それは、次の講義に向かう道の途中で起きた。
「なあなあ、アキくーん!」
廊下の端から、チャラい声が飛んできた。見れば、別の学部の連中が手を振っている。髪は染め放題、ピアスだらけ。どう見てもロクな奴らじゃない。
「またかよ……」
俺はぼそっと吐き捨てた。
明はモテすぎるが故に、敵も作りやすかった。恨みを持ち絡んでくる輩の理由は、いつも決まって「狙ってた女を横取りされたから」とかいう、しょうもないものだった。
明は一瞬、苦笑いを浮かべたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。どこまでもいいやつであろうとする、明らしい態度だった。
「よお、最近冷たくね?」
「俺らとも遊ぼうぜー?」
ぐい、と。男たちのうちの一人が、明の腕を引っ張った。
――瞬間、体が勝手に動いていた。俺は明とそいつらの間に割り込んだ。
「やめろよ」
空気が止まった。一瞬の静寂。男たちの視線が俺に刺さる。それでも、一歩も引かなかった。
チャラ男どもが一瞬、睨みをきかせたが、俺の顔と、無言の気配を読んで、ふっと肩をすくめた。
「なーんだよ、怖ぇな。……またな、アキくん」
軽口を叩きながら、奴らは去っていった。途端、緊張が抜けて、俺はため息を吐いた。
「ったく……」
振り返ると、すぐそばに明がいた。
「ありがとな」
明の唇が、音もなく緩んだ。ただ、それだけなのに。妙に胸を撃ち抜かれる気がした。さらに明が、そっと俺の肩に額を寄せた。一瞬だけ、重なる体温。耳元で、静かに吐き出される呼吸。
「おまえ、マジでかっこいいな」
そんなことを、呟いた。
(……は?)
言葉が出なかった。
なのに、明はおかしそうに笑って、俺の指先に、そっと自分の指を重ねてきた。その一瞬で、頭がぐらぐらになった。
「俺なんか褒めたって……なんも出ねえぞ」
思わず、口をついて出た声。明はなにも言わずに、ただ笑っていた。まるで――俺だけが、世界でいちばん大事だと言わんばかりに。
***
昼休みの学食は、いつも人であふれている。うるさい声と、食べ物の匂いと、テーブルを叩く音。それら全部を背中でかわしながら、俺たちはいつもの端っこの席に陣取った。
朝しっかり食べたせいか、あまり腹が空いていなかった。仕方なく頼んだゼリーをトレーに乗せ、プルプルとした表面をスプーンてつつく。
その様子を見かねた明が、ため息まじりに言う。
「またゼリー? おまえ、それだけで足りるわけねえだろ」
俺はゼリーをスプーンで口に運びながら、肩をすくめた。
「だって、腹減ってねえし」
明は自分のトレーに視線を落とし、カツが乗った皿をスッと差し出してきた。
「ほら、トンカツやるから食え。肉食っとけ、肉」
「いやいや、なんでそうなるんだよ。食欲ねえって言ってんじゃん」
「いいから黙って食え。俺がこっち食うから」
「いらねえって」
「いいから」
押し問答の末、俺は明の圧に負けた。結局、肉を拒否している胃にトンカツを詰め込む羽目になった。
そのやり取りを聞いていた向かいの席の友人たちが、吹き出した。
「なにその夫婦感。てか明、おかんかよ」
「完全に世話焼き女房じゃん」
「違えよ」と明は即座に否定したが、耳がほんのり赤かった。
――照れてやんの。
目を逸らしながら、口元を少しだけ緩めた。トンカツを押しつけられた恨みだ。明も少しは恥ずかしがればいい。
「つーかさ、さっき起きたこと、聞いてくれよ? 秋司がヒーローみたいに助けてくれたんだぜ」
明が急に身を乗り出す。話題を変えるつもりかと思いきや、どこか誇らしげだ。
「他学部の男にまた絡まれててさ。ほら、あの女を横取りしたーとかわけわからないこと言ってたやつらな。『遊ぼうぜー』って言われて困ってたら、いきなり秋司が出てきて、『やめろよ』って。目だけで威圧して黙らせてた」
「……明、黙れって」
低い声で明を制止したが、明は目を輝かせて話し続けた。その手元では、ゼリーがスプーンでぐるぐるにかき混ぜられている。
