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この夏祭りには昔から、何度も行ったことがあった。小さな頃は祖父母や両親と。小学校高学年に上がってからは、学校の友だちと。屋台で使うためのお小遣いを入れるために首からぶら下げて使っていた小さなコインケースは猫の顔の形で、ガーネットによく似ているところがお気に入りで愛用を続けている。
 でももう朔弥は高校生なのだから、ネコちゃんコインケースを首から下げるのは子どもっぽいかも。しかも、好きな人とのデートで……。
 デート。そう、夏祭りに好きな人とふたりで遊びに行くなんて、立派なデートだ。デート中のデート、と言ってもいい。デートの見本だ。日本橋の百貨店に「デート」として売られていてもおかしくないくらいの、デート!
 先輩も、デートだって言ってくれた。何回も、楽しみだね、って。
 先輩、旅行から帰ってきたばかりなのに、疲れてないかな。心配だったけれど、さっき無事家に着いた、というメッセージがあった。圭一郎が旅行中に送ってくれた写真は、朔弥にも海外旅行気分を味わわせてくれる。
 朔弥はときめきを抑えきれなくなり、ベッドの上で暴れた。ガーネットが暴れている朔弥の背中の上に、ぴょん、と飛び乗って、そのままちょっと落ち着いて丸くなったので、朔弥は動けなくなってしまった。
「ガーネット、あったかい」
「にゃう」
「ふふふ」
 朔弥はうつ伏せになったまま、背中の上のガーネットに腕を伸ばしてみる。変わらぬやわらかいぬくもりが、指先に触る。かわいいガーネット。うんと賢くてしたたかで、いつも朔弥に優しい。圭一郎と仲よくなれたのも、ガーネットがいたからだ。
「ありがと、ガーネット。ぼくね、明日先輩と、お祭りに行くんだ」
「んにゃぉ」
 ガーネットは小さな顔を朔弥に近づけて、ふんふん、と話を聞いている。猫って、絶対絶対人間の言葉わかってる! それなのに人間のほうは猫語を理解できなくて、朔弥はいつももどかしい。
「……ぼくね、先輩に、好きですって言おうと思って……」
「に〜ぅ」
「うまくいくと思う?」
 ガーネットのざらざらのかわいい舌が、朔弥のほっぺたを舐める。励ましてくれているのがわかり、嬉しかった。朔弥はくるり、と体勢を入れ替えると、ガーネットをぎゅうっ、と抱きしめて、「おやつ食べよ!」と言った。
 リビングでガーネットにおやつを食べさせている朔弥を見たお母さんは、「あっ! さっきおじいちゃんにもおやつもらってたのに! 朔ったら、またガーネットのかわいさにやられたのね」と笑っていた。それでもガーネットのダイエットは順調で、スリムになってきているのだ。おやつもちょっぴり高級な、ローカロリーのヘルシー路線。
ガーネットは賢いので、朔弥の前ではちょっとお姉さんっぽい、ツンとした姿を見せるのに、お母さんの前では赤ちゃんみたいな顔になる。お母さんはいつも「あたしはガーネットに騙されない」と豪語するのに、一番デレデレなことを朔弥はよく知っている。
「朔、プリン食べる?」
「食べる!」
 冷蔵庫を開けるお母さんの背中に、「ねぇお母さん」と呼びかける。
「なに〜?」
「あしたね、先輩とお祭り、行くんだけどぉ」
「うん」
「なに、着ていこうかなぁ。どんなのがいいと思う?」
「デートなのね」
「えっ!? あっ、ウン、まぁ、そうなんだけどぉ……」
「浴衣は?」
「浴衣!?」
 お母さんはガラスのお皿にプリンを移し替えながら、「だってお祭りデートと言えば、浴衣じゃないの。ねぇおばあちゃん」と言った。
 おばあちゃんはガーネットを撫でながら、うんうん、と頷いた。
「浴衣、かわいいけどねぇ。途中で着崩れたら、朔ちゃん直せないでしょう」
「そっか〜」
「甚平は?おじいちゃんのお下がりのがあるよ」
「朔が甚平着たら、なんだか赤ちゃんみたいね」
「かわいいよぉ〜似合うよぉ〜」
 おばあちゃんはそう言って、たんすからおじいちゃんのお下がりの甚平を出してきてくれた。防虫剤のにおいが、とってもノスタルジー。
