*
屋上って、カギがかかってるんだと思ってた。
屋上に続く階段を一気に駆け上った朔弥は、ドアノブに手をかける。回してみる。開かない。
「あれっ?」
もう一回、回す。開かない。やっぱりカギがかかっているのだ。
どうしよう。もしかして屋上って、いくつもあるのかな? 先輩に連絡しよう、と思ってスマホを取り出すと、ドアの横についていた窓が開いて、圭一郎が顔を出した。
「ここ、鍵が開かないんだよ。窓からなら入れるんだ。おいで」
窓はけっこう高い位置についていて、よじ登るのが大変だった。最後は圭一郎が持ち上げてくれて、窓の向こう側に降りる。
「見つかると怒られるから、こっそりな」
「はいっ」
あんまり柵のそばに寄ってしまうと、ちょうど職員室の前の廊下から見えてしまう。ふたりは死角になるコンクリートの柱のそばまで、こそこそ、と忍者みたいに移動した。
朔弥は今まで、見つかったら怒られるような行いというものを、した記憶がなかった。でも心の中では、そういうことをしてみたいと思っていたのだ。カギのかかった屋上に侵入するなんて、まさにやってみたかったことである。あとは例えば、夜のプールに忍び込むとか。夜の校舎でこっそり肝試しとか。そういうことだ。
「窓はカギ、かかってないんですね」
圭一郎は、ニヤ、と笑い、「かかってる。針金で開ける」と言った。
「開けられるんですか!?」
「うん。でもあんまりそういうこと言って、不良だって嫌われたら困るな。いつもはしないよ」
頬杖をついて、唇を片側だけ持ち上げるやんちゃな笑い方。この表情は初めて見た。朔弥はどきどきして、嫌いになんて絶対にならないのにな、と思う。
圭一郎と朔弥はお昼ご飯を食べながら、ぽつぽつと、ゆるい話をした。主に、お互いの飼っている猫の自慢。猫自慢はいくらでもできるし、いくらでも聞きたい。
でも朔弥は、(先輩自身の自慢も聞きたい)と気づいた。飼い猫以外にさほど自慢の種を持っていない朔弥にとって、圭一郎のような人はたくさん自慢できることがあるように思えたのだ。
「……先輩」
「うん?」
「先輩って、何か自慢できることありますか」
「自慢?」
「はい」
圭一郎はあぐらをかいた足の上に頬杖をついて、「人の自慢が聞きたいって、かなり変わってるな」と笑った。
「え、そうでしょうか」
「うん。普通はさ、自慢話を聞くとちょっとむかつくんじゃないのか」
朔弥は考えてみる。そう言われてみれば、そうかも……。でも、朔弥が今確かに持っている、「先輩の自慢話が聞きたい」という欲求は、一体なんなんだろうか。
圭一郎の、頬杖をついて少し斜めに傾げた首のあたり。太さや、くっきりとした筋肉の浮き方が朔弥とはまるで違った。少し短めの髪を揺らす気持ちのいい風。今はいい季節だ。
ぼくはきっと、先輩のことがもっと知りたいんだ。朔弥は思った。自慢話じゃなくてもかまわないけれど、何か自慢になるようなことであれば、先輩が嬉しそうにしている顔を見られるんじゃないかな、って期待したんだ。
朔弥がもじもじしていると、圭一郎は朔弥の顔を覗き込んで、「自慢はあんまりないけど。情けない話ならあるよ」と、朔弥の前髪を指先でちょっと掬った。朔弥は自分のおでこのあたりが赤くなって、汗もかいているような気がして恥ずかしくなる。
「情けない話って、なんですか」
「数えきれないほどの寝坊と遅刻と、成田と羽田間違えて友だちと同じ飛行機乗れなくて、別便で追いかけていった話と」
「きゃはははは」
朔弥が笑うと、圭一郎も笑った。
「旅行ですか?」
「うん。去年の夏、友だち四人で台湾」
「大人なしで外国ですか!」
