夜が深くなると、アパートの壁の薄さが際立つ。隣室の時計の針の音さえ聞こえるような静寂の中、俺と秋司は向かいの席に座ったまま、黙っていた。
これまであったこと、そのすべてを話し終えた。
「……俺な、アキ」
俺の声は、ひどくかすれていた。テーブルに置いたマグカップの湯気が、二人の間にゆらりと揺れる。
「お前に何度も『やめてくれ』って思った。もう限界だって、思った。でも、離れられなかった」
秋司は小さく瞬いた。その目が、涙をこらえるように揺れている。
「おまえが入院していなくなった朝、俺は冷蔵庫を開けて、用意してた食材を見てさ。『やばい! アキの朝メシ作ってねえじゃん』って思って。おまえは病院にいんのに、二人分のメシ作ろうとしてた」
「……明」
「その繰り返しだった。愛してるとか、そういうの、もっと軽くて楽しいもんだと思ってた。でも、お前といると、命を削るみたいだった。けど、それでも……幸せだった」
俺は微笑んだ。
「ずっと、アキのことが好きだったよ。今も好きだ」
秋司は、机の縁を握りしめていた。爪が白くなっている。
「……ぜんぶを、思い出せないけど……明が俺のために、たくさんのことをしてくれたのは、薄々気づいてた」
ようやく出た秋司の声は、泣き出しそうに震えていた。
「そんなふうに……お前が俺のこと抱えてたなんて……知らなかった……俺は……っ」
俺は首を横に振った。責めるつもりはなかった。秋司はなにも悪くない。ただ、俺がどれだけ秋司を想っているのか、知っておいてほしかった。
「明……それでもおまえは……俺のこと……好き、なのか?」
その問いは震えていた。過去の後悔と、今の恐れが滲んでいる。
――なんで怖がってるんだよ。
俺は笑った。
「アキ」
名前を呼ぶ。彼の存在を、この世界に確かに呼び戻すように。
「俺、おまえがさっき言ってくれた言葉、覚えてるよ」
秋司の目がゆっくり開かれる。
「『俺を生きる理由にしてくれ』って。そう言ったよな?」
秋司は無言のまま、頷く。
「俺も、おまえにそう言いたい。俺を、生きる理由にしてくれ」
沈黙が落ちた。でも、それは痛みのない沈黙だった。暖かさが含まれていた。
「……明」
秋司が立ち上がり、明の前に膝をついた。
明の手をとる。指先は冷たく、それでも確かに命が通っている。
その手を強く握りながら、秋司が言った。
「俺、おまえと一緒に……これから生きていきたい」
俺はなにも言わずに頷いた。ずっと聞きたかった一言をやっと聞けた――そんな感慨深さが、俺の全身を心地よく包み込んでいた。
そして、俺はそっと秋司を抱き寄せた。ふたりの額がそっと触れ合ったまま、しばらくのあいだ、時間が止まっていた。秋司のぬくもりが、額越しに伝わってくる。それはとても温かくて、確かに秋司が生きていることを感じさせる。
アキが生きている――その確信は、俺の中にあった冷たいものを、ひとつひとつ溶かしていくようだった。
やがて秋司が、俺の胸元へ身を預ける。腕の中に静かにその身体を引き寄せ、慎重に秋司の唇へキスを落とした。
唇が触れた瞬間、秋司の細い肩はかすかに震えていたけれど、それは怯えや戸惑いではなく、心の深い場所が揺れているような震えだった。何度か、触れ合わせるだけのキスを交わし、俺たちは近づいたときと同じように、ゆっくりと唇を離した。
――本当は、もっとアキが欲しかった。
でもそれ以上を求めたら、壊れてしまう気がして。だから俺は、キスしかしなかった。それだけでも、幸せだった。
「……疲れただろ、アキ」
そう声をかけると、秋司はなにも言わず、小さく頷いた。俺の胸に耳を当てたまま、ゆっくりと呼吸のリズムを落としていく。安堵したように、目蓋を閉じて。数分もしないうちに、すうすうと寝息が聞こえ始めた。秋司の肩が小さく上下している。
眠っている。いつか見た日と、同じように……。でも、病院にいたときとは違い、今の秋司の顔は、穏やかだった。
眠ってしまった秋司の髪に、そっと指を滑らせる。無防備に目を閉じたその顔は、子供みたいだった。眉間の皺も、尖った口元も、すっかりほどけている。
