宮国は本社ビルの役員会議室にいた。そこには研究開発推進本部のプロジェクトメンバーが集められており、今後の方向性を決める重要な発表がなされることになっていた。

 会議開始の時刻になった。
 ドアが開くと、本部長が立ち上がった。みんなの視線の先には社員なら誰もが知っている男性の姿があった。社長だった。

 宮国は、社長が着席するのを固唾を飲んで見守ったが、その時、不意に今までの道のりが走馬灯のように蘇ってきた。

 MBA取得後、希望通り研究開発推進本部へ異動となった宮国は、選抜された5人のメンバーと共に将来のポートフォリオ(企業価値を高める最適な製品構成)を考えるプロジェクトに参加した。
 プロジェクトでは数多くの選択肢を検討し、時間をかけて喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を戦わせたが、最終的に候補を3つに絞るという判断を下した。

 ・現在主力の生活習慣病薬を拡充し、その領域の後発薬にも参入し、将来はOTC(大衆薬)も手掛けて、生活習慣病の総合メーカーとなる
 ・遺伝子治療や抗体医薬のバイオベンチャーを買収し、がん治療薬を将来の経営の柱とする
 ・大手との競合を避け、皮膚科や眼科といったニッチ領域でグローバル・ナンバーワンを目指す

 議論が進むにつれて、プロジェクトメンバーの意見はバイオベンチャーの買収に傾いていったが、宮国はただ一人反対した。とてつもない資金が必要になるからだ。製薬会社の買収合戦は過熱し、有望な新薬候補を持っているバイオベンチャーの買収には数千億円から数兆円の資金が必要になっている。

 そんなけた外れの金をどうやって調達するのか?

 宮国には想像もできなかった。それに、もし買収できたとしても、開発中の新薬が承認を取得できる保証はない。新薬の承認が取れないリスクを考えると、ゾッとする以上の怖さを感じた。

 経営は博打ではない。
 取り返しのつかないリスクを負ってはならない。

 そんな宮国の意見を押してくれていた経営会議メンバーは専務ただ1人だったが、社長と衝突したのか、突然、辞任してしまった。
 それを聞いて、落ち込んだ。孤立無援になったからだ。それでも自分の意見を曲げることはなかった。粘り腰を発揮して、プロジェクトメンバーを口説き落としたのだ。
 その結果、選択肢と優先順位は、
 ・『遺伝子治療や抗体医薬のバイオベンチャーを買収し、がん治療薬を将来の経営の柱とする』案が優先順位『高』
 ・『大手との競合を避け、皮膚科や眼科といったニッチ領域でグローバル・ナンバーワンを目指す』案が優先順位『高』
 ・『現在主力の生活習慣病薬を拡充し、その領域の後発薬にも参入し、将来はOTC(大衆薬)も手掛けて、生活習慣病の総合メーカーとなる』案が優先順位『低』
 となった。

 宮国を除くプロジェクトメンバーは全員バイオベンチャー買収案を推していたので、報告書の初稿ではニッチ領域でのグローバル・ナンバーワン案は優先順位『中』と書かれていたが、宮国の必死の説得が功を奏し、報告書の最終稿で優先順位を『高』に格上げさせることができたのだ。その結果、優先順位『高』を2案併記して経営陣に最終判断を委ねることとなった。

 会議の開始を告げる司会者の声で宮国は今に戻った。本部長が出席メンバーを紹介すると、社長は労いの言葉を発したあと、ファイルから1枚の書類を取り出した。

「取締役会での決定事項を伝える」

 プロジェクトメンバーの顔を一人一人見ていき、宮国と目が合った。その瞬間、とてつもない緊張で体が強ばった。

「それでは発表する」

 会議室が異様な静まりに包まれる中、結果が告げられた。

「バイオベンチャーを買収し、がん治療薬を将来の柱とする」

 言い終わるや否や歓声が上がった。宮国以外のメンバー全員が拍手をして肩を叩き合い、会議室にいる誰もが興奮に包まれていた。一人を除いては。 

 宮国は目の前が真っ白になった。
 社長の顔が見えなくなった。
 椅子の背もたれに寄りかかって、体を支えるのがやっとだった。

「終わった……」

 宮国の呟きに気づいた者は、誰一人いなかった。