案の定、電話がかかってきた。悪夢の翌日の夜の9時。早桐社長の長男からだった。かなり深刻なのだろう、声が切羽詰まっていた。
 取引銀行や経営幹部を巻き込んで社長を説得したが、まったく聞く耳を持ってくれないという。それどころか、意地になって、住宅地立地の店舗開設を進めているという。今は投資の段階なのだからなんの心配もいらない、と強気な姿勢を変えようとしないという。

「もう一度、相談に乗っていただけないでしょうか」

 弟と新たな対策を考えたので、アドバイスをもらいたいと懇願された。

「わかりました」

 翌日の午後、話を聞くことにして、電話を切った。

        *

 ホテルのロビーで落ち合った。彼らは先に来ていたが、この前、会った時よりも表情が暗いように見えた。精神的に追い詰められているのだろう、かわいそうなくらい顔色が悪かった。

「これが新たな対策案です」

 ラウンジのテーブルに座って、コーヒーを注文し終わると、長男がファイルから紙を抜き出し、わたしの前に置いた。『住宅地立地店舗の抜本的改革』と記されていた。

 ん? と思った。住宅地立地店舗からの撤退ではなく、抜本的改革となっていたからだ。そのことを質すと、苦渋の選択だと返事が返ってきた。撤退という言葉に拒絶反応を示すので、次善の策を考えざるを得なかったのだという。

「先ず、店名を変えます。住宅地立地の店舗はすべて『健髪カット』という店名に変更します。退職者世代の男性の関心は健康というキーワードに絞られるといっても過言ではありませんので、そこに訴求するのです。髪の毛が少なくなり、細くなり、ほとんど白髪になり、顔のシワやシミと相まって、老いを実感せざるを得なくなる年齢の男性には〈健髪=健やかな髪〉という訴求に多くの人が惹かれるのではないかと考えました」

 その上で、オペレーションを変えるという。駅前立地店舗にはない〈頭皮マッサージ〉を加えるというのだ。

「健やかな髪は健やかな頭皮から生まれますが、頭皮の状態に関心を持っている退職者世代の男性はほとんどいないと思われます。ですので、健やかな頭皮のための頭皮マッサージを施術に加えれば、インパクトがあると思うのです」

「でも、そんなことをすると10分では終わらないのではないですか?」

「はい。その通りです。ですので、カットと頭皮マッサージで30分を予定しています」

「えっ、でも、それだと1,000円では無理でしょう」

「はい。3,000円を予定しています」

「3,000円? でもそれだと価格訴求力がないのではないですか?」

「いえ、そんなことはありません。30分で3,000円ですので、10分1,000円という時間単価は同じということになります」

「といわれても、それなら今までの理髪店と変わらないと思うのですが?」

「いえ、一般の理髪店は40分前後で4,000円強というのが平均的な価格ですので、30分3,000円は差別化になると考えています」

「でも、4,000円の中にはシャンプーとシェービングが入っていますよね。それがないとなると……」

 頭皮マッサージを加えたとしても魅力ある価格だとは思わなかった。それに、1,000円高くてもシャンプーとシェービングをしてもらいたいという客が多いのではないだろうか。それを質すと、「そうでしょうか。それは高彩さんがお金に余裕があるから言えるのではないですか。退職者世代はイコール年金生活者です。彼らにとって1,000円の価値は〈たったの〉という一言で切り捨てられるものではないと思います。1ヵ月1,000円節約できれば、年間で12,000円の節約になります。これは大きいのではないでしょうか。シャンプーやシェービングがなくても1,000円安いほうがいいと思う人は多いと考えています」と長男が自信たっぷりの口調で返してきた。

 わたしはそうは思わなかった。だから返す言葉を考えていると、そうはさせじ、というふうに今度は次男が説得を始めた。

「速攻カットではお金と時間を節約したい方のニーズに応えて10分という短い時間で仕上げますが、健髪カットではカットと調髪に20分かける予定です。これはお客様の満足度を上げるためです。更に、頭皮マッサージと首・肩のマッサージに10分かけます。丁寧なカットと調髪、そして時間をかけたマッサージを求める方が多いと思うからです」

