*
こんなに先輩と仲よくなれるなんて、ウソみたい。信じられない。
朔弥はぽやぽやした気持ちで、試験範囲のノートをぱらぱら捲っている。
圭一郎と連絡先を交換してから、そろそろ半月。明日からは、期末試験が始まる。圭一郎は放課後、毎日のように朔弥に数学を教えてくれた。学校から駅に向かう間、路地裏をちょっと行くと秘密基地みたいな喫茶店がある。そこは圭一郎がよくひとりで利用する、お気に入りの店らしい。先輩のお気に入りの場所を教えてもらっていいのかな、と思ったけれど、圭一郎は朔弥に、「ふたりの秘密だ」と笑ってくれた。その笑う顔が本当に本当に、すご~くかっこいいからときめいてしまう。放課後はそこでお茶しながら、数学を教えてもらう。
朔弥は勇気を出して、「先輩は、おつき合いしている人はいるんですか」と聞いてみた。圭一郎は、「いないよ」と言った。
先輩、恋人いないんだ……朔弥はそれが嬉しくてたまらなかったけれど、じゃあ自分が恋人になりたい、なんてそんな強気なことはまだアピールできるはずもない。
だってぼくが先輩の恋人になれるなんてそんな夢みたいなこと、ドラマやマンガや小説だったとしてもイメージできない。朔弥にとっての圭一郎は、それくらい手の届かないかっこいい先輩のイメージだったのだ。
テスト勉強している朔弥のそばに、ガーネットがやってきて、すりすり、と身体を擦り寄せて甘えてくる。おやつを欲しそうにしているけれど、ガーネットは健康のためのダイエット中だ。飼い主として、心を鬼にしなければ……。
朔弥は指先でガーネットの喉のあたりをごろごろと擽ってやりながら、「……ガーネット。ぼくもおまえみたいに、先輩に一瞬で好きになってもらえたらいいのにな。ぼくはいつもオドオドしちゃうし、自信がなくてダメみたい。すごく好きなのにな、先輩のこと」と呟いた。
斎藤くんと永田くんは、「松川先輩も三浦くんのこと好きそうに見える。両想いじゃないの?」と言ってくれるけれど。でももし、そうじゃなかったら。失恋して、今みたいな時間が終わってしまったら。すごく悲しいし、寂しいし……それなら先輩後輩として、長く一緒にいられるほうがいい。
「ガーネット、ぼくよわむしだね」
「にぅ」
ガーネットの小さくてすべすべの顔が、朔弥の顔に押し当てられる。ガーネットの顔からは、メープルシロップのにおいがする。
「んふふ。くすぐった~い」
朔弥は、そんなに勉強が嫌いじゃない。圭一郎も、毎日コツコツやるのは苦じゃない、と言っていた。
先輩って、パッと見はちょっと悪そうっていうか、かっこよすぎて近寄りがたいところもあるのに、すご~くマジメだ。あと優しい、すごく……。
「先輩、ぼくとばっかり一緒にいていいのかなぁ。ぼくはすごく嬉しいけど」
「んにゃお」
「……先輩、今度ガーネットとざくろちゃんを遊ばせようか、って言ってたよ。ガーネットもお友だち、欲しい?」
「ニャッ」
「欲しそう。よかった」
朔弥はガーネットを抱き上げて、ゆらゆらと腕の中で揺らした。ずっしりと重たい。朔弥の一番の友だち。かわいい猫だ。
圭一郎は夏休み、梓たちと三泊でタイ旅行をする、と言っていた。そんなところもオトナだな、と思うのだ。朔弥は保護者なしで海外旅行など、まだ想像もできない。友だちの家でお泊り会くらいが朔弥の想像できる夏休みの外泊である。
「……夏休み。先輩のこと、どこかに誘ってみようかなぁ」
映画とか。遊園地とか。水族館とか。来てくれるだろうか。もし断られたら、どうしよう? 怖くって誘えないや。ぼくの意気地なし。
まずは圭一郎が教えてくれている数学で、今までにとったことのないようないい点をとることが朔弥の目標だ。明日も朝から圭一郎と待ち合わせて、学校に行く。毎朝好きな人と待ち合わせできるのは本当に幸せなことだと朔弥は思う。
「よ~し。がんばるぞ~、テスト勉強」
ガーネットは朔弥の膝の上でちょっとうとうとしながら、尻尾だけで朔弥の腕をぺちぺち叩いた。ガーネットはいろんなことを応援してくれているのだ、と朔弥は思った。数学のテストは初日だ。
翌日、テストが終わってしまえば、今までで一番手ごたえがあった。早く先輩に報告したいな、と思ってスマホを取り出す。テスト中に切っていた電源を入れ直すと同時に、新着のメッセージが届く。
それは圭一郎からだった。『数学、お疲れ。すごくよくできただろ、がんばってたから』
朔弥は嬉しくて、『先輩のおかげで、すご~くよくできました!』と返した。次のテストは現代文で、さほど心配する要素はない。すでにリラックスした気持ちになってしまう。
