*
ふたりで堤防の上を歩いて、遠く、出っ張った崖の上に灯台がよく見える場所に座った。ちょうど日影ができていて、海を見ながら座るのにはちょうどよかった。
「八月まで、すごい人だったんだろうな」圭一郎が呟いた。波打ち際で、犬を散歩させている人がいる。犬はぴょんぴょんと跳ね、波はざぁざぁと寄せる。
海の家を片づけた名残がある。ほんの少し前まで、砂浜には数えきれないくらいのパラソルが立てられて、みんな泳ぎに来ていたんだろう。
朔弥は膝に乗せた弁当箱の蓋を開いて、ゆうべの残りのエビフライに加え、ピラフとうずらのたまごと小さなからあげ……という、かなりご馳走な中身を見て、「お、お母さん、ぼくが新学期だからおいしいもの入れてくれたんだな……」と、ちょっと罪悪感に駆られている。圭一郎が少し申し訳なさそうな声で、ごめんね、と言った。
「おれがサボらせたから」
「違います、そもそもぼくが寝坊したからです」
「でもそのおかげで、海に来たんだ」
「それは先輩が連れてきてくれたおかげです」
ふたりは顔を見合わせて笑い、海を見ながら昼ご飯を食べた。海は青く、寄せて返す波は白い。眩しい太陽の光が、海面を銀色に照らす。まるで掴めそうなくらいだ。
太陽の位置はすぐに変わり、日影は伸びていく。これから日は短くなり、夜になるのも早くなっていく。秋へ向かう空気が、残暑の中に確かに見えた。
圭一郎と朔弥の、特別な夏になった。春先にお互いに恋をして、仲よくなって、恋人同士になって……言葉にするとすごく簡単に聞こえるのに、好きになった相手が自分のことを同じように好きになってくれる奇跡と感動は、ふたりにとってはじゅうぶんドラマチックだったのだ。
四月のぼくに、先輩と恋人同士になって海までデートに行くんだって言っても、信じないかもしれない。朔弥は思った。先輩みたいにかっこいい人が、ぼくのこと相手にするわけないよって、笑うかもしれない。
水平線の船。学校の昼休みは、そろそろ終わる時間。あんまり帰りは遅くなれないけれど、いつかもっと大人になって、門限とかもなくなって、夜遅くまで先輩と遊べるようになったら、サンセットと夜の海も見てみたい。
朔弥が圭一郎の肩に頭を乗せると、圭一郎の手のひらが朔弥の肩を抱いて、後ろの道路を通り過ぎる車の音と、海から聞こえる波の音、風と海鳥の声、まるで時間が止まるみたいな「きゅん」とする感覚が、強く朔弥の胸を締めつける。
「……先輩」
「うん」
朔弥は、この「きゅん」という感覚や、一緒にいられて嬉しい気持ちを少しでも圭一郎に伝えたくて、「先輩、大好き」と言った。圭一郎は笑って、「おれも今、同じこと言おうと思ったんだ」と言った。
嬉しくて、涙が出そうになる。鼻の奥がツン、として、ちょっとだけ目がしみる。ごまかすように目をぎゅうっ、と瞑ると、圭一郎の声がすぐそばで聞こえた。まつ毛がぶつかりそうなくらいの、すぐ近くで。
「朔弥」
朔弥。いつも、三浦くん、と呼ぶ圭一郎の声が呼んだ朔弥の名前。驚いて、ぱちっ、と目を開けると、圭一郎の唇が朔弥の唇にそっと触った。初めてのキス。涙が勝手に、ほろほろ、とこぼれる。圭一郎の指先が、朔弥の涙を拭ってくれる。
「……せんぱい」
「うん」
おでこをくっつけて、大好きな人の顔を見つめる。何度言っても足りない気がして、苦しい。
「先輩、だいすき……」
今度は朔弥からキスをした。触るだけのキスは、ふたりの身体も心も、ぴったりと貼りつけてくれる。もう絶対に離れないみたいに。
圭一郎は夏祭りの夜と同じように朔弥を抱きしめて、「おれも大好き。大好きだ、朔弥」と言った。朔弥はその声をいつまでも聞いていたくて、圭一郎の胸に涙を吸い込ませている。
波の音。どうして先輩はぼくを、こんなに幸せにしてくれるんだろう? 恋をしてよかった。世界はいつも、うんときらきらしている。
「……ただいま~」
「おかえり~。ガーネット、注射へっちゃらでえらかったの、先生にもこんなおりこうな子は珍しいって褒められたのよね~」
ガーネット、すごい! 朔弥はガーネットを抱き上げて頬擦りした。学校を生まれてサボった、なんてお母さんにはもちろんナイショ。でもガーネットには、あとでこっそり打ち明けようと思う。
「にゃう」
「えら~い! ガーネット! 天才!」
キッチンで晩ご飯を作っていたお母さんが、「朔、お弁当箱出して」と振り返る。そして朔弥の顔を見て、「あれ、朔」と言った。
「なに?」
「鼻のあたま、赤いよ。日に焼けた? 今日、そんなに外にいたの?」
「……」
朔弥は、「そうかな?」とごまかした。そのままガーネットを抱き、二階の自室に戻る。
ドアを閉めると、ガーネットに鼻のあたまをぎゅう、と肉球で押される。
「……ガーネット、お母さんにはナイショだよ。ぼくね、今日……」
先輩と海に行って、それから。
唇を、そっと指先で触る。先輩の、朔弥、と呼ぶ声を思い出して、身体の内側がどきどきですごいことになる。
朔弥はガーネットを抱いたまま、ベッドに倒れ込んだ。
どうしよう、ぼく先輩のこと、もっともっと好きになってる。これからどうなるんだろうって心配になるくらいに、昨日よりもさっきよりも、今のほうが先輩が好きで、多分五秒後にさらに好きになって、明日にはもっともっととんでもなく好きになってる!