「うん。しかも全員テキトーな奴らだから、あっちでスマホで調べればいいって言って、ガイドブックとか誰も買ってなかった。買うほう? ガイドブックとか」
「ぼくですか? 買います。紙で。付箋とかべたべた貼ります」
「くくく、そっか。なら旅行の時は、いいね」
朔弥はその一瞬で、圭一郎と旅行に行く妄想が脳内を駆け巡ってしまったけれど、そんなことが知られたら恥ずかしいので黙って隠しておく。先輩は空港を間違えて飛行機に乗れなくても、別の方法を考えられるんだ。ぼくならどうしていいかわからなくなって、目的地までたどり着けないかもしれない。旅行だけじゃなくてきっと、いろんな場面で。先輩はその時々で、困ったことを乗り越えられる。
「……先輩って」
「うん」
「……すごい、頼りになりそうですね。何か、想定外のことが起きた時とか。ぼく、そういう時は慌てちゃうから……」
カッコイイ。朔弥はお弁当箱の中のミートボールを噛みしめながら、思った。
圭一郎は、頬をもぐもぐ動かしている朔弥を見ながら、「頼りになる奴が好き?」と聞いた。朔弥はびっくりして、手に持っていたお茶のペットボトルを落とした。蓋が閉まっていて幸いであった。
「えっ!?」
圭一郎は転がったペットボトルを拾って朔弥に渡して、「いや、どんな奴がタイプなのかな、って思って」と言う。
朔弥はなぜ圭一郎が自分にそんなことを聞くのかわからなかった。いや、標準程度の恋愛の偏差値というか、スキルのようなものが備わっていれば、(先輩、もしかしてぼくにちょっと気があるのかな)なんて思えたかもしれないが、生憎朔弥は人よりも鈍感なほうだった。
高校生って、急にコイバナになるものなんだ。ぼくも知りたい、先輩の好きなタイプ!
「せ、先輩は?」
「ん?」
「先輩は、どんな人タイプなんですか」
「……」
圭一郎は朔弥の小さな鼻を、指先で摘まんだ。そうして目のあたりをくしゃくしゃにして笑い、「聞いてるのおれだろ! 天然!」と言った。
朔弥は、自分の顔が文字通り耳まで、みるみる赤くなっていく感覚があった。圭一郎はなんだかちょっと眩しそうな、すごく優しい、表現するのが難しい表情で朔弥を見ていた。
恥ずかしい。どうしよ。圭一郎が鼻を摘まんだ指先が外れるとなんだか寂しい。その手はそのまま、ぽん、と朔弥の頭を撫でた。もっと触っていてほしい。圭一郎の手は大きくて、触られると嬉しかった。
圭一郎がコンビニのビニール袋から、パンを取り出す。パンの袋には、永田くんが集めているシールがくっついている。
「……先輩」
「うん。欲しい? シール」
なんでわかったんだろ。朔弥が不思議に思いながらも頷くと、圭一郎は袋からシールを剥がして、朔弥のほっぺたに貼った。パンは三つあったので、三枚。右のほっぺたに一枚、左のほっぺたに二枚。
朔弥は、圭一郎がシールを貼り付ける時に頬を軽く押す感触が嬉しくて、忘れないようにしよう、と思う。
「ありがとうございます。友だちが、集めているんです」
朔弥は、ぺこん、と頭を下げて、そういえば今朝、先輩はぼくと話したいことがいろいろある、と言っていた、と思い出す。
「先輩」
顔にシールを貼ったままの朔弥は、パンを齧っている圭一郎に聞いた。
「今朝先輩が、ぼくといろいろ話したかったことってなんですか?」
「ぶはっ」
圭一郎が俯いて笑い始めたので、つむじがよく見えた。自分より背の高い人のつむじを見るのは珍しい、と朔弥は思う。
圭一郎は笑いながら、「いつもそうやって、いきなり喋って行ったり来たりするのか。話が」と言った。