「ほらぁ。かわいい」と、おばあちゃんが朔弥を褒めてくれる。しかしおばあちゃんは年中無休で朔弥をかわいいと言うので、果たして家族以外の人にもそれが通用するのかどうか……。
「あ、ホントだ。おじいちゃん、こんなかわいいの着てたの?」と、お母さんも言った。お母さんも朔弥のことをかわいいかわいいと言うので、家族以外の人から見るとどうなのかはちょっとわからないけれど……。
「そうそう。五年前にね」
「へぇ~、最近じゃないの。ちょっと大きいかな? でも甚平はそんなにサイズ、気にしなくていいよね」
 朔弥は甚平を身体に当てられて、ちょっと照れながら聞いた。
「かわいい?」
 お母さんとおばあちゃんは頷いて、「「かわいい〜」」と言った。デートにふさわしい。きっと圭一郎くんも、かわいいって喜ぶんじゃないの? と口々に太鼓判を押してくれる。かわいいかわいいと褒められると、すなおな朔弥はその気になり、じゃあこれを着ていこう、という気持ちになる。朔弥は小さな頃から、かわいい、と褒められ慣れているのですなおなのだ。
 甚平は大急ぎで洗われ、防虫剤のにおいを落とされ、乾燥機でふっくらされて、おじいちゃんから朔弥に所有権が移った。何しろ、お祭りに行くのは明日の夕方なのだ。今すぐ洗わなければ、間に合わないかもしれない。
「……先輩と、デート……」
 ハンガーにかけられた甚平を見ていたら、なんだか緊張してくる。先輩とは毎日一緒に学校に行って、しょっちゅう一緒にお昼を食べて、一緒に帰る日もあるのに、ちっとも慣れなくて毎日どきどきして緊張するのに、家に帰るとすぐに会いたくなった。
夏休みは約束がないと、会えないんだ。だから寂しくて、先輩から連絡が来るとすごく嬉しい。
「……他に好きな人がいるんだ、って言われたら、どうしよう……」
 先輩はかっこいい。先輩のことを好きな人は、きっとたくさんいる。朔弥の知らない圭一郎の顔を知っている誰かが、もしいたら。
 もう何回も考えたことだった。朔弥は圭一郎が好きだけど、圭一郎は?
 先輩にとってのぼくは、後輩とか、弟とか、猫好き地元仲間でしかないのかもしれない。時々つなぐ手も、撫でてくれる頭も、深い意味なんてひとつもないかもしれない。
「……」
 考えると、苦しくなっちゃう。
 ベッドの上で、猫みたいに丸くなってタオルケットをかぶり、その苦しさをやり過ごす。
 先輩。先輩に、他に誰か好きな人がいたとしても、ぼくはずっとずっと、先輩のことが好きなままだと思う。
 スマホにメッセージが届く。圭一郎からだ。
『明日五時に迎えに行く。たこ焼きと焼きそば両方食べよう』
 そのメッセージに、ブレブレのざくろの写真が添付されている。
「……ふふ、かわいい……」
 ざくろちゃん、先輩が旅行から帰ってきて嬉しいんだろうな。ぼくも嬉しい。早く、先輩に会いたい。
 なんだかどきどきして、眠れそうにない。夕飯を食べて、お風呂に入って、もう寝るだけになってからも、楽しみでどきどきした気持ちが収まらないのだ。
 いつも朔弥が眠たくなるまで続く圭一郎とのメッセージのやりとりも、いつもより長く続いた。先輩、疲れてませんか。大丈夫ですか。そう送ると、明日が楽しみで眠くないから、と返してくれた。
 先輩とぼくが、おんなじ気持ちならいいのに。ぼくがこんなに先輩が好きで、先輩のことばかり考えているのと同じくらい……いや、同じくらい、はワガママかもしれないけど。
 恋って、好きな気持ちが進むとどんどんワガママになるみたいだ。先輩にこれ以上、甘えちゃダメだなって思うのに。先輩はどれだけでも甘えさせてくれそうな、そんな優しさを持っている。
 夜遅くまでメッセージを交換し続けて、気づいたら眠っていた。翌日は朝寝坊。でももう夏休みなのだ。どれだけ寝坊しても大丈夫。ガーネットが、朔弥のほっぺたを肉球で押しに来て、ようやく目が覚めた。
「……も、もうお昼だぁ……」
 カーテンを開くと、空は雲ひとつない快晴だ。きっと夜も、気持ちよく晴れて花火がよく見えるだろう。
「朔~、起きた~? お素麵あるよ~」
 お母さんの声がする。お素麺! お中元でもらった、高くておいしいやつ!
