白い靄の中に、ひとりの少年が立っていた。膝を抱えて、うずくまっている。痩せた肩。肘には、何度も擦りむいたような薄い傷。見覚えがある――いや、見間違うはずがない。
 あれは、子どもの頃の俺だった。
 呼吸の音すら吸い込まれていくような空間で、足を一歩踏み出そうとしても、床は頼りなく滑り、思うように進めない。
「なあ」
 やっとの思いで声をかけると、少年が顔を上げた。涙の跡が頬を濡らし、視線は虚空を彷徨っている。唇が震え、掠れた声が漏れた。
「……しにたい」
 その言葉が、靄の中にぽつんと落ちる。何度も思い浮かべ、口にしてきた言葉。母に疎まれた日、祖父母に冷たくされた日。まるで救いのように、すがりついてきた言葉。
 でも、ようやく気づいた。こいつは――俺は、「死にたい」と本気で願っていたんじゃない。
「生きる理由が見つからなかっただけだろ」
 俺が静かに呟いた声に、少年の肩が小さく震えた。
「逃げる場所も、味方も、未来もなかった。だから、そう言うしかなかったんだよな」
 言葉の奥にあった本音。何度も「助けて」と叫んでいたのに、誰にも届かず、ようやく今になって――ようやく俺自身が、その叫びに応える。
 しゃがみ込み、そっと手を伸ばす。指先が、少年の髪に触れた。冷たくて、柔らかくて。俺の記憶のまま、壊れそうな感触だった。
「でも今は……俺には、生きる理由がある。そばに、明がいる」
 少年の目が見開かれた。涙で曇っていた瞳に、ほんの少しだけ光が宿る。次第にその姿は、朝靄に溶けていくように淡く、穏やかに消えていった。その光景を見送り、俺はやっと抱えていた荷物を一つ降ろせた――そんな気がした。
 ――目が覚めたとき、時計は午前二時を指していた。
 乾いた喉を潤す気にもなれず、寝室を抜け出して窓を開けた。ベランダに出ると、夜風が頬を撫でた。薄手のTシャツでは寒かったが、不思議とその冷たさが心地よかった。マンションの下は静まり返り、街灯の明かりがゆらりと揺れている。柵に手をかけて、しばらく黙って佇んだ。
 少し前までの俺なら、こんな夜に「終わらせたい」という言葉が浮かんだかもしれない。衝動的に、空へ飛び出そうとしたのかもしれない。けれど今、胸の奥に広がるのは、空っぽな静けさだった。幸福に満ち足りているのとは、少し違う。言うなれば、これまで荒れていた波が、さざ波になったような。そんな変化だった。
 背後で、かすかに音がした。寝室のドアが軋む音。小さなそれが、なぜか胸の奥まで届いた。
(明……俺がまた変な気を起こさないか、心配してくれてるんだな)
 耳を澄ませば、聞こえる。部屋からこちらを窺っている、明の気配。規則正しくて、優しくて、俺がここにいることを前提にした音。
「生きてくれ」と、あいつはそう言ってくれた。その記憶だけで、足が自然と引いた。窓を閉め、ゆっくりと部屋に戻る。ソファに腰を下ろし、スマホを手に取った。いつ登録したのか覚えていないブックマークに指を滑らせる――受診履歴のあるクリニックの、予約画面。画面をじっと見つめる。
「……行かないと、だよな」
 送信ボタンの手前で、指が止まった。迷うように、震える指先。怖いのかもしれない。誰かに話すことで、もう一度、自分の弱さと向き合うことが。またおかしくなってしまうんじゃ……明を失望させるかも……そんな不安がとめどなく溢れてきて、俺の胸を覆い隠そうとする。
 それでも。進まないといけない。
 俺は深呼吸をしてから、送信ボタンを押した。「予約完了しました」とメッセージウィンドウが現れる。
 画面を閉じ、胸に手を当てる。必ず行こう。自分のために。そして――明と、生きていくために。
  スマホを握り締めたまま、俺はしばらく動けなかった。送信ボタンを押すだけのことだったはずなのに、胸の奥が変にざわついていた。
 ――やがて、ふとした揺れのような感覚が体を貫いた。眩暈。目の前の景色がわずかに歪む。
「……なんだ、これ……」
 ソファの端に手をついて立ち上がった瞬間、足元が崩れた。息が吸えない。喉の奥が塞がれたような息苦しさに、思わず床に膝をついた。
 呼吸が、できない。肺が、狭まっていく。酸素が足りない。
「……っ、やば……」
 目の前が暗くなる。鼓動の音が耳を圧迫し、心臓が壊れそうなほどに打ち鳴らされていた。
 発作、だった。
 ——まただ。
 記憶の底から、這い上がるように過去の感覚が蘇る。電車のホーム、雨の夜、誰もいない病室。遠くから、明が呼ぶ声……。
「……助けて……」
 誰にも届かないはずの声を、俺はかすかに漏らした。
 そのとき、玄関のドアが開いた。
「アキ!」
 明だった。スーパーの袋を持ったまま、驚愕の表情で駆け寄ってくる。
「アキ、落ち着け、大丈夫だから……!」
 言葉を返す余裕などない。ただ、空気を求めて口を開けているだけの魚のようだった。
 明はすぐにスマホを取り出し、救急へ連絡を入れながら、俺の背中をさすり、声をかけ続けた。
「大丈夫、大丈夫だから。すぐ病院行こう。もう怖くない。俺がいるから、絶対に俺が守るから……!」
 その声すら遠のいていく。
 世界が、靄に包まれていく。