朔弥は、いつも両親に言いたいことをたくさん伝えたあとに、「朔ちゃん、考えることまとめてから喋りなさい」と笑われるのを思い出して、また赤くなってしまう。先輩と楽しくお喋りするために、どうすればいいだろう。朔弥は今、すごく楽しいけれど。先輩が楽しくなかったら、意味がないし……。
考え込んで黙ってしまった朔弥に、圭一郎は言った。
「いきなり喋っていいよ」
「え?」
「どんな子だろうって思って、知りたかったから。だから、もっといきなり喋っていいよ」
「……」
ぼくだって、先輩がどんな人かもっと知りたい。でもそれを知るには、「先輩ってどんな人ですか?」という質問では、わからない気がするのだ。星座、誕生日、血液型、好みのタイプ……多分知りたいのはそういうことだけじゃなくて、もっといろいろ……ぜんぜんうまくまとめられない。
「意地悪な男だと思ってない? おれのこと」
「はい」
「そう。なら、よかった」
先輩はぼくのこと、ダメな子だと思っていないだろうか。ちら、と視線だけで圭一郎を見ると、ちょっと笑う顔が優しかった。先輩は、優しい。
予鈴が鳴る。いつもより、昼休みがずっと早く終わってしまう気がして驚いた。
「授業遅れたら大変だ。行こうか」
「……はい」
朔弥が頷くと、圭一郎はまた笑う。先輩って、よく笑う人だな、と思ってきゅんとしてしまう。
「どうしたんですか?」
「ううん。今の顔が、出かける前のうちのざくろに似てたから」
「ぼく、顔は犬っぽいって言われるんですけど」
「あ~、ポメラニアン」
「先輩も犬っぽいです、大きな……」
圭一郎が伸ばしてきた手を取って、よいしょ、と引っ張る。重たくて、立たせられる気がしなかった。圭一郎は器用に、足だけで軽く立ち上がる。
「眠いな、午後」
「はい」
そのまま屋上の窓のところまで、手をつないで歩いた。圭一郎の手は朔弥の手より大きくて、厚みもあった。
「じゃあまた」
「はい!」
廊下を早歩きで教室まで戻る道すがら、先輩の好きなタイプ、結局聞けなかった、と思った。もっと仲よくなれば、知れるんだろうか? 朔弥は自分の好きなタイプについては、今まであんまり考えたことがないのでよくわからない、と気づく。
頼りになる人が好き? 引っ張っていってくれる人が好き? 優しい人が好き? よく笑う人が好き? 猫が好きな人が、好き?
いろいろ考えてみるけれど(先輩に伝えるために、できるだけまとめて)でもそれは結局、先輩を連想しているだけだ。
ぼく、先輩のこと、もうすごく好きになっちゃってるんだと思う。先輩に会うまでは、想像もできなかったのに。誰かに恋をするなんて。ただのひとめ惚れなら、こんなに先輩で頭や心が埋め尽くされることなんて、なかったかもしれない。話すこともできずに、遠くから見つめるだけだったら。憧れるだけで先輩は卒業していって、そのまま思い出になるだけだったかもしれない。
でももう先輩は憧れの人じゃなくて、すごく好きな初恋の人だ。朔弥の心は勝手にぴょんぴょん飛び跳ねて、圭一郎のそばに近づいていってしまう。みんな、こうなんだろうか? 恋をすると……。
教室の扉を開ける。けっこうギリギリになっちゃったかな、と心配していたが、まだ先生は来ていなかったし、クラスメイトたちも休み時間の残りをめいっぱい満喫している様子だ。朔弥はホッとして、まだ机のところでお喋りしていた永田くんと斎藤くんのところへ行った。
「ただいま~。屋上、すごいよかったよ。ホントは入っちゃダメなんだって……今度さ、三人でこっそり行ってみようよ」
「「……」」