「食べる~!」
 朔弥はガーネットを抱いて、リビングへと降りていく。先輩とデート。そう思うと嬉しくて、足の裏も爪先もふわふわしているみたい。
 そうめんを食べながら、お母さんに「寝癖がすごいわよ」と笑われる。先輩が来てくれる前に、お風呂に入ろうかな……寝癖がすごいのは、恥ずかしいし……。
 そんなふうにそわそわしていたら、あっという間に夕方になる。夏の日は長くて、五時はまだ明るい。でもやっぱり真昼とは違う、夕暮れ時の気配を含んでいる。
 お風呂に入って寝癖を直した朔弥は、甚平を着て鏡の前に立つ。
 ……かわいい? かわいい、というか……やっぱりお母さんの言ってた通り、ちょっと赤ちゃんぽさがあるような……。
「……ぼく小さいし、顔も子どもっぽいからなぁ……」
 先輩が着たら、もっとかっこいいんだろうな。朔弥は思った。圭一郎の浴衣姿を想像してみる。うん、やっぱりかっこいい。
 インターホンが鳴る音が聞こえる。どきどき、ふわふわするのは続いていて、いつもの自分じゃないみたいだ。朔弥が階段を駆け下りると、ガーネットが座って、尻尾をぱたり、と揺らしていた。ガーネットを抱き上げて、玄関の扉を開ける。学校の終業式の日以来に会う、圭一郎の姿。
「先輩!」
 朔弥は嬉しくて、大きな声で叫んでしまった。その声は思いのほか大きく響き、恥ずかしくなる。
「……えへ……先輩、おかえりなさい、旅行……」
 圭一郎は笑って、ただいま、と言う。
「甚平だ」
「はい、おじいちゃんのお下がりで……でもぼくが着るとちょっと、子どもっぽかったかも……」
 圭一郎はシンプルなTシャツにデニムで、スタイルがいいのがよくわかる。背が高いって、やっぱりかっこいいな。
「すごい似合ってる。かわいい」
「ほ、ほんとですか。なら、よかった。えへへ……」
 ガーネットが圭一郎に撫でて欲しそうな声で、にゃお、と鳴いた。七月の夜に向かう熱い夜風が、ガーネットの毛並みを揺らす。圭一郎の大きな手が、ガーネットの頭を撫でる。ごろごろと気持ちよさそうにしている。
 圭一郎はそのまま、ぽん、と朔弥の頭を撫でた。
「焼きそばとたこ焼き、両方食べよう」
「はいっ」
 その言葉を合図に、ガーネットはぬるり、と朔弥の腕を抜け出して、家の奥へと入っていった。絶対、人間の言葉わかってる。そろそろお出かけだな、みたいに空気読んでる。猫って、賢い……。
「いってらっしゃ~い。圭一郎くん、朔のことよろしくね」
「はい」
 お母さんの言葉に見送られて、ふたりは神社へ向かう。朔弥の足元はスニーカーだ。ビーチサンダルじゃ薄くて疲れてしまうし、草履や雪駄では靴擦れを起こして圭一郎に迷惑をかけると思ったからだ。デートには、歩きやすいのが一番。
「旅行、どうでしたか」
「楽しかった! 修斗がさ、よくわかんないメニュー頼んで、出てきたのが辛すぎて……それなのにあいつ全部食うから心配したんだけど、ケロッとしてた」
 圭一郎と並んで歩くと、いつも思う。脚の長さがぜんぜん違うのに、朔弥の歩幅やペースに合わせてくれている。
 ぼくも先輩と、してみたいな。旅行。そう思ったけれど、朔弥は旅慣れていないから迷惑ばかりかけるかもしれない。ツアーではない旅行がどういうものなのか、よくわかっていないし。
