大学に着くと、一限の哲学の授業は既に始まっていた。
「――死とはなにか、生きるとはなにか。今日は死生観についてお話します」
教授が静かな声で語るたびに、講義室に漂う空気が少しずつ重くなる。沈黙が満ちる中、音を立てないよう後ろから忍び足で滑り込む。
「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の中に、こんな一文があります。『もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです』幼少期の幸せな思い出が、健全な精神を育てます。もしそれでも死を望むなら、その人の中には、まだ言葉にできない叫びがあるのかもしれません――」
一番後ろの列には、いつもの顔ぶれが座っていた。
チャラついた見た目の隼人に、真面目系の結菜、マイペースな遥――中学以来の腐れ縁とはまた違う、新しい仲間たちだ。
俺と明がやってきたことに気づくと、彼らは無言で手招きしてきた。するりと席に座ると、隼人が声を潜めて囁いた。
「……まだ出欠取ってないから、セーフ。ラッキーだな」
「あ、マジ? やった」
朝メシをがっつり食ったから、遅刻確定だと思っていた。予想外の幸運に浮かれた。明とこの喜びを分かち合おうと、頬を緩めて振り返ったが――明は、ホワイトボードを見つめたまま、瞬きもせずに固まっていた。
琥珀色の瞳に光が差し込み、どこか遠くへ消えてしまいそうだった。
(……明?)
声をかけようとしたけど、やめた。普段はどんなことでも軽く笑い飛ばすやつなのに。今だけは、誰にも触れさせないみたいな、壊れものみたいな顔をしていた。その横顔に、なぜかひどく胸が締めつけられた。
「なあ、秋司」
授業を終えたあと、明はふと思いついたように声をかけてきた。ふざけた調子の中に、かすかな本気が混じっている声で言った。
「自殺って、どう思う? してもいいと思うか?」
物騒な言葉に、リュックを持ち上げた俺の手が、びくりと震えた。冗談にしては、妙に生々しかった。怖くなって、明の顔を見上げる。けれど、明は屈託なく笑っていた。
「バーカ、縁起でもねえこと言うな」
努めて軽く返すと、明は「ごめんごめん」と笑った。
でも、その目の奥に、かすかに影がよぎった気がした。
(どうしたんだよ、明……)
胸の奥に、不安と、もう一つ――言葉にならないものが、そっと積もった。
暗澹とし始めた気分を振り切ろうと、前から配られてきた授業評価アンケートに目を向けた。
「あれ? そういや秋司もアキくんも、うちらより一個上だよね?」
遥が明の手元のアンケート用紙を覗き込み、なにかに気づいたように声を上げた。明と俺の年齢欄には「ニ十歳」とある。俺たちは大学一年生になったばかりだから、ほとんどの学生は十九歳のはずだった。
「浪人組だったっけ?」
「……あー、まあ、そんな感じ」
気まずくなりかけた空気を、明が軽く笑ってかき消す。
「俺ら、ちょっとだけ入院してたんだよ。インフルこじらせてさ」
「えー、二人して?」
「そうそう、秋司が受験シーズンのとき見事にインフルかかって。熱下がんなくて真っ赤なタコみたいになってさ。俺も移されて、もらい事故だった」
大げさに両手を広げてみせる明に、みんなが吹き出した。明るい笑い声が、天井に跳ね返って広がる。
「いやいや、違うから! 先にインフルったのは明のほう! 被害者は俺!」
「いーや、おまえが先にかかった。犯人はこいつ、秋司です!」
「え、結局どっちなの」
困惑した結菜に尋ねられ、「明!」「秋司!」と同時に叫んだ。
「どっちでもいいよ」
隼人の呆れかえった声を合図に、この話はお開きとなった。二限からは別の授業がある三人とは別れ、俺と明は講義室を出た。
ふと気になって明の横顔を覗く。もう、いつもと変わらない顔だった。授業が終わった瞬間の、怖いくらいの真顔はなんだったんだろう。
(哲学の授業受けたから、ついシリアスモードになっちまっただけ……だよな?)
