家に着いた瞬間、自分を取り巻く空気が変わる。
 学校にいたときは気づかなかったけど、こうしてひとりになると、肌にまとわりつく静けさがいやに重たい。玄関のドアを閉める音が、妙に響いた。リビングのソファにカバンを放り投げ、乱暴に体を倒す。天井を見上げたまま、ぼうっと呼吸していると、さっきまで明と笑いあっていた時間が、嘘みたいに遠く感じた。
 ――あいつ、また、俺の頭ぐしゃぐしゃにしてきやがって。
 指先に、明が触れたときの感触が残っている。優しいくせに、無神経な力強さで。くすぐったくて、あたたかくて、どうしようもなく、安心した。
「……チッ」
 舌打ちして起き上がる。そんなこと、いちいち思い返す必要なんかないだろ。床に投げ出した自分の指を、じっと見つめる。誰かに、触れられることなんて、ほとんどなかった。触れた相手の体温を、こんなに忘れられずにいるなんて、なおさら。
 明といるときだけ、妙に楽だ。本当の自分を、バカみたいにさらけ出しても、あいつは笑って受け止める。どんなに俺が無愛想でも、怒っても、くだらないことで絡んでも――変わらず、横にいる……だから。俺は、あいつに甘えてんだろうな。眉をしかめる。自分で気づいて、余計にイラつく。
(バカみてえ)
 誰にだって優しいやつだって、わかってる。俺だけ特別だなんて、思っちゃいけない。わかってるくせに――思い出すのは、ふいに触れた指のぬくもりと、誰にも向けたことがないみたいな、あいつの笑顔だった。

 夜十一時過ぎになると、スマホが突然震えた。
 画面に浮かんだ「アキ」の二文字を、しばらく見つめる。
(どうしたんだ、こんな時間に)
 通話ボタンを押すと、少し間をおいて、ノイズ混じりの声が落ちてきた。
『……起きてた?』
「起きてたけど。どうしたよ」
 向こうでかすかに、風が鳴っている。外にいるのか。こんな夜に。
『んー、なんか、寝れなくてさ』
 笑い交じりに言った声は、いつもよりずっとかすれていた。
 どきりとして、スマホを握り直す。電話越しに聞こえてくる風の音がまた少し大きくなって、沈黙が流れた。
 明は名前の通りに明るいやつだけど、こうしてときどき、驚くほど頼りなく、不安定になるときがある。
 なんとなく、ピンときた。一限の、哲学の授業。あのときに聞いた教授の話が、明の中でまだ波紋を生んでいるんだろう、と。
「明……哲学の授業、引きずってんのか」
『あー……まあ、うん。そうかも』
 珍しく、歯切れが悪い。いつもなら、ふざけて笑って、話題を逸らすくせに。
『……死って、怖いなって思ってさ』
 ぽつりと、明が言った。静かだった。夜の冷たさが、スマホ越しに伝わってくるみたいだった。
「怖い、ってか……さみしいのかもな。死ぬほうは誰かを置いていくし、死なれるほうは置いていかれるから」
 自分でも、なんでそんなことを口にしたのかわからない。
 でも、明はふっと、息を吐いて笑った。
『そっか。……さみしい、か』
 遠くで、車のクラクションが小さく響いた。
『秋司は、いなくならないでよ』
「は?」
『……なんか、さ。考えたら怖くなった。おまえまでいなくなったら、俺、どうやって生きりゃいいんだろうな、って」
 からかうでもなく、冗談めかすでもなく。明は、ひたすらに真っすぐな声で、そんなことを言った。どこか涙の気配を感じさせる音がした。
 驚いて、喉が詰まった。
「バカか、おまえ」
 やっと絞り出した声は、思ったより掠れていた。
「どこにも行かねえよ。簡単に死んだりしねえって」
『……うん』
 少し間をおいて、明がこくりと頷いた気配がした。
『じゃあ、俺、もうちょっと頑張って生きてみるよ』
 明は冗談みたいに軽く言って、それでも最後に、少しだけ甘えるみたいに付け足した。
「なあ、今どこ? 会いたいんだけど」
 明の様子は、尋常じゃなかった。このまま電話を切ったら、もう二度と会えないような――そんな漠然とした不安が俺を動かした。
「あのさ……さ、酒! 酒でも飲もうぜ! なっ?」
『……ああ。いいよ』
 受話器の向こうで、明が頷く音が聞こえた。俺は心底ほっとして、息を吐く。
 夜は、まだ終わりそうになかった。