 でも圭一郎は朔弥に、「いつか一緒に行こうか。旅行。国内でも、海外でも」と言ってくれる。朔弥はそれが嬉しくて、少しずつ薄暗くなってくる住宅街、神社へ向かう人たちの流れに沿って歩きながら、「行きたいです」と言えるのだ。実現しようと、しまいと、嬉しかった。
 薄闇に、吊られた提灯が浮かび上がってくる。屋台がぽつぽつと現れて、参道を進むにつれて数も多くなる。浴衣の人も多かった。
 圭一郎が、「おれも着てくればよかったな、浴衣」と言う。
「見たいです! 先輩の浴衣! 絶対かっこいいから!」
 朔弥の言葉に、圭一郎は照れたように笑って言った。
「じゃあ来年はお揃いで着ようか、浴衣」
 来年。来年も一緒に来ようって、思ってくれる。朔弥は、はい、と頷いて、人ごみの中で自然に手を繋いだ。はぐれたら困るから。でも本当は混んでいなくても、いつでも手を繋ぎたい。
 去年も来たはずの夏祭りなのに、圭一郎と一緒だと見える景色が違った。ぎゅう、と握った大きな手。どんなことが起きても先輩と一緒なら大丈夫だな、と思わせてくれる。
「あ、焼きそばあった。三浦くん、甘いのも食べる?」
 焼きそばとたこ焼きの他に、水あめ。水あめはクジに当たって、ひとつぶんの値段でふたつもらえた。食べ歩きも、ちょっと立ち止まって食べるのも楽しい。お狐さまの石像も、ねじり鉢巻きをされてお祭りモードになっている。金魚すくいがやたらとうまい小学生の後ろに、見物客が出来ている。スピーカーで流されるいかにも、な祭囃子が、喧噪や笑い声に溶け込んでいった。
 ふたりは荷物が増えても、繋いだ手を離さなかった。手のひらに少し汗をかいても、ぎゅうっと繋いだまま。何かを買う時に一度離しても、また繋ぎ直した。
 先輩に、好きですって言いたいって思ってた。
 でもいざとなると、告白って本当に難しい。どきどきして、どうしていいかわからない。先輩が優しいからなんとかなってるけど、先輩がこんなに優しくなかったら、ぼくは挙動不審すぎて一緒にいたくないって思われてもおかしくない。
「花火が見えるところって、すごく混むんでしょうね」
「うん。でも、おれが小学生の頃に見つけた場所がある。そこなら、人があんまりいないかも」
 お祭りの日に、人があんまりいない花火鑑賞スポットを見つけられるって、すごい。朔弥には多分、超能力があってもできないと思う。どこもかしこも人に溢れていて、穴場があるなんて考えられないくらいだ。
「三浦くん、疲れてない?」
「大丈夫です。先輩のほうが、旅行から帰ったばかりでお疲れじゃないですか?」
 圭一郎は笑った。ふたりは手を、ぎゅうっ、と繋いだまま。もう離しているほうが不自然なような、そんな雰囲気になっている。だってふたりで来ているから。ふたりでいたいからだ。話したいことも、聞きたいことも、まだまだたくさんある。
「おれ、体力だけはあるんだよな。だから元気、ありがとう」
「先輩、ぼく、チョコバナナ買います」
 笑った顔にいつも見蕩れてしまうのが恥ずかしくて、朔弥は目についた屋台を指さした。
 圭一郎にご馳走してもらってばかりなので、朔弥が払う。こういう屋台はだいたい「当たればもう一本」みたなゲームがある。水あめの時はクジだったけれど、チョコバナナもパチンコ玉を弾いて、穴が入った場所に書いてある本数がおまけでもらえるタイプ。
