その夜、部屋の灯りはすでに落とされていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯のオレンジが、薄くベッドの上を照らしている。時計の秒針が静かに進む音だけが、部屋の空気を震わせていた。
明は、珍しく先に眠っていた。布団に半分顔を埋め、眉間に小さなしわを寄せたまま、静かな寝息を立てている。普段なら真っ先に俺を起こすくせに、今日はベッドに沈み込むように、深く眠っていた。
――おつかれさま。
心の中で、そっとつぶやく。
そのとき、不意に枕元のスマホがふっと光を灯した。通知音は鳴らなかった。ただ、画面が数秒だけ明滅したのを、俺はなぜだか見過ごせなかった。
静かに手を伸ばす。画面を触れると、ロックはかかっていなかった。……いや、違う。きっと、俺の指紋が登録されていたんだ。今まで気づかなかったのは、俺が“見ようとしなかった”からってだけで。
スライドして開いた先、ふと目についたメモ帳アプリ。開いてはいけない気がしながらも、なにかに導かれるように、指が動いた。
更新されたばかりのページには、こう書かれていた。
「秋司、今夜は笑ってた。たぶん久しぶりに、本物の笑顔だった。泣きそうになったけど、我慢した。だって、あいつが笑ってるのに、俺が泣いたら意味ないから」
画面の文字が、胸の奥を打ち抜いた。思わず息を止める。
指が勝手にスクロールしていく。
「9/12 また腕に傷跡が増えていた。最近、自傷しているのを隠さなくなってきている気がする。限界なのかもしれない。死にたいとは言わない。でも目が、そう言ってる」
「10/01 夢を見ながら泣いてた。寝言で『ごめん』って何度も言ってた。なにに対して? 誰に謝ってる? 俺はなにからあいつを守ればいいんだろう。答えは、ずっと出ないまま」
にじむ視界。画面の光が涙で滲み、言葉がぼやける。
これが、明の“日記”だった。誰にも見せない、小さな記録。何日も、何十日も。俺の苦しみと、沈黙と、涙と……その全部を、明はここに残していた。
――ずっと、俺の痛みを見ていたんだ。見守ってくれていたんだ。
明は、俺を責めなかった。押しつけもしなかった。けれど、その沈黙の奥には、これほどまでに濃く深い想いがあった。
スマホをそっと閉じて、元の場所に戻す。寝息は変わらず、穏やかに続いている。
明の顔を、ただ見つめる。長くてまっすぐな睫毛が、頬に落とす小さな影。呼吸に合わせて上下する胸元。肌のぬくもりが、ここに“生きている”という現実を教えてくれる。
涙が頬を伝った。
「……バカだよ、明。ほんとに」
かすれた声が、静かな空気に溶けて消えた。
***
翌朝、窓から差し込む光がキッチンのシンクを淡く照らしていた。
俺は、珍しく明よりも早く起きていた。慣れない手つきで卵を割り、コーヒーを淹れる。パンを焼く香ばしい匂いが、部屋の空気を満たしていく。
「おはよう……」
くしゃくしゃの髪で、明が眠そうに顔を出した。
「秋司、今朝は早起きじゃん。どうした……?」
「なんとなく」
ソファに腰を落とし、トースターの前でぼんやりする明。その姿が妙に新鮮で、俺は思わず口元がゆるんだ。
マグカップを置いて、明の隣に座る。肩が軽く触れる。ゆっくりと、言葉を探すように声を出した。
「なあ、明」
「ん?」
「俺のこと、ずっと……見てくれてたんだな」
その言葉に、明のまぶたが少しだけ揺れた。しばらく黙って、やがて眉尻を下げながら、静かに頷く。
「……見たな、俺の日記」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
明はひひとつ息をついて、言葉を探すように天井を仰いだ。
「見てたよ。ずっと。お前の目がどんなふうに曇ってくのか、どんなふうに声が震えるのか……どんなふうに、生きることをやめようとしてたのか」
「しんどかったろ。ごめん」
「まあ、しんどかったけど」
明は、わざと明るく笑った。
「でも、俺の好きなやつがさ、誰よりも不器用に、でも全力で生きようとしてたんだ。……それってさ、目を逸らせるわけないだろ」
そのあと、明は俺の手を取ってきた。ゆっくり、丁寧に。指を絡め、手のひらを合わせる。
「見てたよ、アキ。お前の痛み。全部」
言葉が心の奥に届いた瞬間、なにかが静かに、でも確かにほどけていく。