永田くんと斎藤くんは、朔弥の顔をジッ、と見つめていた。穴が開きそうなほどに。えっ、ふたりともどうしたの? そんな見つめられたら、照れるな……朔弥がそう思って頬のあたりを擦ると、何かが貼ってある。
「あっ!」
「三浦くん、なんで顔にシール貼ってるの?」
朔弥はシールを剥がし、「先輩に貼られたの、忘れてた。これ、先輩のお昼がパンだったからもらったの、永田くんにあげる……」と言って、永田くんの机の端っこに顔から剥がしたシールを三枚貼りつけた。
「三浦くん、天然すぎるでしょ。先輩もそういうところがかわいくて屋上に誘うのかな」
「三浦くん、先輩ってどんな人なの? もう告白したり、されたりしたの?」
告白なんて、そんなわけない! だってぼくと先輩は、話すようになってからまだ、たった一日しかたってないんだもん! 朔弥がそう弁解しようとした瞬間に、先生が教室に入ってきた。この先生は優しくて、いつも授業の雰囲気がゆるいので生徒はみんな油断しがちだ。先生にも、いろいろなタイプの人がいる。入ってきた瞬間に授業を始められないと怒るようなピシッとしたタイプと、先生が入ってきてから準備を始めても怒らないゆるめのタイプ。
「授業始めるよ~」
先生のおっとりした声を合図に、みんながそれぞれ自分の席に戻り始める。永田くんと斎藤くんは残念そうな顔で、「あとでちゃんと聞かせてよ」と朔弥に言った。
聞かせるも何も、ふたりに隠していることなんて朔弥にはまだひとつもないけれど。
授業の間も、圭一郎のことを考えてしまってなんだか集中できない。すべての授業でこんな調子だったらまずいと思う。勉強は好きじゃないけど、極端に苦手というわけでもなかったのに。
みんな、こうなんだろうか? 恋をすると? 恋をしながらも、勉強したり、部活したり、アルバイトしたり、生活のあれこれをちゃんと考えて両立させているのか。朔弥は思った。世の中の人たちって、みんなぼくよりもずっと器用なんだな……。
屋上って、カギがかかってるんだと思ってた。
屋上に続く階段を一気に駆け上った朔弥は、ドアノブに手をかける。回してみる。開かない。
「あれっ?」
もう一回、回す。開かない。やっぱりカギがかかっているのだ。
どうしよう。もしかして屋上って、いくつもあるのかな? 先輩に連絡しよう、と思ってスマホを取り出すと、ドアの横についていた窓が開いて、圭一郎が顔を出した。
「ここ、鍵が開かないんだよ。窓からなら入れるんだ。おいで」
窓はけっこう高い位置についていて、よじ登るのが大変だった。最後は圭一郎が持ち上げてくれて、窓の向こう側に降りる。
「見つかると怒られるから、こっそりな」
「はいっ」
あんまり柵のそばに寄ってしまうと、ちょうど職員室の前の廊下から見えてしまう。ふたりは死角になるコンクリートの柱のそばまで、こそこそ、と忍者みたいに移動した。
朔弥は今まで、見つかったら怒られるような行いというものを、した記憶がなかった。でも心の中では、そういうことをしてみたいと思っていたのだ。カギのかかった屋上に侵入するなんて、まさにやってみたかったことである。あとは例えば、夜のプールに忍び込むとか。夜の校舎でこっそり肝試しとか。そういうことだ。
「窓はカギ、かかってないんですね」
圭一郎は、ニヤ、と笑い、「かかってる。針金で開ける」と言った。
「開けられるんですか!?」
「うん。でもあんまりそういうこと言って、不良だって嫌われたら困るな。いつもはしないよ」
頬杖をついて、唇を片側だけ持ち上げるやんちゃな笑い方。この表情は初めて見た。朔弥はどきどきして、嫌いになんて絶対にならないのにな、と思う。