「いや、マジでカッコよかったんだって! あの目な、こう、狼っぽいっていうか――ほら、おまえらも想像してみ?」
「わー、やだカッケー!」
「ヤンキー漫画かよ?」
「やるじゃん、秋司!」
明が楽しげに笑いながら話すと、隼人、結菜、遥は歓声を上げた。
「……あ、あはは、それほどでも……」
隼人にバシバシと肩を叩かれて、鼻の頭を掻いた。褒められ慣れてないから、こんなときどう反応すればいいかわからない。でも、悪くない気分だった。
明は、そんな俺を見てきゅっと目尻を下げて微笑んだ。まるで俺の株を上げることが、嬉しくてたまらないといった風に。
「ほんと、助けてくれてありがとな。……秋司は優しいよな」
ゼリーの表面に映る明の横顔が、ほんの少しだけ照れたように揺れた。
こってりしたトンカツを口に運びながら、ふと視線を上げると、明がにやにや笑っている。
「うるさいぞ」
「俺なにも言ってないけど?」
「……顔がうるさいんだよ」
ぶっきらぼうに言って、カツ丼をかき込む。そうして、またいつも通りの日常に戻る――はずだった。
……が。
「なあ、授業中寝たら、こうされるぞ?」
明が、にやりと悪い顔をして、俺の前髪をぐしゃっとかき回した。
「やめろバカッ」
急いで手を払いのける。周りの視線がちらちらとこっちを向くのがわかって、余計に顔が熱くなった。
「ほらな、油断してるとやられるんだぞ?」
明はどこまでも悪ノリだった。しかも、たちが悪いことに、ふざけるときでも、どこか優しさが滲む。ふっと撫でるみたいな指先。からかうようでいて、全然痛くないタッチ。
(やめろよ、こういうの)
そんなことされたら、意識するしかないだろ。きっと、明にとってはなんてことないのに。俺だけ意識して、期待して。脳裏に残るのはあいつの手。あの優しさが、俺だけのものであってほしいなんて――そんなの、図々しいにもほどがある。
――それでも。
こんなふうに、バカみたいに笑いあえる時間が、俺はなによりも好きだった。誰に遠慮することもなく、気を張ることもなく、ただ素のままでいられる。明といると、肩の力が抜ける。
(……こんな時間が、幸せってやつなんだろうな)
自分の中に生まれつつある想い。気づかないふりをして、またカツ丼を口に運んだ。
明の声と学食のざわめきが、耳の奥で溶けていった。
「なあなあ、アキくーん!」
廊下の端から、チャラい声が飛んできた。見れば、別の学部の連中が手を振っている。髪は染め放題、ピアスだらけ。どう見てもロクな奴らじゃない。
「またかよ……」
俺はぼそっと吐き捨てた。
明はモテすぎるが故に、敵も作りやすかった。恨みを持ち絡んでくる輩の理由は、いつも決まって「狙ってた女を横取りされたから」とかいう、しょうもないものだった。
明は一瞬、苦笑いを浮かべたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。どこまでもいいやつであろうとする、明らしい態度だった。
「よお、最近冷たくね?」
「俺らとも遊ぼうぜー?」
ぐい、と。男たちのうちの一人が、明の腕を引っ張った。
――瞬間、体が勝手に動いていた。俺は明とそいつらの間に割り込んだ。
「やめろよ」
空気が止まった。一瞬の静寂。男たちの視線が俺に刺さる。それでも、一歩も引かなかった。
チャラ男どもが一瞬、睨みをきかせたが、俺の顔と、無言の気配を読んで、ふっと肩をすくめた。
「なーんだよ、怖ぇな。……またな、アキくん」
軽口を叩きながら、奴らは去っていった。途端、緊張が抜けて、俺はため息を吐いた。
「ったく……」
振り返ると、すぐそばに明がいた。
「ありがとな」
明の唇が、音もなく緩んだ。ただ、それだけなのに。妙に胸を撃ち抜かれる気がした。さらに明が、そっと俺の肩に額を寄せた。一瞬だけ、重なる体温。耳元で、静かに吐き出される呼吸。
「おまえ、マジでかっこいいな」
そんなことを、呟いた。
(……は?)
