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 キャリーケースの中のざくろは、大人しくしている。行き先が病院ではなく朔弥の家であると、ちゃんとわかっているのかもしれない。
「ガーネットと仲よく遊べるといいな」
 圭一郎がキャリーケースの中の愛猫にそう声をかけると、「にぅ」という、おりこうな返事。朔弥と話していても思うが、猫は本当に頭がいい。
 テストも無事終了し、圭一郎はざくろを連れて三浦家にお呼ばれすることになった。手土産は、駅前の洋菓子屋の焼き菓子詰め合わせ。待ち合わせ場所は獣医の前だ。
 獣医の入口の横にあるベンチに、朔弥が座っている。朔弥が圭一郎を待ってくれている時の横顔が、圭一郎は好きだった。横顔だけじゃないし、できるだけ待たせずに、逆に待っていてあげたいと思うのだけど。スマホを見ると、時間は約束の十分前。
「三浦くん」
 圭一郎が呼ぶと、朔弥はこっちを見て、笑って手を振ってくれる。先輩、と呼んで、駆け寄ってくる。
「お待たせ」
「いえ、早いです、まだ十分前……ざくろちゃん、こんにちは」
 朔弥がキャリーケースの中を覗くと、ざくろはなんだかいつもより、いっそう高めの声で「にゃうん」と返事をした。なんだか、かわいこぶっているように聞こえる。まさしく猫を被っているような。なんだ、そのかわいい鳴き方は、と圭一郎は笑う。
「あとで写真撮ってよ、ざくろの」
「うまく撮れるかなぁ、ぼくの写真がうまいんじゃなくて、ガーネットは写るのが好きな猫なんですよ」
「キャットフードのモデルに応募したら?」
「それ、家族みんな思っているので……今日先輩に言われたら、お母さんがますます自信持って、本当に応募しちゃうと思います……でも太り気味なのでキャットフードのモデルは採用されないんじゃないかなぁ~」
 住宅街を、十分弱歩く。朔弥の家のすぐそばにはバッティングセンターがある。一度も行ったことがない。今度行こうか、という話になる。そういう約束が増えていくのは、嬉しいことだと思った。
 圭一郎も朔弥も、生まれた時からこの町に住んでいるけれど、小学校も中学校も違った。このあたりと駅のほうでは、学区が分かれているのだ。電車通学するようになった高校で初めて出会った。もし小学校から同じだったら、どんな関係になっていただろう。
「通ってた小学校、ここ?」
「あ、そうです! 先輩の小学校、駅の向こうですか?」
「そう、あそこちょうど隣の駅との真ん中くらいの距離だから、最寄り駅が隣の子が多かったな」
 朔弥の家に着く。玄関を開けて、お邪魔します、と挨拶するより先に、まるで絵みたいに完璧なバランスで、並べられたスリッパとスリッパの間にガーネットが座っていた。あまりに左右対称な位置で、完璧なので、画家が特別に描いた肖像画みたいだった。どうぞ、写真にお撮りください、という堂々たる姿。
「ガーネット、先輩とざくろちゃんが遊びに来てくれたよ」
 圭一郎がリビングに通されて、朔弥のお母さんやおばあちゃんに挨拶している間に、ガーネットとざくろはすぐに馴染んで仲よくなっていた。朔弥のおばあちゃんは二匹のかわいい姿を見ながら満足そうに、「ガーネット、こうしてよその猫ちゃんと比べると、やっぱり太ってるねェ」と呟いた。
「ねぇ。やっぱりおやつ、あげすぎよねぇ」お母さんが言う。
「ねぇ。でも、かわいいもんだから。ついね。ダイエットさせなくちゃ」と、おばあちゃんが言う。
 のんびりしたご家族。朔弥が育った家、という感じがある。圭一郎が癒しを感じていると、おばあちゃんが「圭一郎くん」と呼んだ。
「はい」
「ざくろちゃん、抱っこしたり、おやつあげたりしてもいいの?」
「はい、ぜひ。ありがとうございます」
「やった~」
 三浦くんのおばあちゃん、三浦くんに似ている。話すこととか、テンポが……。おばあちゃんは細腕に似合わぬ力で、大きな猫を二匹とも抱きかかえていた。
 朔弥は台所で、紅茶を淹れていた。圭一郎の家では、友だちが訪ねてきた時にこういう支度をしてくれるのはいつも母だったので、反省する。
「先輩、お菓子ありがとうございます」
 三浦くんって、おれよりずっと大人だな、と圭一郎はふと思った。かわいいし、ふわふわしているけれど、それと同時にしっかりもしている。ちゃんとしているのだ。えらい。