夏が終わって秋になって、冬になっても、圭一郎と朔弥はふたりの特別な思い出を積み上げていく。一日一日が、ぜんぶ大事な日になる。今日みたいに。
朔弥は翌日、寝坊せずにすっきりと起きた。
斎藤くんと永田くんとのグループチャットに、『今日はちゃんと来る~?』というメッセージ。絶対行く、と返す。
余裕を持って、駅まで向かう。昨日走り抜けた道に、猫がいる。
「おはよ~」
「にゃう」
おまえ、昨日急いでたじゃん、とでも言いたげな目で見られる。今日は余裕です。朔弥は猫を撫でながら笑う。
昨日までの朔弥と、今日の朔弥は何か違うだろうか。圭一郎に出会う前と、出会ったあとで変わったのと同じみたいに。傍から見たら、わからない変化かもしれない。でも確実に違う。そのことをわかっているのは、世界で圭一郎と朔弥だけだ。
改札を抜ける。水色のベンチに、圭一郎が座っている。先輩、今日もぼくより早い。朝が苦手なんてウソみたいな顔で、いつも待っていてくれる。
「先輩、おはようございます!」
いつも、おはよう三浦くん、と返してくれていた。でも、今日からは?
朔弥はどきどきして、大好きな人の言葉を待った。優しく笑う顔。電車がホームに入ってくる。圭一郎は立ち上がり、朔弥の頭をぽん、と撫でる。
「おはよう、朔弥」
(先輩、だいすき)
ふたりで堤防の上を歩いて、遠く、出っ張った崖の上に灯台がよく見える場所に座った。ちょうど日影ができていて、海を見ながら座るのにはちょうどよかった。
「八月まで、すごい人だったんだろうな」圭一郎が呟いた。波打ち際で、犬を散歩させている人がいる。犬はぴょんぴょんと跳ね、波はざぁざぁと寄せる。
海の家を片づけた名残がある。ほんの少し前まで、砂浜には数えきれないくらいのパラソルが立てられて、みんな泳ぎに来ていたんだろう。
朔弥は膝に乗せた弁当箱の蓋を開いて、ゆうべの残りのエビフライに加え、ピラフとうずらのたまごと小さなからあげ……という、かなりご馳走な中身を見て、「お、お母さん、ぼくが新学期だからおいしいもの入れてくれたんだな……」と、ちょっと罪悪感に駆られている。圭一郎が少し申し訳なさそうな声で、ごめんね、と言った。
「おれがサボらせたから」
「違います、そもそもぼくが寝坊したからです」
「でもそのおかげで、海に来たんだ」
「それは先輩が連れてきてくれたおかげです」
ふたりは顔を見合わせて笑い、海を見ながら昼ご飯を食べた。海は青く、寄せて返す波は白い。眩しい太陽の光が、海面を銀色に照らす。まるで掴めそうなくらいだ。
太陽の位置はすぐに変わり、日影は伸びていく。これから日は短くなり、夜になるのも早くなっていく。秋へ向かう空気が、残暑の中に確かに見えた。
圭一郎と朔弥の、特別な夏になった。春先にお互いに恋をして、仲よくなって、恋人同士になって……言葉にするとすごく簡単に聞こえるのに、好きになった相手が自分のことを同じように好きになってくれる奇跡と感動は、ふたりにとってはじゅうぶんドラマチックだったのだ。
四月のぼくに、先輩と恋人同士になって海までデートに行くんだって言っても、信じないかもしれない。朔弥は思った。先輩みたいにかっこいい人が、ぼくのこと相手にするわけないよって、笑うかもしれない。
水平線の船。学校の昼休みは、そろそろ終わる時間。あんまり帰りは遅くなれないけれど、いつかもっと大人になって、門限とかもなくなって、夜遅くまで先輩と遊べるようになったら、サンセットと夜の海も見てみたい。
朔弥が圭一郎の肩に頭を乗せると、圭一郎の手のひらが朔弥の肩を抱いて、後ろの道路を通り過ぎる車の音と、海から聞こえる波の音、風と海鳥の声、まるで時間が止まるみたいな「きゅん」とする感覚が、強く朔弥の胸を締めつける。
「……先輩」
「うん」
朔弥は、この「きゅん」という感覚や、一緒にいられて嬉しい気持ちを少しでも圭一郎に伝えたくて、「先輩、大好き」と言った。圭一郎は笑って、「おれも今、同じこと言おうと思ったんだ」と言った。