「三浦くんが出るって言ってたとこ、ほんとに出た。大助かり~」
斎藤くんがそう言って笑った。
「先輩が出るってヤマかけてくれたとこ」
「松川先輩、勉強できるんだね~すごいや……あ~ホッとした、現代文のテストなんて数学に比べたらなんてことないもん……」
そのままいい調子で、現代文と生物のテストが終わった。これで初日のテストはオールクリア。朔弥と斎藤くんと永田くんは、開放感とくたびれ感を心地よく味わいながら中庭に出て、いちご牛乳を飲んだ。う~ん、おいしい。大人が仕事終わりにビールを飲むのも、こんな気持ちなのかもしれない。
「あした、英語かぁ」
「英語ってさぁ、テストはできてもぜんぜん喋れるようになんないよね」
「うち、お姉ちゃん留学してるけど、喋るのは難しいって言ってる」
「斎藤くんのお姉ちゃん留学してるの? かっこいい~どこの国?」
「オーストラリア」
「すご~い」
テスト期間は、他の授業もない。
三人は中庭に座って、もう夏なんだね、とゆるゆる話し合った。
「ねぇ、夏休み、三人でどっか行こうよ」
「いいね。どこ行く?」
「プールは? 大きいとこ、スライダーとかあるような……」
いいね、と盛り上がっていると、永田くんが「三浦くん、先輩とどっか行くの?」と聞いてきた。斎藤くんも、永田くんも、圭一郎と朔弥について聞きたくてたまらない様子だけど、朔弥から話さないことは無理に聞かないでいてくれる。面白おかしくからかってくるようなこともない。だから朔弥はいつも安心して、ふたりに圭一郎の話をすることができる。
「……い、行きたいけど……なんか怖くて、誘えない……断られたら、悲しいし……」
「大丈夫だよ」
「そうかなぁ~」
高校生になって初めての夏は、好きな人のいる初めての夏だ。制服は半袖に替わって、七月、八月とうんと猛暑になる予報が出ている。
「ぼく、夏はアルバイトしようと思ってる」
「いいな! ぼくもしてみたい、アルバイト!」
ふたりの会話を聞きながら、朔弥は空を見た。ソフトクリームみたいにしっかりした雲が、青空をすいすい流れていく。
夏って、毎年やってくるのに。どの夏もその時々でちょっと違うから、不思議だ。
こんなに先輩と仲よくなれるなんて、ウソみたい。信じられない。
朔弥はぽやぽやした気持ちで、試験範囲のノートをぱらぱら捲っている。
圭一郎と連絡先を交換してから、そろそろ半月。明日からは、期末試験が始まる。圭一郎は放課後、毎日のように朔弥に数学を教えてくれた。学校から駅に向かう間、路地裏をちょっと行くと秘密基地みたいな喫茶店がある。そこは圭一郎がよくひとりで利用する、お気に入りの店らしい。先輩のお気に入りの場所を教えてもらっていいのかな、と思ったけれど、圭一郎は朔弥に、「ふたりの秘密だ」と笑ってくれた。その笑う顔が本当に本当に、すご~くかっこいいからときめいてしまう。放課後はそこでお茶しながら、数学を教えてもらう。
朔弥は勇気を出して、「先輩は、おつき合いしている人はいるんですか」と聞いてみた。圭一郎は、「いないよ」と言った。
先輩、恋人いないんだ……朔弥はそれが嬉しくてたまらなかったけれど、じゃあ自分が恋人になりたい、なんてそんな強気なことはまだアピールできるはずもない。
だってぼくが先輩の恋人になれるなんてそんな夢みたいなこと、ドラマやマンガや小説だったとしてもイメージできない。朔弥にとっての圭一郎は、それくらい手の届かないかっこいい先輩のイメージだったのだ。
テスト勉強している朔弥のそばに、ガーネットがやってきて、すりすり、と身体を擦り寄せて甘えてくる。おやつを欲しそうにしているけれど、ガーネットは健康のためのダイエット中だ。飼い主として、心を鬼にしなければ……。
朔弥は指先でガーネットの喉のあたりをごろごろと擽ってやりながら、「……ガーネット。ぼくもおまえみたいに、先輩に一瞬で好きになってもらえたらいいのにな。ぼくはいつもオドオドしちゃうし、自信がなくてダメみたい。すごく好きなのにな、先輩のこと」と呟いた。
斎藤くんと永田くんは、「松川先輩も三浦くんのこと好きそうに見える。両想いじゃないの?」と言ってくれるけれど。でももし、そうじゃなかったら。失恋して、今みたいな時間が終わってしまったら。すごく悲しいし、寂しいし……それなら先輩後輩として、長く一緒にいられるほうがいい。
「ガーネット、ぼくよわむしだね」
「にぅ」
