*
その日、朔弥は朝、ひとりだった。
おじいちゃんとおばあちゃんは、昔からの友人たちと二泊の温泉旅行の真っ最中。お父さんは出張中で、お母さんは朝からガーネットの特別な予防注射のために、獣医とは違う隣町の会場まで朝から出かけていて、テーブルの上にお弁当と朝ごはんが用意されていた。
今日から新学期。ゆうべ、晩ご飯を食べながら、「朔、明日起きたらもうお母さんもガーネットも出かけてるから、寝坊しないようにね」と言われた。
朔弥はけっこう、朝は自力で起きられる。だから余裕しゃくしゃくで、「は~い」と言いながら、エビフライとカニクリームコロッケを食べていた。小学生の頃から、寝坊して遅刻なんて一度もない。それは朔弥の自慢のひとつだった。
朝になれば、圭一郎といつもの電車の時間に駅で待ち合わせなのだ。また制服の圭一郎が見られることが、朔弥は嬉しい。先輩は私服もかっこいいけど、制服姿もすごくかっこいい。
それなのに、起きたらすごい時間だった。
「……あれっ……」
朔弥は、自分がいつスマホのアラームを止めたのかもわからず、しばらく現実が飲み込めず、数秒固まってしまった。頭の中で、カチッ、と「現実」のパズルがはまった時、朔弥は大声で叫んで飛び起きた。
「ねぼう!!」
もう、何をどうやっても遅刻の時間に起きたのは初めてだった。圭一郎との待ち合わせの電車は、とっくのとうに行ってしまったあとだった。スマホには圭一郎からのメッセージと、着信が入っている。サイレントのマナーモードのまま寝ていたのだ。それでもアラームは鳴るはずなのに、止めてしまった。
朔弥は圭一郎に電話をかけた。圭一郎がもしまだ駅で朔弥を待ってくれていたとしても、もうすぐに到着するであろう次の電車に乗れば遅刻は免れる。
『もしもし、三浦くん?』
地元の駅のアナウンスが聞こえる。電車がホームに入ってくる音。先輩、やっぱりぼくを待ってくれている。朔弥は、胸がきゅんと、するのがわかったけれど、ときめいている場合ではなかった。圭一郎が新学期早々朔弥のせいで遅刻なんて、そんなことは絶対に避けたい。
『何かあった? 大丈夫?』
「先輩やさしい、え~ん、寝坊しました、今起きました! 先輩、ぼくのことは置いてその電車で学校に行ってください!」
言葉にして説明すると、すごい情けない。だらしない。なんで、今日に限ってねぼうを……。
圭一郎は、笑ってくれた。その笑い声に朔弥はちょっぴり救われた。
『オッケー、三浦くん、ちゃんと朝ご飯食べてきなよ。遅刻くらい大丈夫、おれは数えきれないくらいしてるから』
朔弥はリビングに、お母さんが用意してくれたおにぎりと卵焼きが置かれているのを見て、圭一郎に言われた通り朝ご飯を食べた。気持ち、いつもより急いで。斎藤くんと永田くんとのグループチャットにも、『ぼく寝坊しちゃった。遅刻する』と送った。
ふたりからは、『めずらしい!』『新学期早々めずらしいから、ご利益ありそう』という返信がスタンプと共に返ってきて、朔弥はだんだんおおらかな気持ちになってきた。
長い人生、寝坊する日もある。
「ガーネットがいないと、さびしいな~」
鼻歌をうたう余裕も出てくる。歯を磨いて顔を洗って制服に着替えて……。
でも、いってきます、と家の外に出た時、今日は先輩と学校行けないんだ、という寂しさで、寝坊した自己嫌悪が甦ってくる。なんだか一日分、もったいないことをしてしまった。電車の中で見る圭一郎の姿を、一日分見損ねた。自業自得。もう絶対絶対絶対に寝坊しない、と朔弥は誓った。
ちょっと走れば次の電車に乗れて、遅刻とはいえ一限のかなり早い時間に間に合う。
九月になっても、秋はまだまだ遠くのほうだ。日射しは残暑の気配をたっぷりと残している。朔弥は小走りで駅に向かう。途中、ブロック塀の上の猫が、朔弥をちらり、と見た。
「おはよ~」
猫は、尻尾をぱたり、と振った。あくびをしている。かわいい~。猫に後ろ髪引かれながら、駅へと走る。次の電車、ぜんぜん間に合う! 改札を抜けて、見慣れたホームへ滑り込む。
はぁ~、と朔弥は大きく伸びをした。遅刻だけど、これくらいなら、まぁ……。
