その日は、雲ひとつない快晴だった。
暖かな昼下がり。カフェの二階の窓際に、俺たちは座っていた。光はテーブルの木目をなぞるように差し込み、窓の外には春の風に揺れる若葉が、きらきらと陽を反射していた。
少し前の自分なら、その眩しさが苦しかったはずだ。
「外はこんなに晴れてるのに、俺の心は真っ暗だ」なんて、ベタな比喩を本気で思っていた。
でも、今日は違った。
少し汗ばむ陽気のなか、自分の足で、自分の意志でここまで来た。目の前の明日を、ちゃんと迎える準備ができている――そんな気がしていた。
カフェの二階席は、休日らしいにぎやかさに包まれていた。遠くからはバリスタのスチーム音、近くのテーブルからは笑い声。だけど、自分たちのテーブルだけが、まるでガラス越しに静けさを閉じ込めたような空間だった。
日差しが斜めに差し込む窓辺で、明るい色の木製テーブルに五人分のマグカップが並んでいる。俺の隣には明。向かいには隼人、結菜、遥。
彼らの視線が、一斉に俺に集まっていた。
「……このまま黙ってるのも、みんなを騙してるみたいで嫌だからさ。伝えておこうと思って……」
声を落としながら呟く。喉になにかが貼りついたように乾燥する。どんな反応をされるだろうか――緊張と不安で、心臓は今にも身体から飛び出しそうだ。
「な、なに……? 急に改まって、怖いんだけど」
遥が怯えたように言う。
隼人は言葉を失い、結菜は心配そうに俺を見つめている。
彼らの反応を見かねたのか、明が慌てて弁解しようと口を開いたが、俺はそれを片手で制した。
「明、止めないで。……ちゃんと、言っておきたいんだ」
俺がそう言うと、辺りは沈黙に満ちた。他のテーブルから時折グラスが当たる音、椅子を引く音が聞こえてくる。そんな些細な音が、ひどくうるさく聞こえた。
俺はゆっくりと息を吸った。そして、話し出す。
「……実は俺、何回か、自殺未遂してた。今は、だいぶ落ち着いてるけど……通院してるんだ」
声に出した瞬間、喉の奥がひりついた。肺の奥がじんと痛むような感覚。テーブルの上で組んだ手が、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
言葉が落ちると同時に、世界が一瞬、凍りついたようだった。
誰も、すぐには声を出さなかった。でもそれは、拒絶ではない。俺の言葉の重さを受け止めようとする、静かな呼吸だった。
「……そっか」
最初に声を出したのは結菜だった。彼女はいつものように軽い口調だったが、その目は真剣だった。
「秋司がさ、今こうして話してくれてることがうれしいよ。すごいと思う。打ち明けてくれてありがとう」
続いて、遥が言った。
「うん。てかさ、秋司が本気で笑ってるとこ見たの、最近だよな。なんか、前よりダチって感じするわー」
隼人は、照れ隠しのように笑った。
「いやー、なんか言葉にできねえけど……おまえ、今の方がいい顔してるよ」
隼人が付け足した言葉に、俺は目を伏せた。そのまま、手元のカップを見つめた。
「……ありがとな」
言葉が震えた。顔を上げると、視界が少しだけ滲んでいた。
(そっか。俺、いま……ちゃんと存在できてるんだな)
“世界”という場所に。友達という関係に。もう二度と期待しないと思ってたところに、戻ってこれた。
浮かんだ涙を拭うと、隼人、結菜、遥と目が合う。俺たちはお互いにぎこちなく笑った。
――そのとき。
「ちなみに!」
ぱん、と明の手が空を打った。空気を切る音がして、俺はびくりと肩をすくめる。
明の笑顔は、まるで子どもがサプライズを企んだときのように無邪気で――悪意がない分、タチが悪い。
「俺と秋司はこの前から付き合ってます」
その言葉がテーブルの上に置かれた瞬間、誰かの手がカップを倒しそうになったのか、軽く食器の音がした。
「「「は?」」」
完璧に重なった三人の声に、まるでコントでも見ているような錯覚を覚える。けれど、俺の顔は真っ赤だった。
「いやいやいやいや、ちょっと待て!」と隼人。
「え、いまその流れでぶち込む!?」と結菜。
「それ、私らの知ってる“重大発表”のレベル超えてるから!」と遥。
「ちょっと、お前……」