「おれ、めちゃくちゃ得意。見てて」
 ふ、とほどけた手のひらに風が当たって、涼しくなる。寂しい。そう思ったのはほんの一瞬で、圭一郎は朔弥を後ろから抱きしめるみたいに、木でできたレトロな造りのゲーム板の前に立った。圭一郎とゲーム板の間に挟まれる格好になった朔弥は、自分でもびっくりするくらいの音で心臓が鳴ったのがわかった。
「五本も当たったら、困るかな。三本狙おうか」
「……は、はぃ……」
「けっこう力加減が、微妙なんだよな……よく見ないと」
 朔弥の肩に、圭一郎が顎を乗せる。シャンプーのにおい。
ぼくと一緒で、先輩も夕方にお風呂に入ったのかな。ぼくも入ったばかりなのに、緊張しているせいで、汗をかいているかも。くさかったらどうしよう。
 圭一郎が、コン、といい音を立ててパチンコ玉を弾いた。玉は、長年使われてささくれていたり、つるつるしたり、いろいろな表情を見せている木製の仕切りの中を走り抜けていく。
 朔弥は、圭一郎の体温を背中全体に感じながら、その行く末を見守った。
どきどきする。先輩のこと、大好きだなぁって思う。
 先輩は? 先輩はぼくのこと、どう思ってくれているんだろう。
 玉は圭一郎の宣言通り、「3」と書かれたスペースに、ころん、と入り込んだ。
「わっ、すごい!」
 朔弥が振り返ろうとすると、圭一郎の顔は思ったよりも近くにあった。睫毛がぶつかりそうなくらい。
 圭一郎の目は、夏祭りの夜の灯りを映して光る。その輝きの中に、朔弥が見える。
 朔弥が固まっていると、圭一郎の目が、優しげに細くなる。先輩、笑ってる。ぼくは先輩が笑ってる顔が、すごく好きなんだ。どれだけ見つめていても、飽きたりしない。
「……かっこよかった?」
 圭一郎の問いかけに、朔弥が大きく頷くと、圭一郎は笑った。笑って、そのまま朔弥の肩に顔を埋めた。
「あ〜よかった。ちゃんと入って。これで外したら、カッコ悪いもんな」
 チョコバナナ三本を手に持って、また手を繋いだ。何度手を離しても、また繋げるんだ。そう思えば何も怖くない気がするのに、じゃあそんな強い気持ちのまま告白もできるか、と聞かれると、難しい。
 圭一郎が言っていた場所は境内の裏、灯りはあんまり届かなくて、お囃子はすこし静かに聞こえるような場所だった。石垣をよじ登る。屋上に入る時みたいに。
「先輩ってこういうところ、どうやって見つけるんですか?」
「悪ガキだったから、入っちゃいけなさそうなところ見つけるとすぐ入りたくなるんだよな。あとさ、猫いると追いかけてたから。撫でてるとさ、ついてこい、みたいになる時ない? 猫って」
「超あります。え〜、でも猫、ぼくにはこんな場所教えてくれないなぁ。空地の猫集会とかには連れていかれたことありますけど……」
 圭一郎は、また笑う。
「三浦くんがかわいいから、あんまり危ない目にあわせちゃダメだって思うんだよ。おれはさ、コイツはちょっとこけたり落ちたりしても大丈夫だろって思われてるんだよな、猫に」
 少し開けた場所に出る。開けた、と言っても、ちょっとだけ座れるスペースがあるくらいだ。手すりもない、高台の崖っぷち。確かにこれは、気をつけないと危ない場所だ。でも、花火を見るには最高の場所。