「おはよ」
横から、そう声をかけられる。ホームに誰もいないと思っていた朔弥は、驚いて横を向いた。
「えっ」
駅のホームの、色褪せた水色のベンチ。久しぶりに見る半袖の制服姿の圭一郎が座っていた。
「……えっ!? 先輩」
「あっはっは。かわい~、三浦くんが寝坊なんてホントに珍しいね」
「せ、先輩どうしたんですか!? 学校は、」
圭一郎は立ち上がり、朔弥の頭をぽん、と叩いた。急いで出たので、ちょっと寝癖が残っていて恥ずかしい。
「三浦くんのこと、待ってた」
「……ぼくのせいで、先輩も遅刻……すみません……」
「おれが勝手に待ってたんだもん。あのさ、三浦くん」
「はい」
電車が到着のアナウンスが、ホームに響く。圭一郎は自動販売機でいちご牛乳のパックを買って、走って汗をかいていた朔弥のほっぺたに押し当てた。圭一郎はよく、おれってかっこつけたことしちゃうから後から恥ずかしくなるんだよな、と朔弥に言うけれど。こういう、いわゆる「キザ」なことをする圭一郎のことが、朔弥はすご~く好きなのだ。それは朔弥に、いろいろしてあげたいという圭一郎の優しさの表れだから。その優しさが伝わってくる。
「……一日だけ、夏休み延長しよう。いい天気だから、海、見に行かない?」
朔弥には、昔から憧れていたけれど、できなかったことがある。見つかったら怒られるような行いというもの。でも心の中では、そういうことをしてみたいと思っていたのだ。カギのかかった屋上に侵入するなんて、まさにやってみたかったことである。あとは例えば、夜のプールに忍び込むとか。夜の校舎でこっそり肝試しとか……学校をサボタージュして、海を見に行く、とか。圭一郎がいなければ、憧れのままで終わっていたような。そういうことだ。
電車に乗り込む。もう学校には間に合わない時間。夏休みが終わり、平日、車両は貸し切り状態だった。学校の最寄り駅を過ぎて、終点のほうまで行けば、路面電車に乗り換えられる。その電車は、海まで行くのだ。海水浴のシーズンは、そのレトロさも相まってとても混雑する路線。今は夏のピークを過ぎて、若者たちも学校へ戻っていって、車窓はどんどん見慣れない風景になっていく。いつも降りる、学校の駅が過ぎていく。圭一郎は朔弥の顔を覗いて、「サボらせてごめん」と言った。
「……先輩」
「ん?」
「どきどきしますね。すごく」
先輩と、ちょっと悪いことできるのが嬉しい。先輩と出会わなかったら、こんな冒険することは絶対になかったと思う。
終点についたら、駅前にヤギがいた。ヤギ。学校から三十分くらいしか離れていないのに、いきなりヤギが登場するようなのどかさになるとは。
濃い緑が、小さな駅の待合室のガラスを抜けて、床も緑に染めている。鳴く蝉。ふたりの夏休みは、今日まで続いている。
「今から行く海、行ったことある?」
「昔、家族で一度だけ」
「おれと同じだ。プールのほうが、よく行ったよね」
手を繋いで、路面電車の駅に向かう。馴染のない町の、よそゆきの雰囲気。
「お昼はお弁当?」
「はい、今日朝からお母さんがガーネットを連れて予防接種に行ってるんですけど。作っておいてもらえました」
「うち、昨日行ってた」
「お母さんもガーネットもいない日に寝坊しちゃって……いつもはひとりで起きられるんですけど……」
「あっははは、おれはざくろに顔踏まれても起きられない」
改札には駅員の姿がない。ぽつん、と改札だけがあって、午前中のやわらかい光が、影との境目をくっきりと浮かばせている。海が近くなると、そういう雰囲気がある。まだ海の姿は見えないのに。夏に賑わった名残も、そこかしこに残っている。
「弁当買おうかな」
「海で食べましょう」
駅の横の売店も、どこか懐かしい佇まいをしている。この路面電車の車窓の風景は、SNSではお馴染みの風景らしい。ふたりはよく知らなかったけれど、ポスターが貼ってあった。去年、投稿されたハッシュタグの数で表彰された、とのことだった。朔弥はいつも、自分の知らない世界がたくさんあるな、と思う。これから知る世界も、知らないままの世界も、いろいろある。一生かけても世界の全部を見ることはできない。
