買い物かごの中で、キャベツがぐらりと揺れる。店内のざわめきのなか、明が足早に棚の前から戻ってきた。
「秋司、今週サバ安いって。どうする? 味噌煮? 塩焼き?」
「味噌で!」
「じゃあ、豆腐も入れようか」
その言葉と同時に、明の左手が自然と伸びてきて、俺の右手にそっと触れる。指先だけが、軽く絡まる。派手じゃない。誰の目にもつかないようなさりげなさだ。けれど、その小さな接点に、確かなぬくもりがあった。狭い通路を並んで歩くだけなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
俺は今、「今夜の晩飯」を誰かと一緒に選んでいる。そんな何気ない事実が、信じられないほど嬉しかった。
スーパーからの帰り道。もう夕暮れどきだ。薄く朱を帯びた空が、俺たちの行く先を照らしている。今日はたくさん買い込んだから、明と俺は両手に袋を抱えて歩いていた。歩くたび、カサカサとビニール袋が擦れる音が鳴る。これまでならうるさく感じたそれも、今はなぜか心地いい。
「一緒に暮らすのって、いいよな」
明が、唐突に呟いた。言い方はいつも通りだった。でも、その一言だけが、不思議と胸に残った。
明とは、正式に同棲しているわけじゃない。すべてを打ち明けてから、俺を心配した明が自然とうちに住み着いているってだけだ。でも、このままずっと一緒にいるのも悪くないな――そう思い始めていたのも確かだ。
俺は返事ができなかった。口を開こうとしても、言葉の前になにかがつかえてしまう。喉の奥でつぶれた感情が、言葉になる前に沈んでいった。
――ずっと、夢みたいだと思ってた。叶うなんて、信じてなかった。
こうして肩を並べて誰かと家まで歩く。ただそれだけの光景が、いつか手に入るなんて。風に揺れるシャツの布地に、ぬくもりと重みがあった。それがどれだけ尊いことか、思い知るように目を伏せた瞬間、頬に温かいものが伝った。
「どうした、秋司?」
明が、俺の異変に気づく。明の視線がさっと俺の全身をくまなく辿った。また俺を心配しているんだ。
「……なんでもねえ」
なんとか絞り出した声に、それ以上、彼はなにも聞かなかった。
黙って缶コーヒーを差し出してくれる。わざわざプルタブを開けて。その動作だけで、十分すぎるほど伝わった。缶コーヒーを受け取り、ひとくち、胃の中に流し込む。
ふいに、明が口を開いた。
「あの、さ。……俺たち、これからちゃんと一緒に住まない? もう半同棲みたいなもんだけど、正式にさ」
心臓が、どくん、と跳ねた。昔なら、黙ってしまっていたかもしれない。でも今は――違う。
俺は缶を唇から離し、まっすぐ明を見つめた。
「……うん、いいよ。一緒に住もう」
それは、明日を生きるための、確かな選択だった。逃げるんじゃなく、ただ、“ここにいる”という意思。
立派な人にならなくても、価値あるものをなにも残せなくても、それでも――この命を、ちゃんと、生きていこうと思った。
「そうと決まれば俺の家引き払わないとだな~。あ、引っ越し作業手伝えよ?」
「えー、めんど」
「おい! 彼氏だろ、それぐらい手伝えよ」
明が笑う。今じゃない、少し先の話。未来のこと。その言葉に、ふと気づく。
――そうか。俺、未来の話ができるようになったんだな。
かつては、明日のことすら考える意味がなかった。ただ生きてるだけで、十分すぎるほど痛かった。それでも今は、いつかの未来を思い浮かべて、笑えている。胸の奥が、じんわりと満たされていく。
「……うん。手伝うよ、もちろん」
短く返すと、明が嬉しそうに目を細めた。その笑顔が、俺の世界をあたたかく照らしていた。