圭一郎と朔弥はお昼ご飯を食べながら、ぽつぽつと、ゆるい話をした。主に、お互いの飼っている猫の自慢。猫自慢はいくらでもできるし、いくらでも聞きたい。
でも朔弥は、(先輩自身の自慢も聞きたい)と気づいた。飼い猫以外にさほど自慢の種を持っていない朔弥にとって、圭一郎のような人はたくさん自慢できることがあるように思えたのだ。
「……先輩」
「うん?」
「先輩って、何か自慢できることありますか」
「自慢?」
「はい」
圭一郎はあぐらをかいた足の上に頬杖をついて、「人の自慢が聞きたいって、かなり変わってるな」と笑った。
「え、そうでしょうか」
「うん。普通はさ、自慢話を聞くとちょっとむかつくんじゃないのか」
朔弥は考えてみる。そう言われてみれば、そうかも……。でも、朔弥が今確かに持っている、「先輩の自慢話が聞きたい」という欲求は、一体なんなんだろうか。
圭一郎の、頬杖をついて少し斜めに傾げた首のあたり。太さや、くっきりとした筋肉の浮き方が朔弥とはまるで違った。少し短めの髪を揺らす気持ちのいい風。今はいい季節だ。
ぼくはきっと、先輩のことがもっと知りたいんだ。朔弥は思った。自慢話じゃなくてもかまわないけれど、何か自慢になるようなことであれば、先輩が嬉しそうにしている顔を見られるんじゃないかな、って期待したんだ。
朔弥がもじもじしていると、圭一郎は朔弥の顔を覗き込んで、「自慢はあんまりないけど。情けない話ならあるよ」と、朔弥の前髪を指先でちょっと掬った。朔弥は自分のおでこのあたりが赤くなって、汗もかいているような気がして恥ずかしくなる。
「情けない話って、なんですか」
「数えきれないほどの寝坊と遅刻と、成田と羽田間違えて友だちと同じ飛行機乗れなくて、別便で追いかけていった話と」
「きゃはははは」
朔弥が笑うと、圭一郎も笑った。
「旅行ですか?」
「うん。去年の夏、友だち四人で台湾」
「大人なしで外国ですか!」
「うん。しかも全員テキトーな奴らだから、あっちでスマホで調べればいいって言って、ガイドブックとか誰も買ってなかった。買うほう? ガイドブックとか」
「ぼくですか? 買います。紙で。付箋とかべたべた貼ります」
「くくく、そっか。なら旅行の時は、いいね」
朔弥はその一瞬で、圭一郎と旅行に行く妄想が脳内を駆け巡ってしまったけれど、そんなことが知られたら恥ずかしいので黙って隠しておく。先輩は空港を間違えて飛行機に乗れなくても、別の方法を考えられるんだ。ぼくならどうしていいかわからなくなって、目的地までたどり着けないかもしれない。旅行だけじゃなくてきっと、いろんな場面で。先輩はその時々で、困ったことを乗り越えられる。
「……先輩って」
「うん」
「……すごい、頼りになりそうですね。何か、想定外のことが起きた時とか。ぼく、そういう時は慌てちゃうから……」
カッコイイ。朔弥はお弁当箱の中のミートボールを噛みしめながら、思った。
圭一郎は、頬をもぐもぐ動かしている朔弥を見ながら、「頼りになる奴が好き?」と聞いた。朔弥はびっくりして、手に持っていたお茶のペットボトルを落とした。蓋が閉まっていて幸いであった。
「えっ!?」
圭一郎は転がったペットボトルを拾って朔弥に渡して、「いや、どんな奴がタイプなのかな、って思って」と言う。
朔弥はなぜ圭一郎が自分にそんなことを聞くのかわからなかった。いや、標準程度の恋愛の偏差値というか、スキルのようなものが備わっていれば、(先輩、もしかしてぼくにちょっと気があるのかな)なんて思えたかもしれないが、生憎朔弥は人よりも鈍感なほうだった。
高校生って、急にコイバナになるものなんだ。ぼくも知りたい、先輩の好きなタイプ!