ガーネットの小さくてすべすべの顔が、朔弥の顔に押し当てられる。ガーネットの顔からは、メープルシロップのにおいがする。
「んふふ。くすぐった~い」
朔弥は、そんなに勉強が嫌いじゃない。圭一郎も、毎日コツコツやるのは苦じゃない、と言っていた。
先輩って、パッと見はちょっと悪そうっていうか、かっこよすぎて近寄りがたいところもあるのに、すご~くマジメだ。あと優しい、すごく……。
「先輩、ぼくとばっかり一緒にいていいのかなぁ。ぼくはすごく嬉しいけど」
「んにゃお」
「……先輩、今度ガーネットとざくろちゃんを遊ばせようか、って言ってたよ。ガーネットもお友だち、欲しい?」
「ニャッ」
「欲しそう。よかった」
朔弥はガーネットを抱き上げて、ゆらゆらと腕の中で揺らした。ずっしりと重たい。朔弥の一番の友だち。かわいい猫だ。
圭一郎は夏休み、梓たちと三泊でタイ旅行をする、と言っていた。そんなところもオトナだな、と思うのだ。朔弥は保護者なしで海外旅行など、まだ想像もできない。友だちの家でお泊り会くらいが朔弥の想像できる夏休みの外泊である。
「……夏休み。先輩のこと、どこかに誘ってみようかなぁ」
映画とか。遊園地とか。水族館とか。来てくれるだろうか。もし断られたら、どうしよう? 怖くって誘えないや。ぼくの意気地なし。
まずは圭一郎が教えてくれている数学で、今までにとったことのないようないい点をとることが朔弥の目標だ。明日も朝から圭一郎と待ち合わせて、学校に行く。毎朝好きな人と待ち合わせできるのは本当に幸せなことだと朔弥は思う。
「よ~し。がんばるぞ~、テスト勉強」
ガーネットは朔弥の膝の上でちょっとうとうとしながら、尻尾だけで朔弥の腕をぺちぺち叩いた。ガーネットはいろんなことを応援してくれているのだ、と朔弥は思った。数学のテストは初日だ。
翌日、テストが終わってしまえば、今までで一番手ごたえがあった。早く先輩に報告したいな、と思ってスマホを取り出す。テスト中に切っていた電源を入れ直すと同時に、新着のメッセージが届く。
それは圭一郎からだった。『数学、お疲れ。すごくよくできただろ、がんばってたから』
朔弥は嬉しくて、『先輩のおかげで、すご~くよくできました!』と返した。次のテストは現代文で、さほど心配する要素はない。すでにリラックスした気持ちになってしまう。
「三浦くんが出るって言ってたとこ、ほんとに出た。大助かり~」
斎藤くんがそう言って笑った。
「先輩が出るってヤマかけてくれたとこ」
「松川先輩、勉強できるんだね~すごいや……あ~ホッとした、現代文のテストなんて数学に比べたらなんてことないもん……」
そのままいい調子で、現代文と生物のテストが終わった。これで初日のテストはオールクリア。朔弥と斎藤くんと永田くんは、開放感とくたびれ感を心地よく味わいながら中庭に出て、いちご牛乳を飲んだ。う~ん、おいしい。大人が仕事終わりにビールを飲むのも、こんな気持ちなのかもしれない。
「あした、英語かぁ」
「英語ってさぁ、テストはできてもぜんぜん喋れるようになんないよね」
「うち、お姉ちゃん留学してるけど、喋るのは難しいって言ってる」
「斎藤くんのお姉ちゃん留学してるの? かっこいい~どこの国?」
「オーストラリア」
「すご~い」
テスト期間は、他の授業もない。
三人は中庭に座って、もう夏なんだね、とゆるゆる話し合った。
「ねぇ、夏休み、三人でどっか行こうよ」
「いいね。どこ行く?」
「プールは? 大きいとこ、スライダーとかあるような……」
いいね、と盛り上がっていると、永田くんが「三浦くん、先輩とどっか行くの?」と聞いてきた。斎藤くんも、永田くんも、圭一郎と朔弥について聞きたくてたまらない様子だけど、朔弥から話さないことは無理に聞かないでいてくれる。面白おかしくからかってくるようなこともない。だから朔弥はいつも安心して、ふたりに圭一郎の話をすることができる。
「……い、行きたいけど……なんか怖くて、誘えない……断られたら、悲しいし……」
「大丈夫だよ」
「そうかなぁ~」
高校生になって初めての夏は、好きな人のいる初めての夏だ。制服は半袖に替わって、七月、八月とうんと猛暑になる予報が出ている。
「ぼく、夏はアルバイトしようと思ってる」
「いいな! ぼくもしてみたい、アルバイト!」
ふたりの会話を聞きながら、朔弥は空を見た。ソフトクリームみたいにしっかりした雲が、青空をすいすい流れていく。
夏って、毎年やってくるのに。どの夏もその時々でちょっと違うから、不思議だ。

