授業終わり。夕陽がキャンパスの建物の壁に長い影を落とし始めていた。
映画研究会のサークル室には、いつも通りの光景が広がっていた。窓際のテーブルにちらばったDVDのパッケージと、壁際の古びた本棚には映画雑誌が乱雑に詰め込まれている。小さなポータブルスピーカーからは、BGM代わりのサウンドトラックが静かに流れていた。
――けれど、その空間の「気配」は、数週間前までとはどこか違っていた。
黒川と明が、同じ部屋の中にいる。それ自体は珍しくもなんともない。だが、俺の中には、うまく言葉にならない違和感が微かに芽生えていた。
言葉にできるほど確かなものじゃない。だけど、胸の奥になにかが引っかかっていた。
以前は、明が黒川に向ける視線には、見えない棘が混じっていた。まるで、他人に近づかれるのを拒むような、冷えた防壁みたいなものがあった。黒川もそれを感じ取っていたようで、彼なりの「人当たりの良さ」を武器に、あえて一歩引いた場所から軽口だけを投げていた。
――でも、今は違う。
目の前のふたりは、テーブルを挟んで並んで座っていた。なんでもない会話を交わし、黒川が小さく笑いながら冗談を口にする。明はそれに対して、無言で反応し……ふっと鼻で笑った。
俺は己の目を疑った。
(え……今、明……笑った?)
黒川に、あの明が。
俺の知っている明の「笑い」は、どこか演技じみていた。口角だけが動いて、目元は冷めている、そんな笑顔だったはずだ。けれど今は違った。頬が柔らかくゆるんでいて、視線にはちゃんと温度があった。
黒川が、俺の視線に気づいてか、少しだけ眉尻を上げてにやりと笑った。
――その時の表情に、俺は言い知れないざわめきを覚えた。
黒川と明が会話を終えて席を立った後、俺はソファに深く腰掛けながら、明に問いかけた。
「なあ、最近さ……」
口にする前から、心臓が少し早く脈打っていた。
明が背を向けて飲みかけの水を置いている。振り返ったその顔には、特別な緊張もなさそうだった。
「黒川のこと、どう思ってる?」
自分でも、ずいぶんストレートな聞き方だと思った。
明は一瞬きょとんとしたように目を見開いたが、すぐに肩の力を抜いて首を傾げた。
「ん? どうって?」
「いや……前よりちょっと仲良くなったよな。なんかあった?」
問いかけたあと、沈黙が数秒落ちる。サークル室の奥で、誰かがスクリーンのケーブルを引っ張る音がした。
明は何かを飲み込むように息を吸い、小さく「ああ」と笑った。
「まあ、ちょっとな。話しただけ」
「話しただけ?」
俺が眉を寄せると、明は窓の方へ視線を向けた。夕焼けに染まった校舎の影が、ガラス越しにゆらいでいる。
「俺が勝手にムキになってただけだって、気づいたんだ」
その声は、驚くほど穏やかだった。言葉は軽いのに、横顔にはどこか疲れたような、それでいて澄んだ表情が浮かんでいた。
「なんかさ、俺ってバカなんだよな。大事なもん、独り占めしたがる癖がある」
自嘲気味に笑うその姿に、俺は返す言葉を見つけられなかった。
「ま、いいって。……ちょっとだけ、肩の荷が下りた気分」
明はそれだけ言って、再びソファに深くもたれた。視線の先には、今日も変わらず賑やかなサークルの風景が広がっていた。
でも、俺の中では、確実になにかが変わっていた。明の知らない顔を、黒川が知っている。その事実が、なぜか胸のどこかをざわつかせた。
「……なんだろうな、これ」
つぶやいた声は、プロジェクターの起動音にかき消されて、誰にも届くことはなかった。
***
サークルの打ち上げは、想像以上に賑やかだった。
古びた居酒屋の個室。座布団の上に雑に座り込んだ十数人が、鍋の湯気と笑い声に包まれていた。天井の裸電球が、ゆらゆらと薄暗い灯りを落とし、飲み干されたジョッキが次々と空になっていく。
唐揚げをつまむ音、誰かの大声、割り箸の袋を破く音。そうした喧騒の中で、俺は壁際に寄りかかるように座り、コーラのグラスをくるくると指先で回していた。氷が細く音を立てるたび、どこか心が落ち着いた。
これまでは、こういう場にいるだけで、疲れてしまっていた。けれど今は違う。笑い声の中に自分が混ざっていることが、ほんの少し、悪くないと思えた。静かに馴染んでいく――そんな感覚を、ようやく手に入れつつある気がしていた。
向かい側では黒川が、唐揚げにレモンをかけすぎて苦笑している。誰とでも自然に馴染む。口数は多くないのに、どんな人間にも受け入れられるような、空気の読み方ができるやつだ。
「なあ、黒川」
気がつけば、自然と声をかけていた。周囲を見渡すと、何人かがトイレやレジに立って、席はちょうど手薄になっている。
「ん?」
黒川は箸を置き、目線だけをこちらに向ける。俺はグラスをテーブルに置き、椅子を軽く引いた。
「ちょっと……外、行かね?」