でも圭一郎のことは、少しでも多く、見逃しが少ないようにしたい、と思った。大好きな人が恋人だという奇跡。朔弥の世界はもともと楽しかったし、きらきらもしていたけれど、圭一郎がもっとたくさんきらきらさせてくれる。これから先もずっと。だから朔弥も、圭一郎の世界をきらきらさせることができればいいな、と毎日考える。
先輩、どうすれば嬉しいかな? ぼくが嬉しいのと同じくらい、先輩も嬉しくなってほしい。
時刻表通りに入ってきた路面電車、太陽の光に照らされて、ちょっとまぶしい。ふたりで並んで座り、住宅街の中を縫うように走り、茂った木立や、ふたりの地元や通学路にある神社にもよく似た小さな鳥居の横を抜ける景色、いつ海が見えるのかとどきどきしながら見つめた。
海は前触れもなく、急に現れる。今までアパートや一戸建てが、ぴたり、とくっつくように建っている中を走っていたのに、ぱん、と急に、弾けるみたいに見晴らしがよくなり、遮るものの何もない水平線が現れる。
圭一郎と朔弥は声を揃えて、「「海だ」」と言った。四角い電車の窓が切り取った絵葉書みたいに、海は続く。圭一郎が、海に面した窓を少しだけ開けた。風が入ってくる。ふたりの住む町から、二時間弱。
【次は白桜海水浴場前】
ふたりは電車を降りて、少し塩辛いにおいの風を吸い込んだ。駅前の交番の前を通る時、少しこそこそした。ふたりは学校をサボっているのだ。ばっちり制服で。でも無事、切り抜けることができる。
「行こう、三浦くん」
海が近くにあるのが嬉しくて、ふたりはちょっとだけ駆け足になる。海がある以外は、ふたりの暮らす町の駅前と同じ感じがあるのに。チェーン店のカフェ、ファストフード店……でもコンビニに、貝殻を詰め合わせた籠が売っているのはやっぱり違う。旅行に来たみたい。
なだらかな坂をのぼると、道路を挟んで、堤防、その向こうが砂浜と海だった。ふたりの夏休みは、まだ終わっていない。最後の日まで、圭一郎が朔弥に特別な思い出を作ってくれる。
その日、朔弥は朝、ひとりだった。
おじいちゃんとおばあちゃんは、昔からの友人たちと二泊の温泉旅行の真っ最中。お父さんは出張中で、お母さんは朝からガーネットの特別な予防注射のために、獣医とは違う隣町の会場まで朝から出かけていて、テーブルの上にお弁当と朝ごはんが用意されていた。
今日から新学期。ゆうべ、晩ご飯を食べながら、「朔、明日起きたらもうお母さんもガーネットも出かけてるから、寝坊しないようにね」と言われた。
朔弥はけっこう、朝は自力で起きられる。だから余裕しゃくしゃくで、「は~い」と言いながら、エビフライとカニクリームコロッケを食べていた。小学生の頃から、寝坊して遅刻なんて一度もない。それは朔弥の自慢のひとつだった。
朝になれば、圭一郎といつもの電車の時間に駅で待ち合わせなのだ。また制服の圭一郎が見られることが、朔弥は嬉しい。先輩は私服もかっこいいけど、制服姿もすごくかっこいい。
それなのに、起きたらすごい時間だった。
「……あれっ……」
朔弥は、自分がいつスマホのアラームを止めたのかもわからず、しばらく現実が飲み込めず、数秒固まってしまった。頭の中で、カチッ、と「現実」のパズルがはまった時、朔弥は大声で叫んで飛び起きた。
「ねぼう!!」
もう、何をどうやっても遅刻の時間に起きたのは初めてだった。圭一郎との待ち合わせの電車は、とっくのとうに行ってしまったあとだった。スマホには圭一郎からのメッセージと、着信が入っている。サイレントのマナーモードのまま寝ていたのだ。それでもアラームは鳴るはずなのに、止めてしまった。
朔弥は圭一郎に電話をかけた。圭一郎がもしまだ駅で朔弥を待ってくれていたとしても、もうすぐに到着するであろう次の電車に乗れば遅刻は免れる。
『もしもし、三浦くん?』
地元の駅のアナウンスが聞こえる。電車がホームに入ってくる音。先輩、やっぱりぼくを待ってくれている。朔弥は、胸がきゅんと、するのがわかったけれど、ときめいている場合ではなかった。圭一郎が新学期早々朔弥のせいで遅刻なんて、そんなことは絶対に避けたい。
