昼下がりのキャンパスに、春の風がやわらかく流れていた。青々とした芝の上では数人の学生が寝転び、陽光を浴びて気だるげにまどろんでいる。桜の花弁が風に舞い、午後の空気に、どこかぼんやりとした甘さを添えていた。
 第二言語で選んだフランス語の講義を終えた俺は、カバンを肩に引っかけ、自販機のある小道を気ままに歩いていた。緩やかな傾斜の先、缶コーヒーでも買ってベンチで一息つこうか——そんなふうに考えていた、そのときだった。
「うわっ……!」
 背後から、ぬくもりの塊が突然抱きついてくる。肩にずっしりとのしかかる体重に、反射的に「ぐえっ」と情けない声が喉をついて出た。
「もう……探したじゃんか。こんなとこにいたんだ」
 背中越しに聞こえる声は、低く甘い。振り返るまでもなく、誰かはわかる。細く長い腕、少し冷えた指先、鼻先にふっと届く馴染んだ香り——明だった。
「……重いっつの。どけ、バカ」
 そう言いつつも、振りほどく力は抜けていた。むしろ、背中にぴったり貼りつくその体温が、じんわりと心をほぐしていく。
「会えないとさ、不安になるんだよ。寂しい」
 小さく呟かれたその言葉に、冗談の響きはなかった。俺は舌打ち混じりに笑って、「ガキかよ」と吐き捨てながら、どこか胸の奥がくすぐったくなる。
 ——そのときだった。
「アキくんっ!」
 甲高く甘えた声が飛んできて、反射的に視線を上げる。華やかなウェーブヘアを揺らしながら駆け寄ってきたのは、学内でも有名な美人、藤堂茉莉(とうどうまり)だった。目元にはラメ入りのアイシャドウ、香水の香りが風に乗ってこちらへ届く。
「ねえ、今日こそ遊びに行こうよ。飲みに行かない? ね?」
 藤堂は、躊躇いもなく明の腕に自分の身体を預ける。目の前に俺がいることなど、まるで眼中にない。
 胸の奥に、鈍い熱が灯る。喉がつかえるような違和感。なんだこれ……。
 ――明に、触るなよ。
 自分でも意外だった。思わず、明の横顔を盗み見る。だが、彼の表情は一切変わらなかった。視線すら向けず、冷ややかな声で言い放つ。
「……あんた、まだ十九だろ。そういうとこ守れない奴、俺、嫌いだから」
 その一言で、藤堂の表情が引きつる。プライドを打ち砕かれたように唇を歪め、なにも言わずに踵を返して去っていった。
 俺は小さくため息をつき、横目で明を見た。
「……おまえ、容赦ねえな」
「そう? 正直なだけだよ」
 いつものように明は笑った。その笑顔がさっきの冷淡さとは別人のようで、なぜか心拍数が上がるのを感じる。あんな美人を退けてくれた——それが、妙に嬉しかったのかもしれない。
「隼人たち、これからゲーセン行くって。行こうぜ」
 明がいつも通りのテンションで言う。俺は、動揺を悟られたくなくて、わざと軽く笑って返した。
「おー、行こーぜ」
 明は嬉しそうに目を細め、俺の手をとって駆け出した。暖かくて、少し力の強いその手を、自然と握り返していた。




   *** 



 ゲーセンの中は、ピコピコと電子音が飛び交い、ネオンが人々の頬を色とりどりに照らしていた。店内はゲームの熱気と、笑い声と、甘いポップコーンの香りで満ちている。
 外のUFOキャッチャーでひと騒ぎしたあと、いつもの五人でゲーセン内に入ると、すぐに対戦ゲームに目を奪われた。俺と明は隣り合い、コントローラーを奪い合いながらゲームに熱中する。
「それ俺のキャラだって! 返せ!」
「秋司より俺のほうが上手いんだから、しょうがなくない?」
 肩がぶつかり、笑い声を上げた次の瞬間、バランスを崩して俺の体が後ろに傾く。
「わっ……!」
 床へと倒れ込む俺。その上に、明の体が覆いかぶさる形になった。
 時が止まったようだった。
 顔と顔の距離はわずか数センチ。息がかかるほどの近さに、思わず身体が硬直する。明の瞳が、わずかに揺れていた。どこか戸惑いの色を湛えながら、まっすぐ俺を見つめてくる。
(……近い。やば……)
 指先が明の腕に触れる。その下に脈打つ心臓の音。鼓動が速く、明らかにさっきよりも早くなっていた。
(これ……明の心臓の音、だよな?)
 信じられない思いで、明を見上げる。
「……ごめん」
 明が小さく呟き、そっと身体を起こす。その頬は、ほんのり赤く染まっていた。
 俺はなにも言えず、曖昧に笑ってみせた。指先に残るぬくもりが、どうしようもなくリアルで。拳をぎゅっと握り、心の奥に湧いた熱をむりやり押し込めた。
 ――びっくりしただけ。男同士だし、あいつが俺にドキドキするわけないだろ。
 そう自分に言い聞かせながら、その瞬間をなかったことにした。



   *** 



 そのあとは女子たちに引きずられ、プリクラを撮ることになった。結菜と遥が前列でしゃがみ、男子三人が後列に並ぶ。慣れない機械の照明がまぶしくて、目を細めながら立ち尽くす。
「はいはい、男子〜、ハート作って!」
「顔近づけて〜、もっと!」
 機械のピコピコ音と女子のテンションに流され、俺は仕方なく指でハートを作る。すると、明がじわじわと俺のほうに寄ってきた。
「おい、押すなって」
 隼人が押し出されそうになってる。俺は明に小声で抗議する。
 「近ぇよ」
 そのタイミングで、遥の声が飛ぶ。
「秋司と明、もっとくっついて! 枠から外れてる!」
「無理だっつの! これ以上くっついたら顔ぶつかるわ!」
 明は、ふっと笑った。その笑顔は、まるでこっちの動揺を楽しんでるようで、胸の奥を不意に突かれる。
 撮り終わった写真を見て、結菜と遥が爆笑した。ゼロ距離の俺と明の様子を指差す。
「なにこれ、明の彼氏感やばくない?」
「ねえ、付き合ってんの? 絶対そうでしょ!」
 囃し立てる声に、俺はなにも言い返せなかった。明はただ静かにプリクラの一枚を抜き取り、折れることなくポケットへしまった。その仕草が、妙に丁寧で、俺はついその手を目で追ってしまう。
 ——明って、かっこいいし、優しいし。もし誰かと付き合ったら、その人をきっと幸せにするんだろうな。
 だけど、その「誰か」は、俺じゃない。
 明と並ぶには、もっと綺麗で、もっと完璧な人間じゃなきゃ。そう思って、胸の奥が少しだけ、沈んだ。