俺は真っ赤になって明を睨んだが、明は満面の笑みで両手を合わせた。
「どさくさに紛れて、言っておこうかなって」
「お前、もうちょっと空気読め……」
けれど、3人は笑っていた。
「いや、もう……そっちの方が大事件だわ」
「隠してたのバレたからには、いろいろ聞くからな!」
「祝福……してやってもいいけど、秋司が泣かされたらマジで怒るから」
その冗談めいたやりとりに、店内の空気が一気に和らぐ。
秋司は、なんとも言えない気持ちで笑った。
――大丈夫だ。
俺は、ちゃんとここにいる。生きていて、いい。
回復とは、誰かの隣で、もう一度笑えるようになること。
そう実感できた、午後だった。
カフェのドアを押し開けると、世界はすっかり茜色に染まっていた。
街の喧騒はまだ続いているはずなのに、耳に届くのは夕風の音ばかり。長く伸びたビルの影が、歩道を覆う。通りの木々が揺れ、その影が足元で揺らめいていた。空の端に、夜の気配が滲み始めている。
駅前の通りを、俺と明は並んで歩いていた。
数歩先を行く明が、ふと足を止め、振り返る。
「泣きそうだった?」
その問いに、少しだけ口をゆがめた。
「泣いてねえよ」
「あはは。アキのそういうとこ、変わらないよね」
明はそう言って、俺の肩に頭をコトンと乗せた。
夕暮れの街。人通りはそこそこあるはずなのに、まるでふたりきりの空間みたいに静かだった。
「俺さ、なんか、すげえ変な感じだよ」
「変な感じ?」
「……こうして歩いてて、おまえが隣にいて、俺、普通に幸せだって思ってる。こんな幸せでいいのかなって」
明は、俺の言葉を受け止めるように、ほんの少しだけ顔を上げた。その視線は、穏やかで、でも真剣だった。やわらかなまぶたの奥で、何か強い意志が静かに燃えている。その眼差しに、俺は自然と手を伸ばした。握った手は細く、けれど芯がある。体温が、皮膚を伝って心に染みていく。
「俺は、ずっと幸せに生きてるアキの隣にいたかった。ようやくスタートラインに立てたんだ。だから、罪悪感なんて覚えないでほしい」
俺はなにも言わず、その手を握った。細くて、だけど芯のある手だった。
暖かな昼下がり。カフェの二階の窓際に、俺たちは座っていた。光はテーブルの木目をなぞるように差し込み、窓の外には春の風に揺れる若葉が、きらきらと陽を反射していた。
少し前の自分なら、その眩しさが苦しかったはずだ。
「外はこんなに晴れてるのに、俺の心は真っ暗だ」なんて、ベタな比喩を本気で思っていた。
でも、今日は違った。
少し汗ばむ陽気のなか、自分の足で、自分の意志でここまで来た。目の前の明日を、ちゃんと迎える準備ができている――そんな気がしていた。
カフェの二階席は、休日らしいにぎやかさに包まれていた。遠くからはバリスタのスチーム音、近くのテーブルからは笑い声。だけど、自分たちのテーブルだけが、まるでガラス越しに静けさを閉じ込めたような空間だった。
日差しが斜めに差し込む窓辺で、明るい色の木製テーブルに五人分のマグカップが並んでいる。俺の隣には明。向かいには隼人、結菜、遥。
彼らの視線が、一斉に俺に集まっていた。
「……このまま黙ってるのも、みんなを騙してるみたいで嫌だからさ。伝えておこうと思って……」
声を落としながら呟く。喉になにかが貼りついたように乾燥する。どんな反応をされるだろうか――緊張と不安で、心臓は今にも身体から飛び出しそうだ。
「な、なに……? 急に改まって、怖いんだけど」
遥が怯えたように言う。
隼人は言葉を失い、結菜は心配そうに俺を見つめている。
彼らの反応を見かねたのか、明が慌てて弁解しようと口を開いたが、俺はそれを片手で制した。
「明、止めないで。……ちゃんと、言っておきたいんだ」
俺がそう言うと、辺りは沈黙に満ちた。他のテーブルから時折グラスが当たる音、椅子を引く音が聞こえてくる。そんな些細な音が、ひどくうるさく聞こえた。
俺はゆっくりと息を吸った。そして、話し出す。
「……実は俺、何回か、自殺未遂してた。今は、だいぶ落ち着いてるけど……通院してるんだ」
声に出した瞬間、喉の奥がひりついた。肺の奥がじんと痛むような感覚。テーブルの上で組んだ手が、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