   ***



 ——また、この夢だ。
 霧に包まれた世界。なにもない空間に、ひとりの少年が立っていた。子どもの頃の俺だ。けれど、前に見たときよりもっと幼く、もっと痛々しい目をしていた。
「どうしてまだここにいるんだ?」
 俺が訊ねると、少年は俯いてこう答えた。
「きみが、僕をここに縛りつけているんじゃないか」
 少年は不貞腐れたように俺を睨みつけている。
「俺が……?」
「うん。きみが」
 頷く少年。
「二十年だよ。二十年も抱えてきた苦しみが、そんな一瞬でなくなるとでも? 映画の見すぎだね」
「……確かに。ってかその言いかた、なんか腹立つな」
 少年は得意げに腕を組み、俺を見上げていた。
 自分は救われた。回復した。そう思っていた。でも、ダメージを負い続けた心と身体は、そうすぐに元通りとはいかないらしい。
 苦しみだけじゃない。母や、祖父母への恨みも少なからずあった。恨み言を言えない立場だからこそ、二十年間、口をふさがれているうちに蓄積していった憎しみ。そのすべてを背負った自分。
「もう僕、ここにいなくてもいいの?」
 少年が聞いてくる。
 俺は、静かに首を横に振った。
「違う。俺がおまえを連れて帰るよ。もう一人にしない」
 差し出した手に、少年が触れた。
 霧が晴れていく。



   ***



 目を開けたとき、白い天井が視界に広がった。
 点滴。血圧計。隣にあるベッド。そのすべてが、現実だった。窓の外は朝焼けに染まりつつあった。
「気づいた?」
 その声に、ゆっくりと目をやると、明がいた。椅子の背に寄りかかるように座り、俺の手を痛いくらいの強さで握り締めている。目は真っ赤に腫れていた。だいぶ泣いたようだ。
「俺……どれくらい寝てた?」
「三時間くらい。でも、すごく長く感じたよ」
 明は見るからに憔悴していたが、それでも微笑んだ。俺を安心させるためだろう。
「顔馴染みの看護師さんにさ、『しばらく見なかったのに、また来ちゃったかあ』って言われた」
「なんか、ごめん」
「謝んなって。前に運ばれたときとは、全然状況が違うし。おまえはちゃんと回復してるよ」
「うん……」
 俺が頷くと、明は俺の指先を自分の親指で撫でた。「元気出せ」とでも言うように。
 たぶん、明の言う通りなんだ と思う。俺は以前より良くなっている。ごちゃごちゃに混乱していた記憶も思い出しつつあるし、過去の自分を受け入れ始めた。
 それでも、心は身体の怪我よりわかりにくい。いつかさぶたができて、いつ傷がふさがるのか。自分にも、他人にも見えないから、わからなかった。いつになったら完治できるのか、なんて――きっと、完治はできない。一生傷を抱えて生きていくしかない。
「明」
「なに?」
「俺、生きててよかった。本当に、そう思ってるよ」
 俺の言葉に、明の瞳が潤む。やがて涙が頬を伝った。
「ほんとに、ほんっとに……怖かった。また、アキがずっと眠ったままになるんじゃないかって。また俺は見守ることしかできないんじゃないかって……」
 明が泣きじゃくっている。いつも頼りになって優しい姿しか見てこなかったから、少しびっくりした。
 俺は点滴を刺されている腕をゆっくりと持ち上げて、明の頬を拭った。涙は意外とあたたかかった。
「今度こそ、俺……生きていくよ。ちゃんと、前を向いて」
 明は静かに頷いた。
 自分が、今ここにいること。明が隣にいること。それだけで十分だった。
「一緒に、生きよう」
 その約束が、病室の静けさの中に、深く染み渡った。
 これは、終わりじゃない。始まりだ。俺たちの、新しい明日への一歩——。