「せ、先輩は?」
「ん?」
「先輩は、どんな人タイプなんですか」
「……」
圭一郎は朔弥の小さな鼻を、指先で摘まんだ。そうして目のあたりをくしゃくしゃにして笑い、「聞いてるのおれだろ! 天然!」と言った。
朔弥は、自分の顔が文字通り耳まで、みるみる赤くなっていく感覚があった。圭一郎はなんだかちょっと眩しそうな、すごく優しい、表現するのが難しい表情で朔弥を見ていた。
恥ずかしい。どうしよ。圭一郎が鼻を摘まんだ指先が外れるとなんだか寂しい。その手はそのまま、ぽん、と朔弥の頭を撫でた。もっと触っていてほしい。圭一郎の手は大きくて、触られると嬉しかった。
圭一郎がコンビニのビニール袋から、パンを取り出す。パンの袋には、永田くんが集めているシールがくっついている。
「……先輩」
「うん。欲しい? シール」
なんでわかったんだろ。朔弥が不思議に思いながらも頷くと、圭一郎は袋からシールを剥がして、朔弥のほっぺたに貼った。パンは三つあったので、三枚。右のほっぺたに一枚、左のほっぺたに二枚。
朔弥は、圭一郎がシールを貼り付ける時に頬を軽く押す感触が嬉しくて、忘れないようにしよう、と思う。
「ありがとうございます。友だちが、集めているんです」
朔弥は、ぺこん、と頭を下げて、そういえば今朝、先輩はぼくと話したいことがいろいろある、と言っていた、と思い出す。
「先輩」
顔にシールを貼ったままの朔弥は、パンを齧っている圭一郎に聞いた。
「今朝先輩が、ぼくといろいろ話したかったことってなんですか?」
「ぶはっ」
圭一郎が俯いて笑い始めたので、つむじがよく見えた。自分より背の高い人のつむじを見るのは珍しい、と朔弥は思う。
圭一郎は笑いながら、「いつもそうやって、いきなり喋って行ったり来たりするのか。話が」と言った。
朔弥は、いつも両親に言いたいことをたくさん伝えたあとに、「朔ちゃん、考えることまとめてから喋りなさい」と笑われるのを思い出して、また赤くなってしまう。先輩と楽しくお喋りするために、どうすればいいだろう。朔弥は今、すごく楽しいけれど。先輩が楽しくなかったら、意味がないし……。
考え込んで黙ってしまった朔弥に、圭一郎は言った。
「いきなり喋っていいよ」
「え?」
「どんな子だろうって思って、知りたかったから。だから、もっといきなり喋っていいよ」
「……」
ぼくだって、先輩がどんな人かもっと知りたい。でもそれを知るには、「先輩ってどんな人ですか?」という質問では、わからない気がするのだ。星座、誕生日、血液型、好みのタイプ……多分知りたいのはそういうことだけじゃなくて、もっといろいろ……ぜんぜんうまくまとめられない。
「意地悪な男だと思ってない? おれのこと」
「はい」
「そう。なら、よかった」
先輩はぼくのこと、ダメな子だと思っていないだろうか。ちら、と視線だけで圭一郎を見ると、ちょっと笑う顔が優しかった。先輩は、優しい。
予鈴が鳴る。いつもより、昼休みがずっと早く終わってしまう気がして驚いた。
「授業遅れたら大変だ。行こうか」
「……はい」
朔弥が頷くと、圭一郎はまた笑う。先輩って、よく笑う人だな、と思ってきゅんとしてしまう。
「どうしたんですか?」
「ううん。今の顔が、出かける前のうちのざくろに似てたから」
「ぼく、顔は犬っぽいって言われるんですけど」
「あ~、ポメラニアン」
「先輩も犬っぽいです、大きな……」
圭一郎が伸ばしてきた手を取って、よいしょ、と引っ張る。重たくて、立たせられる気がしなかった。圭一郎は器用に、足だけで軽く立ち上がる。
「眠いな、午後」
「はい」
そのまま屋上の窓のところまで、手をつないで歩いた。圭一郎の手は朔弥の手より大きくて、厚みもあった。
「じゃあまた」
「はい!」
廊下を早歩きで教室まで戻る道すがら、先輩の好きなタイプ、結局聞けなかった、と思った。もっと仲よくなれば、知れるんだろうか? 朔弥は自分の好きなタイプについては、今まであんまり考えたことがないのでよくわからない、と気づく。
頼りになる人が好き? 引っ張っていってくれる人が好き? 優しい人が好き? よく笑う人が好き? 猫が好きな人が、好き?