怪訝そうに眉をひそめた黒川だったが、すぐに頷いた。特に理由を聞くでもなく、黙って立ち上がる。その素っ気なさが、なぜかありがたかった。
居酒屋の引き戸を引くと、夜の街は思ったより涼しかった。昼間の熱気がまだアスファルトに残っていて、足元に籠もるぬるい空気と、ビルの隙間から吹き抜ける風が混ざり合っていた。
車の走る音が遠くに響き、上を見上げれば、くすんだ街の空にうっすらと星がにじんでいる。
俺たちは無言のまま、居酒屋から少し離れた歩道へと出た。足音だけがアスファルトに静かに刻まれる。
「で、なんの話ですか」
黒川がポケットに手を突っ込み、少し猫背で歩きながら問いかけてきた。
俺は数歩分だけ前を歩き、街灯の下で足を止める。明かりが淡く影を伸ばす。胸の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……黒川にも、伝えておこうと思って」
言葉が宙に出た瞬間、自分の中でなにかがほどけた。
「俺……何回か、死のうとしたことがあるんだ。今も病院に通ってる」
黒川の方を見なかった。ただ夜風に視線を預けたまま、吐き出すように告げる。けれど不思議なほど、言葉はするすると出てきた。今なら言える気がした。
「……ああ、やっぱり。そんな気がしてました」
黒川の声には、驚きの色がなかった。
「マジで?」
「はい。無理して笑ってる感じ、ちょいちょい見えてましたよ。あと、唐突に沈むし」
俺は思わず、鼻で笑った。
「気づいてたんなら言えよ」
「いや、そういうときって下手に触らない方がいいじゃないですか。構われたくない人もいるし」
何気ない返しが、妙に沁みた。俺の沈黙に気づいていながら、構いすぎず、離れすぎず――絶妙な距離で見守っていてくれたのかもしれない。
「おまえ……なんか、悟ってんな」
「めんどくさいこと考えないのが取り柄なんで」
黒川はそう言って、風に乱れた前髪を指でかきあげた。そして、少しだけ空を仰いで呟いた。
「でも……いま、隣でちゃんと生きてるなら。それで充分じゃないですか?」
その言葉が、夜風よりもあたたかく心に沁みた。
俺は足元を見つめ、グッと喉を鳴らした。胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……世界って、もっと冷たいと思ってた」
「うん?」
「でも、黒川みたいなやつがいてくれるならさ。案外、そうでもないのかもなって」
黒川は一拍置いて、にやりと口角を上げた。
「俺に惚れないでくださいね。明先輩に刺されちゃうので」
「ねーよ」
苦笑交じりに返したときだった。
細い路地の奥から、スニーカーの足音がゆっくりと近づいてきた。
振り向くと、明が立っていた。手にコンビニの袋を提げたまま、少し離れた場所からこちらを見つめている。風が前髪を揺らし、表情の陰影をやわらかくなぞっていた。
目が合う。明は微笑んだ。
その笑みに、寂しさ、安堵、そしてほんの少しの誇らしさが滲んでいた。なにも言葉はなかった。けれど、十分すぎるほど伝わってきた。
――ちゃんと、おまえが誰かと繋がれてよかった。
そんな声が、聞こえた気がした。
俺は静かに、明に向けて頭を下げた。その隣で黒川が伸びをしながらぼやいた。
「ま、先輩が笑っていられるなら、それでいいです」
俺は横目で見ながら、ふっと笑った。
「……ほんと不思議なやつだな」
月が、薄い雲の向こうから俺たちを照らしていた。
夜の空気の中で、肩の荷が、ほんの少しだけ軽くなった気がしていた。
映画研究会のサークル室には、いつも通りの光景が広がっていた。窓際のテーブルにちらばったDVDのパッケージと、壁際の古びた本棚には映画雑誌が乱雑に詰め込まれている。小さなポータブルスピーカーからは、BGM代わりのサウンドトラックが静かに流れていた。
――けれど、その空間の「気配」は、数週間前までとはどこか違っていた。
黒川と明が、同じ部屋の中にいる。それ自体は珍しくもなんともない。だが、俺の中には、うまく言葉にならない違和感が微かに芽生えていた。
言葉にできるほど確かなものじゃない。だけど、胸の奥になにかが引っかかっていた。
以前は、明が黒川に向ける視線には、見えない棘が混じっていた。まるで、他人に近づかれるのを拒むような、冷えた防壁みたいなものがあった。黒川もそれを感じ取っていたようで、彼なりの「人当たりの良さ」を武器に、あえて一歩引いた場所から軽口だけを投げていた。
――でも、今は違う。
目の前のふたりは、テーブルを挟んで並んで座っていた。なんでもない会話を交わし、黒川が小さく笑いながら冗談を口にする。明はそれに対して、無言で反応し……ふっと鼻で笑った。
俺は己の目を疑った。
(え……今、明……笑った?)