嬉しくて、涙が出そうになる。鼻の奥がツン、として、ちょっとだけ目がしみる。ごまかすように目をぎゅうっ、と瞑ると、圭一郎の声がすぐそばで聞こえた。まつ毛がぶつかりそうなくらいの、すぐ近くで。
「朔弥」
朔弥。いつも、三浦くん、と呼ぶ圭一郎の声が呼んだ朔弥の名前。驚いて、ぱちっ、と目を開けると、圭一郎の唇が朔弥の唇にそっと触った。初めてのキス。涙が勝手に、ほろほろ、とこぼれる。圭一郎の指先が、朔弥の涙を拭ってくれる。
「……せんぱい」
「うん」
おでこをくっつけて、大好きな人の顔を見つめる。何度言っても足りない気がして、苦しい。
「先輩、だいすき……」
今度は朔弥からキスをした。触るだけのキスは、ふたりの身体も心も、ぴったりと貼りつけてくれる。もう絶対に離れないみたいに。
圭一郎は夏祭りの夜と同じように朔弥を抱きしめて、「おれも大好き。大好きだ、朔弥」と言った。朔弥はその声をいつまでも聞いていたくて、圭一郎の胸に涙を吸い込ませている。
波の音。どうして先輩はぼくを、こんなに幸せにしてくれるんだろう? 恋をしてよかった。世界はいつも、うんときらきらしている。
「……ただいま~」
「おかえり~。ガーネット、注射へっちゃらでえらかったの、先生にもこんなおりこうな子は珍しいって褒められたのよね~」
ガーネット、すごい! 朔弥はガーネットを抱き上げて頬擦りした。学校を生まれてサボった、なんてお母さんにはもちろんナイショ。でもガーネットには、あとでこっそり打ち明けようと思う。
「にゃう」
「えら~い! ガーネット! 天才!」
キッチンで晩ご飯を作っていたお母さんが、「朔、お弁当箱出して」と振り返る。そして朔弥の顔を見て、「あれ、朔」と言った。
「なに?」
「鼻のあたま、赤いよ。日に焼けた? 今日、そんなに外にいたの?」
「……」
朔弥は、「そうかな?」とごまかした。そのままガーネットを抱き、二階の自室に戻る。
ドアを閉めると、ガーネットに鼻のあたまをぎゅう、と肉球で押される。
「……ガーネット、お母さんにはナイショだよ。ぼくね、今日……」
先輩と海に行って、それから。
唇を、そっと指先で触る。先輩の、朔弥、と呼ぶ声を思い出して、身体の内側がどきどきですごいことになる。
朔弥はガーネットを抱いたまま、ベッドに倒れ込んだ。
どうしよう、ぼく先輩のこと、もっともっと好きになってる。これからどうなるんだろうって心配になるくらいに、昨日よりもさっきよりも、今のほうが先輩が好きで、多分五秒後にさらに好きになって、明日にはもっともっととんでもなく好きになってる!
夏が終わって秋になって、冬になっても、圭一郎と朔弥はふたりの特別な思い出を積み上げていく。一日一日が、ぜんぶ大事な日になる。今日みたいに。
朔弥は翌日、寝坊せずにすっきりと起きた。
斎藤くんと永田くんとのグループチャットに、『今日はちゃんと来る~?』というメッセージ。絶対行く、と返す。
余裕を持って、駅まで向かう。昨日走り抜けた道に、猫がいる。
「おはよ~」
「にゃう」
おまえ、昨日急いでたじゃん、とでも言いたげな目で見られる。今日は余裕です。朔弥は猫を撫でながら笑う。
昨日までの朔弥と、今日の朔弥は何か違うだろうか。圭一郎に出会う前と、出会ったあとで変わったのと同じみたいに。傍から見たら、わからない変化かもしれない。でも確実に違う。そのことをわかっているのは、世界で圭一郎と朔弥だけだ。
改札を抜ける。水色のベンチに、圭一郎が座っている。先輩、今日もぼくより早い。朝が苦手なんてウソみたいな顔で、いつも待っていてくれる。
「先輩、おはようございます!」
いつも、おはよう三浦くん、と返してくれていた。でも、今日からは?
朔弥はどきどきして、大好きな人の言葉を待った。優しく笑う顔。電車がホームに入ってくる。圭一郎は立ち上がり、朔弥の頭をぽん、と撫でる。
「おはよう、朔弥」
(先輩、だいすき)