「先輩が来てくれるので、部屋がんばって掃除しました」
「えっ」
 ざくろはガーネットのキャットタワーにのぼらせてもらって、楽しそうにしている。朔弥はそれを見ながら、ざくろちゃんとガーネット、気が合うんですね、と嬉しそうに呟いた。二匹は仲よく、うにゃうにゃとガールズトークしている。猫は人間の言っていることがわかる様子なのに、人間からは猫が何を言っているのかわからない。かわいい、ということしかわからない。
「三浦くん」
「はい」
「いいの? 部屋、入って」
 朔弥はきょとん、とした顔で、「? はい、いいですよ」と答えた。
 圭一郎は、急に緊張してくるのを感じた。好きな子の部屋に入る。いや、家にご招待を受けたのだからもちろんそんなこともあるだろう、と思っていたけれど、いざとなると。
「ぼくの部屋にもキャットタワーあるんです。お父さんが作ってくれて、先輩に見せようと思って。だからガーネット、しょっちゅうぼくの部屋で遊ぶんですよ」
 圭一郎の緊張をよそに、朔弥はお盆にふたりぶんのお菓子と紅茶を乗せると、「おばーちゃん、おかーさん。ぼくと先輩、部屋にいるね」と言った。
 おばあちゃんとお母さんは二匹の猫をかまいながら、「はいはい」とゆるい返事をした。
 リビングを出て、階段をのぼる。日当たりのいい、二階建ての一軒家。圭一郎の先を歩く、朔弥の丸い後頭部。つやつやの黒髪が光る。
「三浦くん」
「はい」
「今度、うちにも遊びにおいでよ。あんなに立派なキャットタワーはないけど、もう少し小さいのと、キャットウォークがあるから。ガーネットと一緒に」
「はい!」
 キャットウォークは、中学生の頃の圭一郎の力作である。それを話すと、朔弥は「先輩って、なんでもできますよね」と、きらきらした目で見つめてくれる。そんなことないけど。もっとしっかりしないといけないな、って思っているんだけど、最近は特に。
 初めて入る朔弥の部屋は薄いクリーム色だった。父親の特製だというキャットタワーを中心に、恐らくタワーに合わせて作ったのであろうカーブを描く机が置かれている。
 紅茶を飲みながら、いろいろな話をする。どれもいつも通りの話で、特別なことは何もない。ふたりは仲よくなってから、なんでもない話をするのが当たり前になっていた。朔弥の数学の点数がすごくよかったこと。斎藤くんと永田くんとプールに行くために調べたら、なんと予約チケットが必要で驚き、空いていそうな日程に変更したこと。ホットケーキが、うまく焼けたこと。ふつうの毎日の、ふつうのこと。
 圭一郎は、朔弥のふつうの毎日に、自分が置いてもらえることが嬉しいと思う。その嬉しさを感じるたびに、恋をしている、と実感するのだ。恋は不思議だ。目に見えないのに、確かにそうだとわかるのだから。
 好きだ、と伝えるのは、いつにしよう。もし、そんなふうに見られない、とフラれても、圭一郎は朔弥が好きなままだと思う。諦められないし、いつか好きになってもらえるように、もっとしっかりした大人の男をめざしたい。
「七月の終わりにさ、神社でお祭りあるだろ」
「はい」
 圭一郎が、梓たちとの旅行から帰ってくる次の日だ。高台の神社の夏祭り。小学生の頃までは何度か行った記憶があるけれど、ここ数年は行っていなかった。鳥居に向かう参道の坂にもたくさんの屋台が出て、けっこう賑やかだ。夏祭りとは無関係の、二駅先にある遊園地が夜になると花火を上げる。
「一緒に、行かない? お土産も渡したいから」
「……」
 朔弥はほっぺたを耳まで真っ赤にして、圭一郎を見た。すぐに、はい、と言ってもらえないので、もしかして予定あったかな、と焦る。そうして、朔弥が圭一郎以外の誰かと夏祭りに行く想像をして、胸が痛くなる。これは嫉妬だ。
「……先約、あった?」
「い、いえ! 嬉しいです、先輩と行きたいです、ただ、あの、」
「?」
 朔弥はますます赤くなり、「……ふたりでお祭り行くのって、デートみたいだな、と思って……」と、呟いた。
 今度は、圭一郎が赤くなる番だった。
 デートみたい、っていうか。デートだ。おれはそのつもりだ。三浦くんもそう思ってくれるんなら、嬉しい。すごく。
「……三浦くん」
「……はい」
「お祭りでデートしよう、って誘ったら、いいよ、って言ってくれる?」
「……」