『何かあった? 大丈夫?』
「先輩やさしい、え~ん、寝坊しました、今起きました! 先輩、ぼくのことは置いてその電車で学校に行ってください!」
言葉にして説明すると、すごい情けない。だらしない。なんで、今日に限ってねぼうを……。
圭一郎は、笑ってくれた。その笑い声に朔弥はちょっぴり救われた。
『オッケー、三浦くん、ちゃんと朝ご飯食べてきなよ。遅刻くらい大丈夫、おれは数えきれないくらいしてるから』
朔弥はリビングに、お母さんが用意してくれたおにぎりと卵焼きが置かれているのを見て、圭一郎に言われた通り朝ご飯を食べた。気持ち、いつもより急いで。斎藤くんと永田くんとのグループチャットにも、『ぼく寝坊しちゃった。遅刻する』と送った。
ふたりからは、『めずらしい!』『新学期早々めずらしいから、ご利益ありそう』という返信がスタンプと共に返ってきて、朔弥はだんだんおおらかな気持ちになってきた。
長い人生、寝坊する日もある。
「ガーネットがいないと、さびしいな~」
鼻歌をうたう余裕も出てくる。歯を磨いて顔を洗って制服に着替えて……。
でも、いってきます、と家の外に出た時、今日は先輩と学校行けないんだ、という寂しさで、寝坊した自己嫌悪が甦ってくる。なんだか一日分、もったいないことをしてしまった。電車の中で見る圭一郎の姿を、一日分見損ねた。自業自得。もう絶対絶対絶対に寝坊しない、と朔弥は誓った。
ちょっと走れば次の電車に乗れて、遅刻とはいえ一限のかなり早い時間に間に合う。
九月になっても、秋はまだまだ遠くのほうだ。日射しは残暑の気配をたっぷりと残している。朔弥は小走りで駅に向かう。途中、ブロック塀の上の猫が、朔弥をちらり、と見た。
「おはよ~」
猫は、尻尾をぱたり、と振った。あくびをしている。かわいい~。猫に後ろ髪引かれながら、駅へと走る。次の電車、ぜんぜん間に合う! 改札を抜けて、見慣れたホームへ滑り込む。
はぁ~、と朔弥は大きく伸びをした。遅刻だけど、これくらいなら、まぁ……。
「おはよ」
横から、そう声をかけられる。ホームに誰もいないと思っていた朔弥は、驚いて横を向いた。
「えっ」
駅のホームの、色褪せた水色のベンチ。久しぶりに見る半袖の制服姿の圭一郎が座っていた。
「……えっ!? 先輩」
「あっはっは。かわい~、三浦くんが寝坊なんてホントに珍しいね」
「せ、先輩どうしたんですか!? 学校は、」
圭一郎は立ち上がり、朔弥の頭をぽん、と叩いた。急いで出たので、ちょっと寝癖が残っていて恥ずかしい。
「三浦くんのこと、待ってた」
「……ぼくのせいで、先輩も遅刻……すみません……」
「おれが勝手に待ってたんだもん。あのさ、三浦くん」
「はい」
電車が到着のアナウンスが、ホームに響く。圭一郎は自動販売機でいちご牛乳のパックを買って、走って汗をかいていた朔弥のほっぺたに押し当てた。圭一郎はよく、おれってかっこつけたことしちゃうから後から恥ずかしくなるんだよな、と朔弥に言うけれど。こういう、いわゆる「キザ」なことをする圭一郎のことが、朔弥はすご~く好きなのだ。それは朔弥に、いろいろしてあげたいという圭一郎の優しさの表れだから。その優しさが伝わってくる。
「……一日だけ、夏休み延長しよう。いい天気だから、海、見に行かない?」
朔弥には、昔から憧れていたけれど、できなかったことがある。見つかったら怒られるような行いというもの。でも心の中では、そういうことをしてみたいと思っていたのだ。カギのかかった屋上に侵入するなんて、まさにやってみたかったことである。あとは例えば、夜のプールに忍び込むとか。夜の校舎でこっそり肝試しとか……学校をサボタージュして、海を見に行く、とか。圭一郎がいなければ、憧れのままで終わっていたような。そういうことだ。
電車に乗り込む。もう学校には間に合わない時間。夏休みが終わり、平日、車両は貸し切り状態だった。学校の最寄り駅を過ぎて、終点のほうまで行けば、路面電車に乗り換えられる。その電車は、海まで行くのだ。海水浴のシーズンは、そのレトロさも相まってとても混雑する路線。今は夏のピークを過ぎて、若者たちも学校へ戻っていって、車窓はどんどん見慣れない風景になっていく。いつも降りる、学校の駅が過ぎていく。圭一郎は朔弥の顔を覗いて、「サボらせてごめん」と言った。
