後味の悪い退職になったし、社長に対して申し訳ないという気持ちは消えなかったが、それでも、区切りがついたことに安堵のようなものを覚えているのも事実だった。

 これでやっと再スタートができる。
 夢丘のためにすべての時間を使うことができる。

 そのことを考えると、体の奥底から何かエネルギーのようなものが湧き出してくるのをはっきりと感じることができた。
 といっても、問題の解決の糸口が掴めたわけではなかった。トップクラスのスタイリスト10人とアシスタント5人の目処はまったく立っていないのだ。唯一、夢丘が口にした店長の名前があったが、恩義を仇で返すようになるので、自制しているという。

「でも、話をしてみないとどうなるかわからないのだから、言うだけ言ってみたらどうかな?」

 店長だっていつまでも雇われのまま働くのではなく、独立を考えているかもしれないので、意外と乗り気になってくれるかもしれないと仄めかした。無理に引き抜くのではなく、店長の意志によって参加してくれるかもしれないのだ。そうなれば、後ろ足で砂をかける行為にはならない。

「そうかもしれませんけど、今回の話は独立とは違いますし、雇われではないとしても業務委託ですから……」

「もちろんそうだけど、でも、個人事業主として仕事ができるわけだし、それに、日本一高いビルの最上階で腕を振るえるのは、美容師冥利(みょうり)に尽きるのではないかな」

 こんな経験は滅多にできないのだから、あの店長なら間違いなく興味を示すに違いないと背中を押した。

「とにかく、会ってみようよ」

 それでも踏ん切りが付かないようだったが、NOという言葉も出てこなかった。あとは任せて欲しいと告げて、これからすべきことに思考を切り替えた。

        *

 店長を口説き落とすためには何が必要か?

 夢丘と別れてから考え続けた。ただ一緒にやりましょうでは子供の使いになる。城を攻める時は堀を埋めなければならない。

 では、堀とは何か?

 それは、スタイリスト10人とアシスタント5人の目処に違いなかった。これがなんとかなれば、店長の心を動かせるかもしれない。お膳が整った席に案内すれば、あとは食べるだけなのだ。おいしいご飯を前にして、席を立つ人はいないだろう。

 さあ、どうする?
 神山に相談するか?

 でも、彼は美容業界にパイプを持っているわけではない。相談されても、困った顔になるのがわかりきっている。

 では、誰かいるだろうか?

 そこまで考えると、1人の顔が浮かんできた。東京美容支援開発の担当者だ。彼なら美容業界を熟知しているし、豊富な人脈を持っているかもしれない。それに、開業支援だけでなく、業務として美容師のリクルートを行っていれば、即戦力を紹介してもらえるかもしれない。わたしはすぐに机の引き出しからパンフレットを取り出して、ページをめくった。

 あった。『美容師の転職・求人』と書かれてある。転職実績は都内トップクラスと明記されていた。早速、アポイントを取って、話を聞くことにした。