数日後。俺は明とともに、小さなクリニックのドアをくぐった。
 受付の横には観葉植物が並び、やわらかな照明が落ち着いた空気を作っている。やがて名前を呼ばれ、明と一緒にカウンセリング室へ入った。ソファの前に座っていたのは、温和な笑顔の男性だった。
「こんにちは、秋司くん。調子はどう? 眠れてる?」
 そう言って優しく笑ったその人が、佐伯先生だった。明の親戚で、前から俺を診ていてくれた先生……らしい。俺は覚えていないが、明がいろいろと説明してくれた。
 佐伯先生は明にどこか似ていた。穏やかで、相手を否定しない空気をまとっていた。
 ――先生と会うのは初めてじゃない。けど、こうして「俺」として向き合うのは、初めてだ。
 緊張で背筋がこわばる中、明が横にいる。それだけで少しだけ息がしやすかった。やがて、俺は自分の言葉で、ぽつぽつと話し始めた。そして、時間はゆっくりと流れていく。
 大学に入ってから、ずっと昔の記憶がなくなっていたこと。自分が自殺衝動を起こすことを忘れていたこと。最近は、明のおかげで気持ちが落ち着いてきていること――たくさんの話を、先生にした。佐伯先生は笑顔で相槌を打ち、「二人とも、よく頑張ってきましたね」と言ってくれた。明は泣いていた。俺も、釣られて少し涙ぐんでいたと思う。
 カウンセリング室を出たときには、肩の力がだいぶ抜けていた。
「……一緒に来てくれてありがとう、明」
「ううん。俺こそ、カウンセリング受けたいって言ってくれて、ありがとう」
 しばらく歩いたあと、明がふと口を開いた。
「俺さ、将来は佐伯先生みたいなカウンセラーになりたいんだ」
 驚いて横を見ると、明は少し照れくさそうに笑った。
「佐伯先生には、俺もすごく助けられたから。それに……秋司のこと、ちゃんと支えられる人間になりたいって思ったんだ」
 その言葉は、真っ直ぐに俺の胸に届いた。
「そっか……いい夢だな。明なら、なれるよ。俺、応援する」
 そのとき明が見せた笑顔は、春の陽だまりのようにやわらかかった。
 胸に、小さな希望が灯る。未来に向けて、ようやくほんの一歩を踏み出せた気がした。