「すごい」
 朔弥は呟いた。こんな場所が、住んでいる町にあるなんて。
「おれも最初に来た時、映画みたいな場所だな、って思った。花火見に来たり、夕焼けもすごくきれいで。朝ももしかしたら、きれいかもしれない。朝弱いから、来たことないけど」
 夏の夜が落ちている。遠くの空はばら色とすみれ色に滲み、溶けていく。花火を待つ夏の空。土と、緑。甘い花の香りがする。
 夏の夜にしかないにおいがある。それは住宅街の中でも、緑に囲まれた神社の中でも同じみたいだ。
「お友だちと、花火を見てたんですか?」
「ううん。ひとりで。もったいないから、誰にも教えなかった。三浦くんが初めて」
「……」
 朔弥が初めて。圭一郎の大事な秘密を知れたような気がして、嬉しい。この秘密に見合うお返しを何も持ってように思えて、気後れしてしまう。
 圭一郎はチョコバナナを齧って、うまいな、と呟いた。
「……三浦くん」
「はい」
「おれ、がんばって早起きするから。夏休みのうちに、朝にも来ようか」
「はい! ぼくもがんばります、早起き」
 ふと、会話が途切れる。ふたりは草地の上に座って、花火を待った。腕や、肩がくっついて、また手を繋ぐ。
「……あの、先輩」
「ん?」
「どうしてぼくに教えてくれたんですか、こんなすごい場所」
「……」
 圭一郎は食べ終わったチョコバナナの割り箸で頬のあたりを搔きながら、「……それはね、おれ昔から決めてたから」と言った。
 決めてた。何を? 朔弥が圭一郎の言葉を待っていると、空がぱっ、と明るくなった。
 少し遅れて、どん、という音。空に、光るフルーツドロップを撒いたような景色が広がる。花火が始まったのだ。
「わっ、すごい! こんなによく見えるんですか!」
 有名な花火大会とは違う、夏休みには毎日あるような短い花火。でも朔弥には、今までで一番すごい花火に思えた。
「すごいきれい、今の見ましたか先輩、」
 ぱ、と横を向くと、圭一郎は花火ではなく、朔弥を見ていた。座った膝に頬杖をついて、ちょっと笑いながら。その顔に、髪に、瞳に、花火の輝きが溶けて、もっと光って見える。
 先輩。ぼくの大好きな人。初めて恋をした、憧れの人。
「決めてたんだ。いつか好きな子ができたら、ここで一緒に花火を見て、それから……」
 本物の花火より、先輩の目の中の花火のほうが、ずっときれい。
 優しい声。声だけじゃない、先輩は全部優しい。
「それから、告白しようって思ってた。三浦くん、おれさ……きみのこと……」
 朔弥は圭一郎に見蕩れて、心の中に思っていたことが、ほろり、と溢れてしまった。圭一郎が話している途中だったのに。
「……ぼく、好きです、先輩のこと……大好き……」
 圭一郎が、驚いたような顔で固まった。顔も首も、全部真っ赤だった。
 朔弥は圭一郎の愛の告白を、一番おいしいところで横取りしてしまったのである。朔弥はそれに気づかず、「大好き、先輩」と重ねて言った。
 圭一郎は真っ赤になった顔で、「……三浦くん、あのね……先に言われちゃったけど、おれも好き、本当かわいい、そういうところ……」と言って、朔弥の身体をぎゅうっと抱きしめた。包みこむみたいな、甘くって力強い、そんな「ぎゅうっ」だった。