 細い首のところまで真っ赤になった朔弥が、はい、と頷く。かわいくて、思わずぎゅっと抱きしめたくなったところで、ドアに設置されている猫用出入口から、ガーネットが「ぬるん」と入り込んでくる。その後ろに続いて、ざくろも入ってくる。
 圭一郎はガーネットが、「朔弥に変なことしてないだろうな」と目を光らせにきたように思えて、ちょっと居住まいを正した。変なことなんてしない。まだ、夏祭りでデートしようって誘っただけで、それ以上のことは何も。告白が先だ。つき合う前から、滅多なことがあっては絶対にいけないのだ。
 ガーネットとざくろは朔弥の膝の上に乗ってキャットタワーを見上げながら、にゃうにゃう、にゃうにゃう、としきりにお喋りをしている。そうして、にゃうにゃうお喋りしながら、キャットタワーにのぼっていった。
「……ルームツアー……」
「はい……ルームツアー、してますよね……」
「ユーチューバーみたいだな……」
「はい……ユーチューバーみたいです……」
 キャットタワーの下から愛猫たちの姿を眺めるために、圭一郎と朔弥の身体は寄り添って、お互いに凭れるようになっていた。朔弥の髪が、圭一郎の頬に触れる。いいにおいがして、くすぐったい。圭一郎が笑うと、朔弥も笑う。
「……お祭り、楽しみですね」
「うん。すご~く楽しみ」
「すご~くすご~く、楽しみです」



 夏休みに入り、圭一郎は梓たちと四人で旅行に出た。トラブルもなく、飛行機に乗り込む。前回羽田と成田を間違えた前科を持つ圭一郎のために、梓が前日から圭一郎の家に泊まった。
「圭ちゃんは寝坊もするしさ~心配じゃん。あ、でも最近学校遅刻しなくなったよなぁ」
 圭一郎が遅刻しなくなったのはどうしてか、なんてわかっているくせににやにやする梓の頭を「うるせぇ」と小突いた。
 行先はバンコク。フライトは、そんなに長時間じゃない。テストが終わってから終業式まで、圭一郎と朔弥はいつも通りだった。朝待ち合わせて学校に行き、昼を一緒に食べて、放課後も一緒に帰る。お祭り、楽しみですね。毎日そう確かめ合うのは、すごく幸せだ。
 飛行機の中、キャビンアテンダントが配ってくれたナッツを齧りながら、梓が圭一郎に聞いた。
「三浦くんと、仲よくやってるじゃん」
「うん」
「夏休み前につき合うかと思ったのに」
「……」
 圭一郎は窓の外の、眼下に雲の広がる青空を、頬杖をついて眺めながら、「……帰ってきた次の日にさ、地元の神社でお祭りがあるから」と呟いた。
「うんうん」
「……お土産も渡したいしさ、花火とか見えるしさ、だから、その、そこで……」
「そこで~?」
 圭一郎はなんとなくそわそわした、落ち着かない気持ちになって、紙コップの中のジュースを飲み干した。なんだかすごく、炭酸が飲みたい気分だ。
「……そこで、つき合ってくださいって、言おうと思って……」
 圭一郎の言葉に、前の席に座っていた律と修斗も振り返った。めちゃくちゃ聞き耳を立てていたらしい。
「「「夏祭りで告白!!」」」
 三人できれいにハモるなよ。圭一郎が恥ずかしくなって黙ると、三人ははぁ~、と羨ましそうなため息をついた。若いなぁ、青春だなぁ、とか言って。同い年だろ!
「圭ちゃんらし~、ハイパースーパーロマンチスト」
「夏祭りで告白って、やっぱり少女マンガだよな。いいな~」
「圭ちゃんに花火見ながら告白されたら、誰も断らないから安心しろ。応援に行こうか」
「応援ヤバいだろ、何すんだよ応援って」
「告白ガンバレ! ガンバレ! 的な」
「ていうか律はどうなんだよ、大学生のお姉さんと」
「ヒミツ~」
「ケチ!!」
 機内モードにしたスマホ、飛行機に乗る直前に届いた朔弥からのメッセージを読み返す。
『先輩、いってらっしゃい。旅行の写真、送ってください』
 朔弥の部屋のキャットタワーからこちらを覗き込んでいるガーネットの写真つき。唇が緩むのを抑えられなくて、何ニヤニヤしてんだよ、と梓にからかわれる。
 圭一郎はSNSをしないけれど、好きな子に理由も用事もなく、旅行の写真を送ることができる。珍しいものを見せたいな、とか。連絡して、おれのこと少し考えて欲しいな、とか。そんな贅沢が許される自分はすごく幸せ者だ。その幸せは、朔弥がくれるものだけど、圭一郎は朔弥に何を返せるだろうか。
 自分以上に、好きな子を幸せにしてあげられたら嬉しい。まもなく到着、のアナウンスを聞きながら、圭一郎はそう思った。