そういえば――と、俺は思いついたことを何気なく言った。
「明がこうやって頼み事すんの、初じゃん? おまえって昔から人にあんまり頼らねえじゃん」
その言葉に、明は一瞬歩みを緩めた。スーパーの袋が揺れて、ビニールが擦れる音が小さく鳴る。
明はすぐに、いつもの笑顔を浮かべて答えた。
「そうかな。でも……昔、誰かに助けてもらったことがあって。それがすごく嬉しくてね」
俺は横目で明の顔を見た。明は前を向いたまま、少しだけ遠くを見るような目をしていた。
「それ、誰に?」
「さあ。もう覚えてないよ」
そう言って笑う明に、それ以上は聞かなかった。だが胸の奥に、小さな棘が引っかかったような違和感が残った。
そのとき、ポツ、と頬に冷たいものが当たった。
「……降ってきたな」
空を見上げると、細かい雨が舞っていた。街灯に照らされて、まるで小さな粒子が宙を漂っているように見える。
手で額を拭うと、明が歌うように呟いた。
「俺は雨、嫌いじゃないよ」
「変なやつだな。風邪ひくだろ」
そう言いかけて、俺は思い出した。そういえば、昔もこんなことがあった。
中学の頃。公園のベンチ。夕暮れ時で、しとしとと雨が降っていた。傘を持たずにうずくまる誰かがいて、俺は躊躇なく傘を差し出した。「風邪ひくだろ」——確かにそう言った。
明は、笑った。今のような、どこか寂しさを抱えた笑顔だった。
「ねえ、秋司」
明が、静かに口を開く。
「……俺、小さい頃、施設で暮らしてたんだ。中学生のとき、クラスでそれがバレて、いろいろ言われた。まるで、俺が汚いものみたいに」
俺は言葉を飲み込んだ。
「その日、雨が降っててさ。家に帰りたくなくて、公園でずっと座ってた。びしょ濡れで、震えながら。そしたら……誰かが傘を差してくれた。『風邪ひくだろ』って、頭にポンって当てるみたいに」
明の声が、少しだけ震えた。
「嬉しかったんだ。その人は俺のこと、かわいそうとか言わなかった。ただ、濡れてる俺を当たり前みたいに見てくれて、何も聞かずに屋根の下に連れて行ってくれた」
俺は黙って歩きながら、無意識に明に傘を傾けた。
「俺はね、ずっと思ってた。あのとき、あの屋根の下にいたとき、世界が少しだけ優しくなった気がしたんだ」
明が立ち止まり、俺のほうを見上げた。
「……あのときも、今も、俺にとって秋司は、雨の日の屋根みたいな存在なんだよ」
雨の中で、明が微笑んだ。濡れた睫毛が光を反射して、まるで泣いているようにも見えた。
俺はなにも言えなかった。ただ、心臓の奥がじくじくと熱くなるのを感じていた。
——自分は、たぶん、あのときから明の本当の姿を知っていたのかもしれない。
優しくて、明るい。でも実際は傷つきやすくて、脆くて。俺みたいなやつだって。
そして今、また俺は明の隣にいる。そのことが、理由もなく、ひどく大切に思えた。
明は目をそっと伏せた。
「アキ、ずっと一緒にいてくれよな。じゃないと俺、だめになっちゃうから」
「なに急に」
「いや、なんとなく。でも……今は、前よりもずっと、そう思うんだ」
そう言って、明は少し照れたように笑い、俺の肩に頭を預けた。その何気ない一言が、不意に過去と繋がる。
『おまえさえ、いなければ……』
そう言われ続けてきた、あの頃。母親に否定され、家族に拒絶され、世界から見放されていた記憶。
でも今、目の前の人は――「いなくなったらだめになる」って。その言葉だけで、すべてが報われたような気がした。涙がこぼれそうになるのを隠すように、そっと息を吐く。
もう、俺は独りじゃない。そう思えることが、たまらなく嬉しかった。
空から、ひらひらと枯れ葉が舞っていた。その下で、ふたりの影が、そっと寄り添うように伸びていく。
