明がバイトで出かけている間、暇を潰すつもりで部屋の模様替えを始めた。
といっても、ほんの気まぐれだ。本格的な断捨離をしたいわけじゃない。掃除機をかけたついでに、棚の位置を少し変えてみたり、机の角度を調整してみたり。そんな小さな変化でも、部屋の空気は少しだけ新しくなる。
ふと、ベッドの横に置いていた古いチェストを動かそうとしたときだった。背面の隙間に、紙切れが挟まっているのが見えた。
「なんだこれ」
埃を払いながら指を伸ばす。指先に紙の感触。引っ張り出して広げると、それは便箋だった。黄ばんで、角は折れ曲がり、ところどころインクがにじんでいる。
読み始めて、すぐになんの紙か思い出した。
それは、俺自身が書いた遺書だった。記憶の底に沈めていた、あの頃の衝動が一気に蘇る。
《母親にも望まれなかった命だ》《誰にも迷惑をかけたくない》《生きていても意味がない》《もう疲れた》
そんな言葉が痛々しく並んでいた。必死で、どこか稚拙な文章たち。誰にも見せるつもりなんてなかった。ただ、書かずにはいられなかった。あのときの自分には、それが精一杯の「SOSサイン」だったのだろう。
便箋を持つ手が、わずかに震える。
今の自分は、この手紙を書いたときの自分と、同じ場所にはいない。まだ完全に抜け出せたわけじゃない。でも、隣に明がいる。毎朝起こしてくれて、飯をつくってくれて、当たり前みたいに笑ってくれる人が、いる。
それだけで、十分だった。
「……もう、いらねえな」
ぼそっと独り言のように呟いて、便箋を折る。二つ折り、四つ折り。もっと、もっと。手のひらの中でぐしゃっと握りしめて、そのまま立ち上がる。
ゴミ箱の前で、一瞬だけ手が止まった。
だけど――迷わない。その紙切れを、何のためらいもなく捨てる。ごみ箱の中で、くしゃくしゃの塊が軽い音を立てて落ちた。
胸の奥で、俺を縛っていたものが静かにほどける。痛みじゃない。名残惜しさでもない。ただ、過去との確かな決別だった。
窓から差し込む午後の光が、ベッドの端を照らしている。埃が、金色に舞っていた。
――もう、大丈夫だ。少なくとも、あのときよりは。
俺は自分自身に頷く。
そして、新しい手紙を書くため、そっとリビングのテーブルにノートとペンを置いた。
部屋は静まり返っている。下校中の小学生の笑い声、車のクラクション――そんな日常の音が、窓の向こうからかすかに聞こえる。
ページを一枚めくり、白紙に目を落とした。
そして、書き出す。
《秋司へ――》
自分に宛てて手紙を書くなんて、馬鹿らしいと思っていた。でも、今なら書ける気がした。今だからこそ、書かなくちゃいけない気がした。
秋司――あの頃のおまえは、きっと、ずっと苦しかった。母さんのこと、ばあちゃん、じいちゃんのこと。俺の父親だった人のこと。みんなが俺を……嫌っていたこと。
誰にも言えず、言ったところで伝わらないと決めつけて、全部飲み込んで。そのたびに喉の奥が焼けて、心が冷えていったんだと思う。
泣きたいときに泣けなくて、笑いたいときにも笑えなくて。それでも明日が来ることが、希望だなんてとても思えなかった。死にたいって、何度も思ったよな。実際、何回も死のうとしてみたよな。
でも、本当は違ったんだ――俺は、生きていたかったんだ。
誰かに、ここにいていいって言ってほしかったんだ。生きていることを、許されたかった。母さんたちは、許してくれなかったから。
俺自身、見失っていた本当の気持ち。それにようやく気づかせてくれたのが、明だった……。
俺は一度ペンを止めて、息を吐いた。少しだけ喉が熱かった。涙が出そうだった。でも、ここで止めたら意味がない。もう一度、ペンを握る。
――おまえのことを、今の俺は責めない。よく頑張ったなって思う。我ながら、よくやってきたよ。
誰にも言えなかったぶん、俺が今、全部聞いてやる。
おまえは弱くなんかない。ただ、ひとりぼっちだっただけだ。
もう、俺はひとりじゃない。俺には、明がいる。
ちゃんとした朝ごはんを作ってくれて、笑って、怒って、くだらないことで喧嘩して。それでも一緒に、今日を生きてる。
おまえが諦めなかったから、ここまで来れた。
だから、そろそろお別れを言おう。
――死にたかった俺へ。ありがとう。もう、いいよ。もう、大丈夫。
最後の一文を書き終えると、俺はそっと目を閉じた。
手紙を破るでもなく、保存するでもなく、そっとテーブルに置いたまま、立ち上がる。ぐっと大きく伸びをした。
ベランダに出て、外を見下ろすと。帰ってきた明が俺を見つけるなり、手を振ってきた。満面の笑みだ。
ああ、と思った。
俺は、守られてばかりじゃない。明を、守っていきたい。俺の人生を、自分の意思で明の隣に置いておきたい。
――守られてるんじゃない。お互いに守りたいんだ。
「明、おかえりーっ!」