朝食を食べてから、ふたりでベランダに出ると、秋の始まりを告げる風がそっと肩に触れた。
目の前には、昨日よりも少しだけ芽を伸ばした苗木の鉢がある。明がここに越してきた日、明とふたりで選んで、買ってきたばかりの小さな命。まだ頼りないその茎が、風に揺れていた。
「俺さ、これからはお前と一緒に“見ていきたい”んだ」
明が、ふいにそう言った。
「“見ていきたい”?」
「うん。いままでみたいに一方的にじゃなくて、これからは、ふたりで一緒に。お前の痛みも、嬉しいことも、なんでもさ」
俺は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「じゃあ、俺も言っとく」
明の肩に頭を預ける。
「ありがとな。ずっと見てくれてて。……あと、これからも、一緒の未来を生きてくれ」
明はなにも言わず、ただ俺の手をぎゅっと握った。温かくて、確かで、どこまでも優しかった。
「もちろん」
その一言が、朝の光よりまぶしかった。目がくらみそうなくらい。
俺は引き寄せられるように、明の頬に顔を近づけた。じっと俺の様子を窺う明の視線を感じながら、軽いキスを落とす。すると、明は口角を引き上げて笑ったかと思うと、俺の顎を掴み――思いの丈をぶつけるように、俺の唇にキスをした。何度か角度を変えるうち、息が上がっていく。酸欠になりそうだ、と思った瞬間。明は静かに重ねていた唇を離した。
「ねえ秋司、今日も笑っててね」
明はそう囁いたあと、ぎゅっと抱き締めてくる。肩越しに、明の後頭部を見つめた。
「……なんでだよ」
「んー、なんとなく。秋司が笑ってると、世界もちょっと優しく見えるから」
ふざけたような口ぶり。でも、本心を語っているのはわかった。
俺は小さく鼻を鳴らして返事をする。
「じゃあ、明も笑えよ。おまえが笑ってたらたぶん、俺もつられて笑うから」
そう言うと、明が声を上げて笑った。その笑い声は、これまで聞いた中で一番幸せそうな音をしていた。
たぶん、この先に何があるかなんてわからない。でも、今日のこの朝、たしかに“幸せ”だと思えた。
俺はそっと目を閉じ、胸の中で呟いた。
――ありがとう。生きていて、よかった。
風が吹くたび、小さな鉢の葉が揺れた。季節は、ゆっくりと未来へ進んでいく。
カーテンの隙間から漏れる街灯のオレンジが、薄くベッドの上を照らしている。時計の秒針が静かに進む音だけが、部屋の空気を震わせていた。
明は、珍しく先に眠っていた。布団に半分顔を埋め、眉間に小さなしわを寄せたまま、静かな寝息を立てている。普段なら真っ先に俺を起こすくせに、今日はベッドに沈み込むように、深く眠っていた。
――おつかれさま。
心の中で、そっとつぶやく。
そのとき、不意に枕元のスマホがふっと光を灯した。通知音は鳴らなかった。ただ、画面が数秒だけ明滅したのを、俺はなぜだか見過ごせなかった。
静かに手を伸ばす。画面を触れると、ロックはかかっていなかった。……いや、違う。きっと、俺の指紋が登録されていたんだ。今まで気づかなかったのは、俺が“見ようとしなかった”からってだけで。
スライドして開いた先、ふと目についたメモ帳アプリ。開いてはいけない気がしながらも、なにかに導かれるように、指が動いた。
更新されたばかりのページには、こう書かれていた。
「秋司、今夜は笑ってた。たぶん久しぶりに、本物の笑顔だった。泣きそうになったけど、我慢した。だって、あいつが笑ってるのに、俺が泣いたら意味ないから」
画面の文字が、胸の奥を打ち抜いた。思わず息を止める。
指が勝手にスクロールしていく。
「9/12 また腕に傷跡が増えていた。最近、自傷しているのを隠さなくなってきている気がする。限界なのかもしれない。死にたいとは言わない。でも目が、そう言ってる」
「10/01 夢を見ながら泣いてた。寝言で『ごめん』って何度も言ってた。なにに対して? 誰に謝ってる? 俺はなにからあいつを守ればいいんだろう。答えは、ずっと出ないまま」
にじむ視界。画面の光が涙で滲み、言葉がぼやける。
これが、明の“日記”だった。誰にも見せない、小さな記録。何日も、何十日も。俺の苦しみと、沈黙と、涙と……その全部を、明はここに残していた。
――ずっと、俺の痛みを見ていたんだ。見守ってくれていたんだ。
明は、俺を責めなかった。押しつけもしなかった。けれど、その沈黙の奥には、これほどまでに濃く深い想いがあった。