まるで、これからを迎えるふたりの時間のように。
「秋司、今週サバ安いって。どうする? 味噌煮? 塩焼き?」
「味噌で!」
「じゃあ、豆腐も入れようか」
その言葉と同時に、明の左手が自然と伸びてきて、俺の右手にそっと触れる。指先だけが、軽く絡まる。派手じゃない。誰の目にもつかないようなさりげなさだ。けれど、その小さな接点に、確かなぬくもりがあった。狭い通路を並んで歩くだけなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
俺は今、「今夜の晩飯」を誰かと一緒に選んでいる。そんな何気ない事実が、信じられないほど嬉しかった。
スーパーからの帰り道。もう夕暮れどきだ。薄く朱を帯びた空が、俺たちの行く先を照らしている。今日はたくさん買い込んだから、明と俺は両手に袋を抱えて歩いていた。歩くたび、カサカサとビニール袋が擦れる音が鳴る。これまでならうるさく感じたそれも、今はなぜか心地いい。
「一緒に暮らすのって、いいよな」
明が、唐突に呟いた。言い方はいつも通りだった。でも、その一言だけが、不思議と胸に残った。
明とは、正式に同棲しているわけじゃない。すべてを打ち明けてから、俺を心配した明が自然とうちに住み着いているってだけだ。でも、このままずっと一緒にいるのも悪くないな――そう思い始めていたのも確かだ。
俺は返事ができなかった。口を開こうとしても、言葉の前になにかがつかえてしまう。喉の奥でつぶれた感情が、言葉になる前に沈んでいった。
――ずっと、夢みたいだと思ってた。叶うなんて、信じてなかった。
こうして肩を並べて誰かと家まで歩く。ただそれだけの光景が、いつか手に入るなんて。風に揺れるシャツの布地に、ぬくもりと重みがあった。それがどれだけ尊いことか、思い知るように目を伏せた瞬間、頬に温かいものが伝った。
「どうした、秋司?」
明が、俺の異変に気づく。明の視線がさっと俺の全身をくまなく辿った。また俺を心配しているんだ。
「……なんでもねえ」
なんとか絞り出した声に、それ以上、彼はなにも聞かなかった。
黙って缶コーヒーを差し出してくれる。わざわざプルタブを開けて。その動作だけで、十分すぎるほど伝わった。缶コーヒーを受け取り、ひとくち、胃の中に流し込む。
ふいに、明が口を開いた。
「あの、さ。……俺たち、これからちゃんと一緒に住まない? もう半同棲みたいなもんだけど、正式にさ」
心臓が、どくん、と跳ねた。昔なら、黙ってしまっていたかもしれない。でも今は――違う。
俺は缶を唇から離し、まっすぐ明を見つめた。
「……うん、いいよ。一緒に住もう」
それは、明日を生きるための、確かな選択だった。逃げるんじゃなく、ただ、“ここにいる”という意思。
立派な人にならなくても、価値あるものをなにも残せなくても、それでも――この命を、ちゃんと、生きていこうと思った。
「そうと決まれば俺の家引き払わないとだな~。あ、引っ越し作業手伝えよ?」
「えー、めんど」
「おい! 彼氏だろ、それぐらい手伝えよ」
明が笑う。今じゃない、少し先の話。未来のこと。その言葉に、ふと気づく。
――そうか。俺、未来の話ができるようになったんだな。
かつては、明日のことすら考える意味がなかった。ただ生きてるだけで、十分すぎるほど痛かった。それでも今は、いつかの未来を思い浮かべて、笑えている。胸の奥が、じんわりと満たされていく。
「……うん。手伝うよ、もちろん」
短く返すと、明が嬉しそうに目を細めた。その笑顔が、俺の世界をあたたかく照らしていた。
そういえば――と、俺は思いついたことを何気なく言った。