手を振り返して、叫ぶ。すぐに出迎えるため、玄関に走った。
といっても、ほんの気まぐれだ。本格的な断捨離をしたいわけじゃない。掃除機をかけたついでに、棚の位置を少し変えてみたり、机の角度を調整してみたり。そんな小さな変化でも、部屋の空気は少しだけ新しくなる。
ふと、ベッドの横に置いていた古いチェストを動かそうとしたときだった。背面の隙間に、紙切れが挟まっているのが見えた。
「なんだこれ」
埃を払いながら指を伸ばす。指先に紙の感触。引っ張り出して広げると、それは便箋だった。黄ばんで、角は折れ曲がり、ところどころインクがにじんでいる。
読み始めて、すぐになんの紙か思い出した。
それは、俺自身が書いた遺書だった。記憶の底に沈めていた、あの頃の衝動が一気に蘇る。
《母親にも望まれなかった命だ》《誰にも迷惑をかけたくない》《生きていても意味がない》《もう疲れた》
そんな言葉が痛々しく並んでいた。必死で、どこか稚拙な文章たち。誰にも見せるつもりなんてなかった。ただ、書かずにはいられなかった。あのときの自分には、それが精一杯の「SOSサイン」だったのだろう。
便箋を持つ手が、わずかに震える。
今の自分は、この手紙を書いたときの自分と、同じ場所にはいない。まだ完全に抜け出せたわけじゃない。でも、隣に明がいる。毎朝起こしてくれて、飯をつくってくれて、当たり前みたいに笑ってくれる人が、いる。
それだけで、十分だった。
「……もう、いらねえな」
ぼそっと独り言のように呟いて、便箋を折る。二つ折り、四つ折り。もっと、もっと。手のひらの中でぐしゃっと握りしめて、そのまま立ち上がる。
ゴミ箱の前で、一瞬だけ手が止まった。
だけど――迷わない。その紙切れを、何のためらいもなく捨てる。ごみ箱の中で、くしゃくしゃの塊が軽い音を立てて落ちた。
胸の奥で、俺を縛っていたものが静かにほどける。痛みじゃない。名残惜しさでもない。ただ、過去との確かな決別だった。
窓から差し込む午後の光が、ベッドの端を照らしている。埃が、金色に舞っていた。
――もう、大丈夫だ。少なくとも、あのときよりは。
俺は自分自身に頷く。
そして、新しい手紙を書くため、そっとリビングのテーブルにノートとペンを置いた。
部屋は静まり返っている。下校中の小学生の笑い声、車のクラクション――そんな日常の音が、窓の向こうからかすかに聞こえる。
ページを一枚めくり、白紙に目を落とした。
そして、書き出す。
《秋司へ――》
自分に宛てて手紙を書くなんて、馬鹿らしいと思っていた。でも、今なら書ける気がした。今だからこそ、書かなくちゃいけない気がした。
秋司――あの頃のおまえは、きっと、ずっと苦しかった。母さんのこと、ばあちゃん、じいちゃんのこと。俺の父親だった人のこと。みんなが俺を……嫌っていたこと。
誰にも言えず、言ったところで伝わらないと決めつけて、全部飲み込んで。そのたびに喉の奥が焼けて、心が冷えていったんだと思う。
泣きたいときに泣けなくて、笑いたいときにも笑えなくて。それでも明日が来ることが、希望だなんてとても思えなかった。死にたいって、何度も思ったよな。実際、何回も死のうとしてみたよな。
でも、本当は違ったんだ――俺は、生きていたかったんだ。
誰かに、ここにいていいって言ってほしかったんだ。生きていることを、許されたかった。母さんたちは、許してくれなかったから。
俺自身、見失っていた本当の気持ち。それにようやく気づかせてくれたのが、明だった……。
俺は一度ペンを止めて、息を吐いた。少しだけ喉が熱かった。涙が出そうだった。でも、ここで止めたら意味がない。もう一度、ペンを握る。
――おまえのことを、今の俺は責めない。よく頑張ったなって思う。我ながら、よくやってきたよ。
誰にも言えなかったぶん、俺が今、全部聞いてやる。
おまえは弱くなんかない。ただ、ひとりぼっちだっただけだ。
もう、俺はひとりじゃない。俺には、明がいる。
ちゃんとした朝ごはんを作ってくれて、笑って、怒って、くだらないことで喧嘩して。それでも一緒に、今日を生きてる。
おまえが諦めなかったから、ここまで来れた。
だから、そろそろお別れを言おう。
――死にたかった俺へ。ありがとう。もう、いいよ。もう、大丈夫。
最後の一文を書き終えると、俺はそっと目を閉じた。
手紙を破るでもなく、保存するでもなく、そっとテーブルに置いたまま、立ち上がる。ぐっと大きく伸びをした。
ベランダに出て、外を見下ろすと。帰ってきた明が俺を見つけるなり、手を振ってきた。満面の笑みだ。
ああ、と思った。
俺は、守られてばかりじゃない。明を、守っていきたい。俺の人生を、自分の意思で明の隣に置いておきたい。
――守られてるんじゃない。お互いに守りたいんだ。
「明、おかえりーっ!」
手を振り返して、叫ぶ。すぐに出迎えるため、玄関に走った。



