
 プレハブの奥行ある細長い部屋に、採光のための小さな窓が1つ。壁面に置かれた机やラックには毎日使うスピーカーとiPad、ノートや筆記用具の他、衣装や小道具だったりが所せましと並べられている。
 先生やコーチとの打ち合わせに使ったり、時には作業部屋にもなったり。日中は誰もが自由に出入りできる場所としてオープンになっているけど、ゴチャゴチャしてて長居するには向かない。

 そんな部室を1日の最後に点検して戸締りをするのは当番制で、今日は私の仕事だった。
 グルッと全体を見渡しながら突き当りを目指す。普段から薄暗い室内が、雨のせいでいつも以上の閉塞感だった
 チカチカする光で目が痛い。あっ、奥の蛍光灯が切れかかってる?
 そんなふうに天井に気をとられていたら、足もとの何かに躓いて、私は派手に床に膝をついてしまった。

「っ痛っ……誰⁉ こんなとこに、また置きっぱなしなのは」

 怒りのぶつけどころに困って、思わず一人で声を荒げる。目線を下ろすと、部員のものと思われる私物がゴロゴロ。
 日々持ち帰るようにって何度も伝えてるのに、ペットボトル、お菓子、制汗剤、湿布箱、英コミの教科書まで。先週にはなかった物が明らかに増えていてうんざりする。
 体育室に一番近いここに置いて帰りたい気持ちは分かるけど、このままじゃ危ないしまた先生に注意されてしまう。部長として素通りするわけにもいかず、薄暗がりの中、私は散乱していたみんなの私物をまとめ始めた。
 そしてソレ(・・)を、見つけてしまった。

 3本の細いゴールドのラインが入ったローズピンクのスニーカー。もちろん一目で紗英のものだって分かる。
 可愛いくて派手なレアものシューズ、初心者で地味なあの子には不相応だってずっと思ってた。

「目立ち過ぎでしょ、いろいろ」

 低い声で悪態をついて、私は床に転がっていたソレをつまみ上げた。
 紗英が私物を置きっぱにするのは珍しい。ああ、そう言えば。帰りがけにコーチと顧問に呼ばれて、慌てて体育室を飛び出していったっけ。もしかしたらその時に、ここに脱ぎ捨てて行ったのかもしれない。
 何の話をしたんだろう。何で紗英だけ声をかけられたの? 最近あいつだけ特別扱いされてる気がする……。
 一定のペースでチカチカする頭上の蛍光灯が、脳内を引っ掻き回すみたいで不快だ。頭も痛い。それもこれも全部紗英のせいな気がする……。

 私は衝動的に机にあったハサミをつかみ取ると、ピンクのスニーカーのアッパーと底ゴムの間を裂くように、縦に刃先を刺しこんだ。
 ザクッ。ザクッ。
 きっと紗英はオーディションでも、この履きなれたダンスシューズで踊るはず。
 だから少しだけ……ちょっと切り込みを入れるだけ。ジワジワくる足の違和感で、パフォーマンスが乱れればいい。
 柔らかいメッシュの素材から硬いソールを剝がすように、力強くでも慎重に、ハサミを何度も握り直して切り進めていった。指が痛い。でも破壊の衝動を止められない。
 今度はインソールをぐいっと引き抜く。
 サクッ、サクッ。軽い。
 踵のクッション部分よりちょっと前、土踏まずのところに気づかない程度にハサミを入れておこう。きっと練習するたびに圧力でここから裂けていく。踊っている時にインソールに異変を感じれば、さすがの紗英も自由に伸び伸びとは踊れないはずだ。
 
 外は相変わらずの大雨。
 プレハブの低い屋根にバラバラと打ち付ける打楽器のような雨音が、私の心音さえもかき消していた。
 ――だから、ぜんぜん気づけなかったの。
 部室のドアが開いて誰かが近づいてきて、カメラを向けられたことなんかも全部。


「あ~あ、りりあ先輩。ヤバくないすか? それ」

 嘲笑をふくんだ低い声で、私はハッと我に返った。
 恐る恐る振り返るとブレザー姿の男がスマホ越しに私を見つめ、ニヤリと口元を緩ませる。
 この顔、知ってる。
 センター分けした長めの黒髪に、すっきりとした涼し気な目もと。うちの部ではちょっと珍しいチャラ系イケメン。
 たしか、2年の――

「……神宮寺(じんぐうじ)くん、まだ帰ってなかったの?」
「ノート当番だったの忘れてて引き返してきたんです。まだ電気ついてるのが見えて、ラッキーって」

 私に向けていたカメラレンズをやっと下ろして、彼はスマホ画面を何度かタップしながらこっちに近づいてきた。
 頭と肩が雨で濡れている。今来たの? それともかなり前? とにかくヤバい動画を撮られたのは間違いない。
 足もとに転がるダンスシューズと、私の手の中にあるハサミと破れかけたインソール。それらを交互に指さしながら、神宮寺は薄く微笑んだ。

「まだ新しいのに、そんなふうに切っちゃったら踊れなくなりますよ」
「そんなこと、君が気にすることじゃ……」
「ってか、そのピンクのアディダス、紗英先輩のですよね?」
「⁉」

 ヤバい。私は反射的にハサミを後ろ手に隠す。もしかして全部バレてる? 私が何を望んでこんなことをしたのか。
 神宮寺の口調は冷徹で、視線は全てを見透すように冷淡で。私の心臓は破裂するんじゃないかってほど激しく脈打って、背中には嫌な汗が流れた。

「部長がそんなことして、顧問やコーチにバレたらアウトじゃないすか?」

 ジリジリと追いつめてくる神宮寺から逃れようと、私は無意識に後ずさって壁に背中を体当たりする。冷やりとした感覚。
 逃げ場を失った私を、彼が覆いかぶさるように真上から見下ろす。鋭い目。揺れる長めの前髪から雨の雫がぽたりと落ちてきて、私の頬をうっすらと濡らした。
 私は唇を震わせる。

「動画……撮ったの?」
「はい、バッチリ」
「紗英に……言うの?」
「そんなことしたって、俺にメリットないんで。何かもっと面白いことに使おうかと」

 神宮寺は厭らしく目を細めた。背筋がゾクッとする。この動画をネタに私を脅す気だとすぐに分かった。
 オーディション前の大事な時期にこんなことが知れ渡ったら、間違いなく大会メンバーにはなれない。積み上げてきた信頼も地位も立場も何もかも失くして、部のヒエラルキーが崩壊する。
 ダンスにかけてきた私の人生も終わりだ。

「……どのくらい渡せばいいの? 今日はあんまり持ってきてないんだけど」

 おずおずとそう口にすると、神宮寺は一瞬ぽかんとした間抜け面になる。
 そしてクッと抑えたように笑いをこぼしながら、私の肩を力強くつかんだ。

「そっちはまた今度ってことで。とりあえず――」


 *

 青チャート10ページ⁉ それも明日まで⁉ いくら数Ⅱの範囲だからって、何で私がこんなことしなきゃいけないのよ‼

 真夜中の1時過ぎ。
 私は自分の部屋で机に向かいながら、半泣きでシャーペンを走らせていた。
 私の弱みを握ったあいつがまず要求してきたのは、大量に溜めこんだ数学の課題。それも難問ばかりのくせに、解答もない。
 帰宅してからすでに2時間は潰された。ダンスの練習をするつもりだったのに、もう疲れて眠くて目がショボショボしてる。
 
 
 オーディションまで、あと六日。
 神宮寺に素顔を暴かれて、私の日常が決壊しはじめた。