きみの痛みを、ずっと見ていた

 薄曇りの空を透かして、柔らかな光がレースのカーテン越しに差し込んでいた。季節の変わり目らしく、外はまだ肌寒い。けれど、部屋の中には、湯気と香ばしい匂いと、人の気配がある。
 ――この時間が、ずっと続いてくれたらいいのに。
 まどろみながら、思う。誰かが傍にいてくれる。それは幸せの証だった。
 俺はゆっくりとまぶたを開けた。
「……ん、いま何時……」
 掛け布団の中で小さく呻くように呟くと、すぐにキッチンの方から返事が飛んできた。
「七時過ぎ。そろそろ起きろ〜。味噌汁、もうすぐできるから」
 聞き慣れた声。ゆったりしていて、けれどどこか楽しげで、朝の空気を軽く揺らす。明の声だ。
 俺は片手で顔を覆いながら息を吐き、ベッドから身を起こした。ぎし、とスプリングが鳴る。リビングへ足を運ぶと、明がエプロンを着けたまま、フライパンの前で鼻歌を歌っているのが見えた。寝癖のついた後頭部、やや雑なフライ返しの手つき。床には買ってきた野菜の段ボールが置きっぱなしになっていて、たぶん急いで料理を始めたのだろう。
「……手、貸そうか」
 唐突にそう言ってみたら、明はフライ返しを止めて振り返った。ぱちりと目を瞬かせて、笑う。
「え、なに? 秋司が料理? 今日は槍でも降んのか?」
「うるせえ。たまにはやる」
「マジで~!? アキが立派に育ってくれて、父さん泣きそうだよ」
「なにが父さんだよ、ほら、なにから手伝えばいいの。教えろって」
 明がわざと大げさに両手を広げるので、思わず苦笑する。その笑いに、自分でも驚く。笑うって、こんなに自然にできたっけ。
 明の隣に立ち、エプロンを借りて、包丁を握る。まな板の上には長ネギ。しばらく料理なんてしていなかったからか、手元がぎこちない。ネギが転がるたび、明が横から手を添えてきた。
「こう。こう持つと安定するんだよ。指、巻き込まないようにね」
「……はーい、先生」
「うん、いいですね。優秀な生徒さんにはご褒美として、キスしてあげます」
「するかバカ」
 唇を突き出してくる明を、笑いながら押しのけた。
 ネギを刻みながら、不意に思う。
 ――こうやって並んで、日常のひとコマを重ねていくのは、たぶん、ほんの些細なことだ。だけど、明るいキッチンの光も、少し焦げた卵焼きの匂いも、すべてが「生きている」と感じさせてくれる。俺はずっと、こんな当たり前のものがほしかったんだ。
 料理がひと段落したあと、明が味噌汁の味見をしながら聞いてきた。
「どう? 手伝ってみた感想は」
「うん……悪くないかもね」
「え、なに、その歯切れ悪い感じ。もうちょっと褒めてくれない? 『明の料理は世界一だー!』とか、『俺の彼氏はスパダリだぜ!』とかあるだろ」
「二度と作る気なくなるんだけど。おまえ、自分で言っててはずくないわけ?」
「え、全然」
「……すげえな。負けたよ」
 肩が触れる距離。ふたりして器を並べながら、何気ない会話がぽつぽつと続いていく。味噌汁の湯気の向こう、明の頬がふわりと紅く染まっていた。
 ――たぶん俺は、今、初めて「誰かと暮らす」ってことをしている。
 その朝の光を、焼きつけるように見つめた。