ホッとしながらも、白紙に一滴の黒点を垂らされたような不安が心の中で滲んだ。
「――死とはなにか、生きるとはなにか。今日は死生観についてお話します」
教授が静かな声で語るたびに、講義室に漂う空気が少しずつ重くなる。沈黙が満ちる中、音を立てないよう後ろから忍び足で滑り込む。
「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の中に、こんな一文があります。『もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです』幼少期の幸せな思い出が、健全な精神を育てます。もしそれでも死を望むなら、その人の中には、まだ言葉にできない叫びがあるのかもしれません――」
一番後ろの列には、いつもの顔ぶれが座っていた。
チャラついた見た目の隼人に、真面目系の結菜、マイペースな遥――中学以来の腐れ縁とはまた違う、新しい仲間たちだ。
俺と明がやってきたことに気づくと、彼らは無言で手招きしてきた。するりと席に座ると、隼人が声を潜めて囁いた。
「……まだ出欠取ってないから、セーフ。ラッキーだな」
「あ、マジ? やった」
朝メシをがっつり食ったから、遅刻確定だと思っていた。予想外の幸運に浮かれた。明とこの喜びを分かち合おうと、頬を緩めて振り返ったが――明は、ホワイトボードを見つめたまま、瞬きもせずに固まっていた。
琥珀色の瞳に光が差し込み、どこか遠くへ消えてしまいそうだった。
(……明?)
声をかけようとしたけど、やめた。普段はどんなことでも軽く笑い飛ばすやつなのに。今だけは、誰にも触れさせないみたいな、壊れものみたいな顔をしていた。その横顔に、なぜかひどく胸が締めつけられた。
「なあ、秋司」
授業を終えたあと、明はふと思いついたように声をかけてきた。ふざけた調子の中に、かすかな本気が混じっている声で言った。
「自殺って、どう思う? してもいいと思うか?」
物騒な言葉に、リュックを持ち上げた俺の手が、びくりと震えた。冗談にしては、妙に生々しかった。怖くなって、明の顔を見上げる。けれど、明は屈託なく笑っていた。
「バーカ、縁起でもねえこと言うな」
努めて軽く返すと、明は「ごめんごめん」と笑った。
でも、その目の奥に、かすかに影がよぎった気がした。
(どうしたんだよ、明……)
胸の奥に、不安と、もう一つ――言葉にならないものが、そっと積もった。
暗澹とし始めた気分を振り切ろうと、前から配られてきた授業評価アンケートに目を向けた。
「あれ? そういや秋司もアキくんも、うちらより一個上だよね?」
遥が明の手元のアンケート用紙を覗き込み、なにかに気づいたように声を上げた。明と俺の年齢欄には「ニ十歳」とある。俺たちは大学一年生になったばかりだから、ほとんどの学生は十九歳のはずだった。
「浪人組だったっけ?」
「……あー、まあ、そんな感じ」
気まずくなりかけた空気を、明が軽く笑ってかき消す。
「俺ら、ちょっとだけ入院してたんだよ。インフルこじらせてさ」
「えー、二人して?」
「そうそう、秋司が受験シーズンのとき見事にインフルかかって。熱下がんなくて真っ赤なタコみたいになってさ。俺も移されて、もらい事故だった」
大げさに両手を広げてみせる明に、みんなが吹き出した。明るい笑い声が、天井に跳ね返って広がる。
「いやいや、違うから! 先にインフルったのは明のほう! 被害者は俺!」
「いーや、おまえが先にかかった。犯人はこいつ、秋司です!」
「え、結局どっちなの」
困惑した結菜に尋ねられ、「明!」「秋司!」と同時に叫んだ。
「どっちでもいいよ」
隼人の呆れかえった声を合図に、この話はお開きとなった。二限からは別の授業がある三人とは別れ、俺と明は講義室を出た。
ふと気になって明の横顔を覗く。もう、いつもと変わらない顔だった。授業が終わった瞬間の、怖いくらいの真顔はなんだったんだろう。
(哲学の授業受けたから、ついシリアスモードになっちまっただけ……だよな?)
ホッとしながらも、白紙に一滴の黒点を垂らされたような不安が心の中で滲んだ。