「明がこうやって頼み事すんの、初じゃん? おまえって昔から人にあんまり頼らねえじゃん」
その言葉に、明は一瞬歩みを緩めた。スーパーの袋が揺れて、ビニールが擦れる音が小さく鳴る。
明はすぐに、いつもの笑顔を浮かべて答えた。
「そうかな。でも……昔、誰かに助けてもらったことがあって。それがすごく嬉しくてね」
俺は横目で明の顔を見た。明は前を向いたまま、少しだけ遠くを見るような目をしていた。
「それ、誰に?」
「さあ。もう覚えてないよ」
そう言って笑う明に、それ以上は聞かなかった。だが胸の奥に、小さな棘が引っかかったような違和感が残った。
そのとき、ポツ、と頬に冷たいものが当たった。
「……降ってきたな」
空を見上げると、細かい雨が舞っていた。街灯に照らされて、まるで小さな粒子が宙を漂っているように見える。
手で額を拭うと、明が歌うように呟いた。
「俺は雨、嫌いじゃないよ」
「変なやつだな。風邪ひくだろ」
そう言いかけて、俺は思い出した。そういえば、昔もこんなことがあった。
中学の頃。公園のベンチ。夕暮れ時で、しとしとと雨が降っていた。傘を持たずにうずくまる誰かがいて、俺は躊躇なく傘を差し出した。「風邪ひくだろ」——確かにそう言った。
明は、笑った。今のような、どこか寂しさを抱えた笑顔だった。
「ねえ、秋司」
明が、静かに口を開く。
「……俺、小さい頃、施設で暮らしてたんだ。中学生のとき、クラスでそれがバレて、いろいろ言われた。まるで、俺が汚いものみたいに」
俺は言葉を飲み込んだ。
「その日、雨が降っててさ。家に帰りたくなくて、公園でずっと座ってた。びしょ濡れで、震えながら。そしたら……誰かが傘を差してくれた。『風邪ひくだろ』って、頭にポンって当てるみたいに」
明の声が、少しだけ震えた。
「嬉しかったんだ。その人は俺のこと、かわいそうとか言わなかった。ただ、濡れてる俺を当たり前みたいに見てくれて、何も聞かずに屋根の下に連れて行ってくれた」
俺は黙って歩きながら、無意識に明に傘を傾けた。
「俺はね、ずっと思ってた。あのとき、あの屋根の下にいたとき、世界が少しだけ優しくなった気がしたんだ」
明が立ち止まり、俺のほうを見上げた。
「……あのときも、今も、俺にとって秋司は、雨の日の屋根みたいな存在なんだよ」
雨の中で、明が微笑んだ。濡れた睫毛が光を反射して、まるで泣いているようにも見えた。
俺はなにも言えなかった。ただ、心臓の奥がじくじくと熱くなるのを感じていた。
——自分は、たぶん、あのときから明の本当の姿を知っていたのかもしれない。
優しくて、明るい。でも実際は傷つきやすくて、脆くて。俺みたいなやつだって。
そして今、また俺は明の隣にいる。そのことが、理由もなく、ひどく大切に思えた。
明は目をそっと伏せた。
「アキ、ずっと一緒にいてくれよな。じゃないと俺、だめになっちゃうから」
「なに急に」
「いや、なんとなく。でも……今は、前よりもずっと、そう思うんだ」
そう言って、明は少し照れたように笑い、俺の肩に頭を預けた。その何気ない一言が、不意に過去と繋がる。
『おまえさえ、いなければ……』
そう言われ続けてきた、あの頃。母親に否定され、家族に拒絶され、世界から見放されていた記憶。
でも今、目の前の人は――「いなくなったらだめになる」って。その言葉だけで、すべてが報われたような気がした。涙がこぼれそうになるのを隠すように、そっと息を吐く。
もう、俺は独りじゃない。そう思えることが、たまらなく嬉しかった。
空から、ひらひらと枯れ葉が舞っていた。その下で、ふたりの影が、そっと寄り添うように伸びていく。
まるで、これからを迎えるふたりの時間のように。