「……先輩」
「ん?」
「どきどきしますね。すごく」
先輩と、ちょっと悪いことできるのが嬉しい。先輩と出会わなかったら、こんな冒険することは絶対になかったと思う。
終点についたら、駅前にヤギがいた。ヤギ。学校から三十分くらいしか離れていないのに、いきなりヤギが登場するようなのどかさになるとは。
濃い緑が、小さな駅の待合室のガラスを抜けて、床も緑に染めている。鳴く蝉。ふたりの夏休みは、今日まで続いている。
「今から行く海、行ったことある?」
「昔、家族で一度だけ」
「おれと同じだ。プールのほうが、よく行ったよね」
手を繋いで、路面電車の駅に向かう。馴染のない町の、よそゆきの雰囲気。
「お昼はお弁当?」
「はい、今日朝からお母さんがガーネットを連れて予防接種に行ってるんですけど。作っておいてもらえました」
「うち、昨日行ってた」
「お母さんもガーネットもいない日に寝坊しちゃって……いつもはひとりで起きられるんですけど……」
「あっははは、おれはざくろに顔踏まれても起きられない」
改札には駅員の姿がない。ぽつん、と改札だけがあって、午前中のやわらかい光が、影との境目をくっきりと浮かばせている。海が近くなると、そういう雰囲気がある。まだ海の姿は見えないのに。夏に賑わった名残も、そこかしこに残っている。
「弁当買おうかな」
「海で食べましょう」
駅の横の売店も、どこか懐かしい佇まいをしている。この路面電車の車窓の風景は、SNSではお馴染みの風景らしい。ふたりはよく知らなかったけれど、ポスターが貼ってあった。去年、投稿されたハッシュタグの数で表彰された、とのことだった。朔弥はいつも、自分の知らない世界がたくさんあるな、と思う。これから知る世界も、知らないままの世界も、いろいろある。一生かけても世界の全部を見ることはできない。
でも圭一郎のことは、少しでも多く、見逃しが少ないようにしたい、と思った。大好きな人が恋人だという奇跡。朔弥の世界はもともと楽しかったし、きらきらもしていたけれど、圭一郎がもっとたくさんきらきらさせてくれる。これから先もずっと。だから朔弥も、圭一郎の世界をきらきらさせることができればいいな、と毎日考える。
先輩、どうすれば嬉しいかな? ぼくが嬉しいのと同じくらい、先輩も嬉しくなってほしい。
時刻表通りに入ってきた路面電車、太陽の光に照らされて、ちょっとまぶしい。ふたりで並んで座り、住宅街の中を縫うように走り、茂った木立や、ふたりの地元や通学路にある神社にもよく似た小さな鳥居の横を抜ける景色、いつ海が見えるのかとどきどきしながら見つめた。
海は前触れもなく、急に現れる。今までアパートや一戸建てが、ぴたり、とくっつくように建っている中を走っていたのに、ぱん、と急に、弾けるみたいに見晴らしがよくなり、遮るものの何もない水平線が現れる。
圭一郎と朔弥は声を揃えて、「「海だ」」と言った。四角い電車の窓が切り取った絵葉書みたいに、海は続く。圭一郎が、海に面した窓を少しだけ開けた。風が入ってくる。ふたりの住む町から、二時間弱。
【次は白桜海水浴場前】
ふたりは電車を降りて、少し塩辛いにおいの風を吸い込んだ。駅前の交番の前を通る時、少しこそこそした。ふたりは学校をサボっているのだ。ばっちり制服で。でも無事、切り抜けることができる。
「行こう、三浦くん」
海が近くにあるのが嬉しくて、ふたりはちょっとだけ駆け足になる。海がある以外は、ふたりの暮らす町の駅前と同じ感じがあるのに。チェーン店のカフェ、ファストフード店……でもコンビニに、貝殻を詰め合わせた籠が売っているのはやっぱり違う。旅行に来たみたい。
なだらかな坂をのぼると、道路を挟んで、堤防、その向こうが砂浜と海だった。ふたりの夏休みは、まだ終わっていない。最後の日まで、圭一郎が朔弥に特別な思い出を作ってくれる。

