きみの痛みを、ずっと見ていた

 講義室の木目の机に斑に落ちた春の光が、カーテンの揺れに合わせて形を変える。風の匂いと鳥の声が、室内の空気を春に染めていく。
 今、受けている授業のテーマは「恋愛における初動」。グループディスカッション中心の講義だが、女子人気の高い授業だった。俺と明はこの授業を受ける気はなかったが、遥と結菜に懇願されて一緒に受けることになった。ちなみに、隼人は一人で逃げた。
 周囲の女子たちは話題に花を咲かせていた。声が少しずつ高くなり、笑いが弾けるたびに、空気が甘ったるく湿っていく。
 明は両腕を組み、背もたれに重心を預けながら天井の染みを睨んでいた。興味がないというより、むしろこの場の空気を肺に入れることすら面倒くさそうに。
「秋司、あんたは好きなタイプとかいないのー?」
 遥が机越しに身を乗り出してきた。陽に透ける髪が揺れ、無邪気な笑顔が距離を詰める。
「いや、そういうの興味ねーし」
 言いながら顎を引き、遥からの視線を避けた。声には無意識の棘が混じっていた。
 ――だって、俺みたいなつまらない人間を好きになるやつなんていねえもん。
 子どもっぽい拗ねた気持ちが、ふつふつと湧いてくる。
 軽く笑った遥が、今度は明に目を向ける。声色が一段トーンを上げ、場の空気に浮いたような期待感が乗る。
「アキくんは? 絶対モテるでしょ、今まで彼女何人いた?」
 明はふと視線を下に落とし、指先でペンをくるくると回す。やや間を置いて、ぽつりと言った。
「いないよ。ずっと好きな人がいるから」
 言葉が教室の喧騒の中で奇妙に響いた。明の声は柔らかかった。でも、その確信めいた言い方に、妙な寒気が走った。まるで「それはずっと変わらない」と語るように。その声はごく自然だったのに、胸の奥に針のように刺さった。
 思考よりも先に、喉の奥が勝手に震えた。
「……は? 誰だよ、それ」
 冗談のつもりで言ったのに、口元が引きつっていた。笑おうとしても頬の筋肉が言うことをきかない。背中を汗が伝う。
 明は返事をせず、ただ静かに俺を見つめていた。笑いもせず、目を細めることもなく。そのまなざしに何かを読み取ろうとして、でも目をそらしたくなる。まるで心の奥を覗かれているようで。教室のざわめきが遠ざかる。ノイズのような笑い声や椅子の軋む音が、まるで水中で聞く音みたいにくぐもっていく。俺と明だけが、時間から外れた場所に立っているようだった。
「じゃあ、次……高瀬(たかせ)くん。きみはどう思う?」
 教授の声に教室の空気がわずかに動いた。何人かの視線が一斉にこちらへ向けられる。
 ――やばい、当てられた。話なんて聞いてなかったのに……。
 明の話に気を取られていた罰が当たった。動揺を誤魔化そうと何度か咳払いをしてから、俺は椅子をギィッと軋ませた。
「……恋愛の初動、ですよね。結局、最初に動いたほうが負け……みたいなところがあると思います。気持ちを知られたら、相手の立場が上になる。主導権は相手側に渡って、コントロールできなくなります」
 教室が一瞬、凍ったように静まり返る。さっきまで「理想の告白シチュエーション」なんて話していた女子たちの口がぽかんと開く。
 ただひとり、明だけが。机に置いた手をわずかに動かし、真剣な瞳で俺を見つめた。
 その仕草は静かで、熱かった。心臓が一拍、なにかに触れたように跳ねる。
 俺の返答は、授業の意図からそう離れていなかったらしい。教授は納得したように頷くと、また別の生徒に意見を聞きにいった。
「ねえ、それってつまり、秋司は好きになっても絶対に言わないってこと?」と、遥が笑いながら口を挟む。
「なんか、明ってそういうの許さなそう〜。明、そこんとこどうなの? 秋司は告白してくれないそうだけど」
「うーん、残念だなあ。しょうがないから、俺から告白してあげよっかな」
 明の台詞に、遥と結菜が爆笑する。
「変なこと言ってんじゃねえよ!」
 俺は声を張った。笑い飛ばそうとして、肩をすくめる。だがその瞬間、耳の奥でドクン、と自分の心臓の音がやけにうるさく響いた。
(ただのノリで言った言葉だって、わかってる。わかってる、けど……)
 視界の端で、明が微笑む。けれどその目は、どこか笑っていなかった。

 授業が終わり、教室から人がまばらに出ていくなか、俺は椅子から立ち上がることもできずにいた。机に肘をつき、ぼんやりと視線を落とす。そこには、誰がいつ刻んだのかもわからない落書きが、木目に沿って無数に彫られている。名前、イニシャル、ハートのマーク。暇を持て余した不真面目な学生の痕跡。
 俺は無意識に、それを指先でなぞっていた。なぞりながら、口の中で呟く。
「……ずっと好きだったって、そんなこと……あるかよ」
 小中高、誰かが「好きだ」と言って、やがて別の誰かに目を向けていったのを何度も見てきた。人の気持ちなんて、揺れて、変わって、結局、消える。母親でさえ、自分の子どもに飽きて捨てたりするのに。
 でも、明のあの声は──あの目は、そうじゃないように見えた。
「なあ、明」
 廊下に出る直前、明の背中を追って声をかけた。明はゆっくりと振り返る。春の午後の日差しが、彼の髪に薄く縁を描いている。
「好きなやつって……誰なんだよ。さっき言ってたやつ」
 明はほんの少し眉を下げた。困ったように、でもどこか寂しげに笑って、「……秘密」と、囁くように言った。
 その言い方が、どうしようもなく真っ直ぐで、どうしようもなく切なかった。
 俺は言葉を返せず、ただ胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。