 それでも理解できませんか? というような視線を投げられたが、首を縦に振ることはできなかった。すると、すぐさま長男が話を引き継いだ。

「速攻カットは時間とお金を節約したい人たちのニーズを捉えて成長してきました。社長の方針は間違っていなかったと思います。しかし、安かろう悪かろうというイメージを持っている人も少なくないということも事実です。残念ですが、来店することもなくイメージだけで批判している食わず嫌いの方も多いようです。そういう人たちを取り込むためには、速攻カットとは違うアプローチが必要なのではないでしょうか」

「う~ん、そうかな~」

 納得できないでいると、また次男が畳みかけてきた。

「健髪カットのビジネスモデルが確立できればお客様の選択肢を増やすことができます。時間とお金を節約したい方には速攻カット、速攻カットよりは時間をかけて調髪したい、頭皮マッサージも受けたいと望まれる方には健髪カットをお勧めすることができるのです。それだけではありません。選択肢が二つあれば、今月は速攻カット、来月は健髪カット、というように使い分けることも可能です。予算や時間、欲求や気分によって使い分けることができるのです。お客様にとって大きなメリットがあると思います」

 加えて、社員にもメリットがあるという。

「年中同じ仕事を繰り返している社員のマンネリ化が心配です。マンネリが起こると注意が散漫になり、ミスが目立つようになります。大きな失敗の原因にもなります。我々はお客様商売です。お客様に何かあったら大変なことになります。社員のマンネリ化は絶対に防がなくてはなりません。そのためにも、タイプの違う店舗が必要なのです。そうすれば、社員のローテーションが可能になり、マンネリ化が防げます。更に、カットだけでなく、マッサージの腕も磨くことができます。お客様との会話を楽しむこともできます」

 良いこと尽くめだと言う。確かにまともな話に聞こえはするが、内容が表面的過ぎて首を縦に振ることはできなかった。

「でも、今の説明では社長は納得されないと思いますよ」

 ビジネスモデルを変えることを早桐社長が良しとするわけはない、と突き返した。それでも、長男は諦めなかった。

「ですので、高彩さんにお力をお貸しいただきたいのです。最後は喧嘩別れのようになったかもしれませんが、父は高彩さんのことを高く評価していましたから」

「そうなんです」

 間髪容れず、次男も食い下がってきた。

「この新たなビジネスモデルだけでなく、経営体制も変えたいと思っていますので、どうしても高彩さんのお力が必要なのです」

 これを機会に早桐社長に相談役に退いてもらって、長男が社長、次男が副社長という体制にしたいのだという。

「もちろん、相談役に退けと言っても納得しないでしょうから、新たな役割を担ってもらいたいと思っています」

 それは、最高技術顧問という立場だという。社長は理容師として天才的な技術を持っているので、速攻カットと健髪カットに所属する全理容師への技術指導を頼めば、悪い顔はしないはずだし、相談役兼最高技術顧問という肩書はプライドをくすぐるのではないかという。

「無理だと思います」

 わたしは即座に否定した。社長がそんなレベルの話をまともに聞くとは思わなかった。それに、彼は株式の過半数を持っている。

「逆に、お二人が切り捨てられますよ」

 身内とはいえ、自分に逆らう者には容赦なく断を下すはずだからだ。

「そもそも、今日のお話は余りにも稚拙です。たんに頭の中で考えた机上の空論としか思えません。根拠のない計画は混乱をもたらすだけです」

「でも、時間がないのです。このままでいくと会社が持たなくなります。やるしかないんです」

「いや、それは違います。拙速はダメです」

 この案は、住宅地立地店舗を推し進めた早桐社長となんの違いもないと戒めた。

「では、どうすればいいのですか?」

「答えは一つしかありません。今すぐ住宅地立地店舗を閉鎖してください」

「無理です。それができるのなら高彩さんに相談しに来ていません。社長がウンと言わないから代替案を考えたのです。これしかないんです」

 堂々巡りになった。どんなに指摘しても、彼らは意見を変えようとしなかった。助けてくださいと言いながら、こちらの意見に耳を傾けるつもりはないようだった。これ以上、話を続けても無理だと思った。厳しいことを言うしかなかった。

「もうこれ以上わたしがお手伝いできることはありません。申し訳ありませんが」

 冷たいようだが、中途半端な策に手を貸すわけにはいかない。心を鬼にして話を切った。伝票を掴んで支払いをし、ホテルから外に出たが、追いかけてくる人は誰もいなかった。