いろいろ考えてみるけれど(先輩に伝えるために、できるだけまとめて)でもそれは結局、先輩を連想しているだけだ。
ぼく、先輩のこと、もうすごく好きになっちゃってるんだと思う。先輩に会うまでは、想像もできなかったのに。誰かに恋をするなんて。ただのひとめ惚れなら、こんなに先輩で頭や心が埋め尽くされることなんて、なかったかもしれない。話すこともできずに、遠くから見つめるだけだったら。憧れるだけで先輩は卒業していって、そのまま思い出になるだけだったかもしれない。
でももう先輩は憧れの人じゃなくて、すごく好きな初恋の人だ。朔弥の心は勝手にぴょんぴょん飛び跳ねて、圭一郎のそばに近づいていってしまう。みんな、こうなんだろうか? 恋をすると……。
教室の扉を開ける。けっこうギリギリになっちゃったかな、と心配していたが、まだ先生は来ていなかったし、クラスメイトたちも休み時間の残りをめいっぱい満喫している様子だ。朔弥はホッとして、まだ机のところでお喋りしていた永田くんと斎藤くんのところへ行った。
「ただいま~。屋上、すごいよかったよ。ホントは入っちゃダメなんだって……今度さ、三人でこっそり行ってみようよ」
「「……」」
永田くんと斎藤くんは、朔弥の顔をジッ、と見つめていた。穴が開きそうなほどに。えっ、ふたりともどうしたの? そんな見つめられたら、照れるな……朔弥がそう思って頬のあたりを擦ると、何かが貼ってある。
「あっ!」
「三浦くん、なんで顔にシール貼ってるの?」
朔弥はシールを剥がし、「先輩に貼られたの、忘れてた。これ、先輩のお昼がパンだったからもらったの、永田くんにあげる……」と言って、永田くんの机の端っこに顔から剥がしたシールを三枚貼りつけた。
「三浦くん、天然すぎるでしょ。先輩もそういうところがかわいくて屋上に誘うのかな」
「三浦くん、先輩ってどんな人なの? もう告白したり、されたりしたの?」
告白なんて、そんなわけない! だってぼくと先輩は、話すようになってからまだ、たった一日しかたってないんだもん! 朔弥がそう弁解しようとした瞬間に、先生が教室に入ってきた。この先生は優しくて、いつも授業の雰囲気がゆるいので生徒はみんな油断しがちだ。先生にも、いろいろなタイプの人がいる。入ってきた瞬間に授業を始められないと怒るようなピシッとしたタイプと、先生が入ってきてから準備を始めても怒らないゆるめのタイプ。
「授業始めるよ~」
先生のおっとりした声を合図に、みんながそれぞれ自分の席に戻り始める。永田くんと斎藤くんは残念そうな顔で、「あとでちゃんと聞かせてよ」と朔弥に言った。
聞かせるも何も、ふたりに隠していることなんて朔弥にはまだひとつもないけれど。
授業の間も、圭一郎のことを考えてしまってなんだか集中できない。すべての授業でこんな調子だったらまずいと思う。勉強は好きじゃないけど、極端に苦手というわけでもなかったのに。
みんな、こうなんだろうか? 恋をすると? 恋をしながらも、勉強したり、部活したり、アルバイトしたり、生活のあれこれをちゃんと考えて両立させているのか。朔弥は思った。世の中の人たちって、みんなぼくよりもずっと器用なんだな……。