スマホをそっと閉じて、元の場所に戻す。寝息は変わらず、穏やかに続いている。
明の顔を、ただ見つめる。長くてまっすぐな睫毛が、頬に落とす小さな影。呼吸に合わせて上下する胸元。肌のぬくもりが、ここに“生きている”という現実を教えてくれる。
涙が頬を伝った。
「……バカだよ、明。ほんとに」
かすれた声が、静かな空気に溶けて消えた。
***
翌朝、窓から差し込む光がキッチンのシンクを淡く照らしていた。
俺は、珍しく明よりも早く起きていた。慣れない手つきで卵を割り、コーヒーを淹れる。パンを焼く香ばしい匂いが、部屋の空気を満たしていく。
「おはよう……」
くしゃくしゃの髪で、明が眠そうに顔を出した。
「秋司、今朝は早起きじゃん。どうした……?」
「なんとなく」
ソファに腰を落とし、トースターの前でぼんやりする明。その姿が妙に新鮮で、俺は思わず口元がゆるんだ。
マグカップを置いて、明の隣に座る。肩が軽く触れる。ゆっくりと、言葉を探すように声を出した。
「なあ、明」
「ん?」
「俺のこと、ずっと……見てくれてたんだな」
その言葉に、明のまぶたが少しだけ揺れた。しばらく黙って、やがて眉尻を下げながら、静かに頷く。
「……見たな、俺の日記」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
明はひひとつ息をついて、言葉を探すように天井を仰いだ。
「見てたよ。ずっと。お前の目がどんなふうに曇ってくのか、どんなふうに声が震えるのか……どんなふうに、生きることをやめようとしてたのか」
「しんどかったろ。ごめん」
「まあ、しんどかったけど」
明は、わざと明るく笑った。
「でも、俺の好きなやつがさ、誰よりも不器用に、でも全力で生きようとしてたんだ。……それってさ、目を逸らせるわけないだろ」
そのあと、明は俺の手を取ってきた。ゆっくり、丁寧に。指を絡め、手のひらを合わせる。
「見てたよ、アキ。お前の痛み。全部」
言葉が心の奥に届いた瞬間、なにかが静かに、でも確かにほどけていく。
朝食を食べてから、ふたりでベランダに出ると、秋の始まりを告げる風がそっと肩に触れた。
目の前には、昨日よりも少しだけ芽を伸ばした苗木の鉢がある。明がここに越してきた日、明とふたりで選んで、買ってきたばかりの小さな命。まだ頼りないその茎が、風に揺れていた。
「俺さ、これからはお前と一緒に“見ていきたい”んだ」
明が、ふいにそう言った。
「“見ていきたい”?」
「うん。いままでみたいに一方的にじゃなくて、これからは、ふたりで一緒に。お前の痛みも、嬉しいことも、なんでもさ」
俺は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「じゃあ、俺も言っとく」
明の肩に頭を預ける。
「ありがとな。ずっと見てくれてて。……あと、これからも、一緒の未来を生きてくれ」
明はなにも言わず、ただ俺の手をぎゅっと握った。温かくて、確かで、どこまでも優しかった。
「もちろん」
その一言が、朝の光よりまぶしかった。目がくらみそうなくらい。
俺は引き寄せられるように、明の頬に顔を近づけた。じっと俺の様子を窺う明の視線を感じながら、軽いキスを落とす。すると、明は口角を引き上げて笑ったかと思うと、俺の顎を掴み――思いの丈をぶつけるように、俺の唇にキスをした。何度か角度を変えるうち、息が上がっていく。酸欠になりそうだ、と思った瞬間。明は静かに重ねていた唇を離した。
「ねえ秋司、今日も笑っててね」
明はそう囁いたあと、ぎゅっと抱き締めてくる。肩越しに、明の後頭部を見つめた。
「……なんでだよ」
「んー、なんとなく。秋司が笑ってると、世界もちょっと優しく見えるから」
ふざけたような口ぶり。でも、本心を語っているのはわかった。
俺は小さく鼻を鳴らして返事をする。
「じゃあ、明も笑えよ。おまえが笑ってたらたぶん、俺もつられて笑うから」
そう言うと、明が声を上げて笑った。その笑い声は、これまで聞いた中で一番幸せそうな音をしていた。
たぶん、この先に何があるかなんてわからない。でも、今日のこの朝、たしかに“幸せ”だと思えた。
俺はそっと目を閉じ、胸の中で呟いた。
――ありがとう。生きていて、よかった。
風が吹くたび、小さな鉢の葉が揺れた。季節は、ゆっくりと未来へ進んでいく。