言葉が出なかった。
なのに、明はおかしそうに笑って、俺の指先に、そっと自分の指を重ねてきた。その一瞬で、頭がぐらぐらになった。
「俺なんか褒めたって……なんも出ねえぞ」
思わず、口をついて出た声。明はなにも言わずに、ただ笑っていた。まるで――俺だけが、世界でいちばん大事だと言わんばかりに。
***
昼休みの学食は、いつも人であふれている。うるさい声と、食べ物の匂いと、テーブルを叩く音。それら全部を背中でかわしながら、俺たちはいつもの端っこの席に陣取った。
朝しっかり食べたせいか、あまり腹が空いていなかった。仕方なく頼んだゼリーをトレーに乗せ、プルプルとした表面をスプーンてつつく。
その様子を見かねた明が、ため息まじりに言う。
「またゼリー? おまえ、それだけで足りるわけねえだろ」
俺はゼリーをスプーンで口に運びながら、肩をすくめた。
「だって、腹減ってねえし」
明は自分のトレーに視線を落とし、カツが乗った皿をスッと差し出してきた。
「ほら、トンカツやるから食え。肉食っとけ、肉」
「いやいや、なんでそうなるんだよ。食欲ねえって言ってんじゃん」
「いいから黙って食え。俺がこっち食うから」
「いらねえって」
「いいから」
押し問答の末、俺は明の圧に負けた。結局、肉を拒否している胃にトンカツを詰め込む羽目になった。
そのやり取りを聞いていた向かいの席の友人たちが、吹き出した。
「なにその夫婦感。てか明、おかんかよ」
「完全に世話焼き女房じゃん」
「違えよ」と明は即座に否定したが、耳がほんのり赤かった。
――照れてやんの。
目を逸らしながら、口元を少しだけ緩めた。トンカツを押しつけられた恨みだ。明も少しは恥ずかしがればいい。
「つーかさ、さっき起きたこと、聞いてくれよ? 秋司がヒーローみたいに助けてくれたんだぜ」
明が急に身を乗り出す。話題を変えるつもりかと思いきや、どこか誇らしげだ。
「他学部の男にまた絡まれててさ。ほら、あの女を横取りしたーとかわけわからないこと言ってたやつらな。『遊ぼうぜー』って言われて困ってたら、いきなり秋司が出てきて、『やめろよ』って。目だけで威圧して黙らせてた」
「……明、黙れって」
低い声で明を制止したが、明は目を輝かせて話し続けた。その手元では、ゼリーがスプーンでぐるぐるにかき混ぜられている。
「いや、マジでカッコよかったんだって! あの目な、こう、狼っぽいっていうか――ほら、おまえらも想像してみ?」
「わー、やだカッケー!」
「ヤンキー漫画かよ?」
「やるじゃん、秋司!」
明が楽しげに笑いながら話すと、隼人、結菜、遥は歓声を上げた。
「……あ、あはは、それほどでも……」
隼人にバシバシと肩を叩かれて、鼻の頭を掻いた。褒められ慣れてないから、こんなときどう反応すればいいかわからない。でも、悪くない気分だった。
明は、そんな俺を見てきゅっと目尻を下げて微笑んだ。まるで俺の株を上げることが、嬉しくてたまらないといった風に。
「ほんと、助けてくれてありがとな。……秋司は優しいよな」
ゼリーの表面に映る明の横顔が、ほんの少しだけ照れたように揺れた。
こってりしたトンカツを口に運びながら、ふと視線を上げると、明がにやにや笑っている。
「うるさいぞ」
「俺なにも言ってないけど?」
「……顔がうるさいんだよ」
ぶっきらぼうに言って、カツ丼をかき込む。そうして、またいつも通りの日常に戻る――はずだった。
……が。
「なあ、授業中寝たら、こうされるぞ?」
明が、にやりと悪い顔をして、俺の前髪をぐしゃっとかき回した。
「やめろバカッ」
急いで手を払いのける。周りの視線がちらちらとこっちを向くのがわかって、余計に顔が熱くなった。
「ほらな、油断してるとやられるんだぞ?」
明はどこまでも悪ノリだった。しかも、たちが悪いことに、ふざけるときでも、どこか優しさが滲む。ふっと撫でるみたいな指先。からかうようでいて、全然痛くないタッチ。
(やめろよ、こういうの)
そんなことされたら、意識するしかないだろ。きっと、明にとってはなんてことないのに。俺だけ意識して、期待して。脳裏に残るのはあいつの手。あの優しさが、俺だけのものであってほしいなんて――そんなの、図々しいにもほどがある。
――それでも。
こんなふうに、バカみたいに笑いあえる時間が、俺はなによりも好きだった。誰に遠慮することもなく、気を張ることもなく、ただ素のままでいられる。明といると、肩の力が抜ける。
(……こんな時間が、幸せってやつなんだろうな)
自分の中に生まれつつある想い。気づかないふりをして、またカツ丼を口に運んだ。
明の声と学食のざわめきが、耳の奥で溶けていった。