黒川に、あの明が。
俺の知っている明の「笑い」は、どこか演技じみていた。口角だけが動いて、目元は冷めている、そんな笑顔だったはずだ。けれど今は違った。頬が柔らかくゆるんでいて、視線にはちゃんと温度があった。
黒川が、俺の視線に気づいてか、少しだけ眉尻を上げてにやりと笑った。
――その時の表情に、俺は言い知れないざわめきを覚えた。
黒川と明が会話を終えて席を立った後、俺はソファに深く腰掛けながら、明に問いかけた。
「なあ、最近さ……」
口にする前から、心臓が少し早く脈打っていた。
明が背を向けて飲みかけの水を置いている。振り返ったその顔には、特別な緊張もなさそうだった。
「黒川のこと、どう思ってる?」
自分でも、ずいぶんストレートな聞き方だと思った。
明は一瞬きょとんとしたように目を見開いたが、すぐに肩の力を抜いて首を傾げた。
「ん? どうって?」
「いや……前よりちょっと仲良くなったよな。なんかあった?」
問いかけたあと、沈黙が数秒落ちる。サークル室の奥で、誰かがスクリーンのケーブルを引っ張る音がした。
明は何かを飲み込むように息を吸い、小さく「ああ」と笑った。
「まあ、ちょっとな。話しただけ」
「話しただけ?」
俺が眉を寄せると、明は窓の方へ視線を向けた。夕焼けに染まった校舎の影が、ガラス越しにゆらいでいる。
「俺が勝手にムキになってただけだって、気づいたんだ」
その声は、驚くほど穏やかだった。言葉は軽いのに、横顔にはどこか疲れたような、それでいて澄んだ表情が浮かんでいた。
「なんかさ、俺ってバカなんだよな。大事なもん、独り占めしたがる癖がある」
自嘲気味に笑うその姿に、俺は返す言葉を見つけられなかった。
「ま、いいって。……ちょっとだけ、肩の荷が下りた気分」
明はそれだけ言って、再びソファに深くもたれた。視線の先には、今日も変わらず賑やかなサークルの風景が広がっていた。
でも、俺の中では、確実になにかが変わっていた。明の知らない顔を、黒川が知っている。その事実が、なぜか胸のどこかをざわつかせた。
「……なんだろうな、これ」
つぶやいた声は、プロジェクターの起動音にかき消されて、誰にも届くことはなかった。
***
サークルの打ち上げは、想像以上に賑やかだった。
古びた居酒屋の個室。座布団の上に雑に座り込んだ十数人が、鍋の湯気と笑い声に包まれていた。天井の裸電球が、ゆらゆらと薄暗い灯りを落とし、飲み干されたジョッキが次々と空になっていく。
唐揚げをつまむ音、誰かの大声、割り箸の袋を破く音。そうした喧騒の中で、俺は壁際に寄りかかるように座り、コーラのグラスをくるくると指先で回していた。氷が細く音を立てるたび、どこか心が落ち着いた。
これまでは、こういう場にいるだけで、疲れてしまっていた。けれど今は違う。笑い声の中に自分が混ざっていることが、ほんの少し、悪くないと思えた。静かに馴染んでいく――そんな感覚を、ようやく手に入れつつある気がしていた。
向かい側では黒川が、唐揚げにレモンをかけすぎて苦笑している。誰とでも自然に馴染む。口数は多くないのに、どんな人間にも受け入れられるような、空気の読み方ができるやつだ。
「なあ、黒川」
気がつけば、自然と声をかけていた。周囲を見渡すと、何人かがトイレやレジに立って、席はちょうど手薄になっている。
「ん?」
黒川は箸を置き、目線だけをこちらに向ける。俺はグラスをテーブルに置き、椅子を軽く引いた。
「ちょっと……外、行かね?」