言葉が落ちると同時に、世界が一瞬、凍りついたようだった。
誰も、すぐには声を出さなかった。でもそれは、拒絶ではない。俺の言葉の重さを受け止めようとする、静かな呼吸だった。
「……そっか」
最初に声を出したのは結菜だった。彼女はいつものように軽い口調だったが、その目は真剣だった。
「秋司がさ、今こうして話してくれてることがうれしいよ。すごいと思う。打ち明けてくれてありがとう」
続いて、遥が言った。
「うん。てかさ、秋司が本気で笑ってるとこ見たの、最近だよな。なんか、前よりダチって感じするわー」
隼人は、照れ隠しのように笑った。
「いやー、なんか言葉にできねえけど……おまえ、今の方がいい顔してるよ」
隼人が付け足した言葉に、俺は目を伏せた。そのまま、手元のカップを見つめた。
「……ありがとな」
言葉が震えた。顔を上げると、視界が少しだけ滲んでいた。
(そっか。俺、いま……ちゃんと存在できてるんだな)
“世界”という場所に。友達という関係に。もう二度と期待しないと思ってたところに、戻ってこれた。
浮かんだ涙を拭うと、隼人、結菜、遥と目が合う。俺たちはお互いにぎこちなく笑った。
――そのとき。
「ちなみに!」
ぱん、と明の手が空を打った。空気を切る音がして、俺はびくりと肩をすくめる。
明の笑顔は、まるで子どもがサプライズを企んだときのように無邪気で――悪意がない分、タチが悪い。
「俺と秋司はこの前から付き合ってます」
その言葉がテーブルの上に置かれた瞬間、誰かの手がカップを倒しそうになったのか、軽く食器の音がした。
「「「は?」」」
完璧に重なった三人の声に、まるでコントでも見ているような錯覚を覚える。けれど、俺の顔は真っ赤だった。
「いやいやいやいや、ちょっと待て!」と隼人。
「え、いまその流れでぶち込む!?」と結菜。
「それ、私らの知ってる“重大発表”のレベル超えてるから!」と遥。
「ちょっと、お前……」
俺は真っ赤になって明を睨んだが、明は満面の笑みで両手を合わせた。
「どさくさに紛れて、言っておこうかなって」
「お前、もうちょっと空気読め……」
けれど、3人は笑っていた。
「いや、もう……そっちの方が大事件だわ」
「隠してたのバレたからには、いろいろ聞くからな!」
「祝福……してやってもいいけど、秋司が泣かされたらマジで怒るから」
その冗談めいたやりとりに、店内の空気が一気に和らぐ。
秋司は、なんとも言えない気持ちで笑った。
――大丈夫だ。
俺は、ちゃんとここにいる。生きていて、いい。
回復とは、誰かの隣で、もう一度笑えるようになること。
そう実感できた、午後だった。
カフェのドアを押し開けると、世界はすっかり茜色に染まっていた。
街の喧騒はまだ続いているはずなのに、耳に届くのは夕風の音ばかり。長く伸びたビルの影が、歩道を覆う。通りの木々が揺れ、その影が足元で揺らめいていた。空の端に、夜の気配が滲み始めている。
駅前の通りを、俺と明は並んで歩いていた。
数歩先を行く明が、ふと足を止め、振り返る。
「泣きそうだった?」
その問いに、少しだけ口をゆがめた。
「泣いてねえよ」
「あはは。アキのそういうとこ、変わらないよね」
明はそう言って、俺の肩に頭をコトンと乗せた。
夕暮れの街。人通りはそこそこあるはずなのに、まるでふたりきりの空間みたいに静かだった。
「俺さ、なんか、すげえ変な感じだよ」
「変な感じ?」
「……こうして歩いてて、おまえが隣にいて、俺、普通に幸せだって思ってる。こんな幸せでいいのかなって」
明は、俺の言葉を受け止めるように、ほんの少しだけ顔を上げた。その視線は、穏やかで、でも真剣だった。やわらかなまぶたの奥で、何か強い意志が静かに燃えている。その眼差しに、俺は自然と手を伸ばした。握った手は細く、けれど芯がある。体温が、皮膚を伝って心に染みていく。
「俺は、ずっと幸せに生きてるアキの隣にいたかった。ようやくスタートラインに立てたんだ。だから、罪悪感なんて覚えないでほしい」
俺はなにも言わず、その手を握った。細くて、だけど芯のある手だった。