怪訝そうに眉をひそめた黒川だったが、すぐに頷いた。特に理由を聞くでもなく、黙って立ち上がる。その素っ気なさが、なぜかありがたかった。
居酒屋の引き戸を引くと、夜の街は思ったより涼しかった。昼間の熱気がまだアスファルトに残っていて、足元に籠もるぬるい空気と、ビルの隙間から吹き抜ける風が混ざり合っていた。
車の走る音が遠くに響き、上を見上げれば、くすんだ街の空にうっすらと星がにじんでいる。
俺たちは無言のまま、居酒屋から少し離れた歩道へと出た。足音だけがアスファルトに静かに刻まれる。
「で、なんの話ですか」
黒川がポケットに手を突っ込み、少し猫背で歩きながら問いかけてきた。
俺は数歩分だけ前を歩き、街灯の下で足を止める。明かりが淡く影を伸ばす。胸の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……黒川にも、伝えておこうと思って」
言葉が宙に出た瞬間、自分の中でなにかがほどけた。
「俺……何回か、死のうとしたことがあるんだ。今も病院に通ってる」
黒川の方を見なかった。ただ夜風に視線を預けたまま、吐き出すように告げる。けれど不思議なほど、言葉はするすると出てきた。今なら言える気がした。
「……ああ、やっぱり。そんな気がしてました」
黒川の声には、驚きの色がなかった。
「マジで?」
「はい。無理して笑ってる感じ、ちょいちょい見えてましたよ。あと、唐突に沈むし」
俺は思わず、鼻で笑った。
「気づいてたんなら言えよ」
「いや、そういうときって下手に触らない方がいいじゃないですか。構われたくない人もいるし」
何気ない返しが、妙に沁みた。俺の沈黙に気づいていながら、構いすぎず、離れすぎず――絶妙な距離で見守っていてくれたのかもしれない。
「おまえ……なんか、悟ってんな」
「めんどくさいこと考えないのが取り柄なんで」
黒川はそう言って、風に乱れた前髪を指でかきあげた。そして、少しだけ空を仰いで呟いた。
「でも……いま、隣でちゃんと生きてるなら。それで充分じゃないですか?」
その言葉が、夜風よりもあたたかく心に沁みた。
俺は足元を見つめ、グッと喉を鳴らした。胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……世界って、もっと冷たいと思ってた」
「うん?」
「でも、黒川みたいなやつがいてくれるならさ。案外、そうでもないのかもなって」
黒川は一拍置いて、にやりと口角を上げた。
「俺に惚れないでくださいね。明先輩に刺されちゃうので」
「ねーよ」
苦笑交じりに返したときだった。
細い路地の奥から、スニーカーの足音がゆっくりと近づいてきた。
振り向くと、明が立っていた。手にコンビニの袋を提げたまま、少し離れた場所からこちらを見つめている。風が前髪を揺らし、表情の陰影をやわらかくなぞっていた。
目が合う。明は微笑んだ。
その笑みに、寂しさ、安堵、そしてほんの少しの誇らしさが滲んでいた。なにも言葉はなかった。けれど、十分すぎるほど伝わってきた。
――ちゃんと、おまえが誰かと繋がれてよかった。
そんな声が、聞こえた気がした。
俺は静かに、明に向けて頭を下げた。その隣で黒川が伸びをしながらぼやいた。
「ま、先輩が笑っていられるなら、それでいいです」
俺は横目で見ながら、ふっと笑った。
「……ほんと不思議なやつだな」
月が、薄い雲の向こうから俺たちを照らしていた。
夜の空気の中で、肩の荷が、ほんの少しだけ軽くなった気がしていた。