こんなふうに隣で眠ってくれる日が、本当に来るなんて。ずっと夢の中にいたみたいだ。
俺は、ただ秋司を守りたかった。苦しみも、悲しみも、全部代わってやれるならそうしたかった。そのために、何度も無理をして、空回って、でも――どこかでずっと信じてた。この人を救えるのは、自分だけだと。そう思って、がむしゃらに走ってきた。
でも今、こうして秋司を抱きしめながら思う。
(もしかして、俺だけじゃなかったのかもしれない)
秋司も、俺のために泣いてくれた。手を取ってくれた。今、こうして俺の腕の中で眠っている。
好きだ、と。そう言ってくれた。
「……俺も同じくらい、おまえに愛されてる。そう思っていいのかな」
ひとりごとのように、声を落とす。誰にも聞かせるつもりなんてなかった。
けれど、眠っているはずの秋司が、俺の胸の中でふっと口元をゆるめた。それはまるで、肯定するかのような微笑みだった。なにも言わずとも、伝わるものがある。そんな確かな絆を、ようやく手にできた気がした。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでくる。茜色に染まった光が、俺たちの頬をやさしく撫でた。
長い夜が終わり、朝が来た。
ふたりで迎える、最初の朝だった。
これまであったこと、そのすべてを話し終えた。
「……俺な、アキ」
俺の声は、ひどくかすれていた。テーブルに置いたマグカップの湯気が、二人の間にゆらりと揺れる。
「お前に何度も『やめてくれ』って思った。もう限界だって、思った。でも、離れられなかった」
秋司は小さく瞬いた。その目が、涙をこらえるように揺れている。
「おまえが入院していなくなった朝、俺は冷蔵庫を開けて、用意してた食材を見てさ。『やばい! アキの朝メシ作ってねえじゃん』って思って。おまえは病院にいんのに、二人分のメシ作ろうとしてた」
「……明」
「その繰り返しだった。愛してるとか、そういうの、もっと軽くて楽しいもんだと思ってた。でも、お前といると、命を削るみたいだった。けど、それでも……幸せだった」
俺は微笑んだ。
「ずっと、アキのことが好きだったよ。今も好きだ」
秋司は、机の縁を握りしめていた。爪が白くなっている。
「……ぜんぶを、思い出せないけど……明が俺のために、たくさんのことをしてくれたのは、薄々気づいてた」
ようやく出た秋司の声は、泣き出しそうに震えていた。
「そんなふうに……お前が俺のこと抱えてたなんて……知らなかった……俺は……っ」
俺は首を横に振った。責めるつもりはなかった。秋司はなにも悪くない。ただ、俺がどれだけ秋司を想っているのか、知っておいてほしかった。
「明……それでもおまえは……俺のこと……好き、なのか?」
その問いは震えていた。過去の後悔と、今の恐れが滲んでいる。
――なんで怖がってるんだよ。
俺は笑った。
「アキ」
名前を呼ぶ。彼の存在を、この世界に確かに呼び戻すように。
「俺、おまえがさっき言ってくれた言葉、覚えてるよ」
秋司の目がゆっくり開かれる。
「『俺を生きる理由にしてくれ』って。そう言ったよな?」
秋司は無言のまま、頷く。
「俺も、おまえにそう言いたい。俺を、生きる理由にしてくれ」
沈黙が落ちた。でも、それは痛みのない沈黙だった。暖かさが含まれていた。
「……明」
秋司が立ち上がり、明の前に膝をついた。
明の手をとる。指先は冷たく、それでも確かに命が通っている。
その手を強く握りながら、秋司が言った。
「俺、おまえと一緒に……これから生きていきたい」
俺はなにも言わずに頷いた。ずっと聞きたかった一言をやっと聞けた――そんな感慨深さが、俺の全身を心地よく包み込んでいた。
そして、俺はそっと秋司を抱き寄せた。ふたりの額がそっと触れ合ったまま、しばらくのあいだ、時間が止まっていた。秋司のぬくもりが、額越しに伝わってくる。それはとても温かくて、確かに秋司が生きていることを感じさせる。
アキが生きている――その確信は、俺の中にあった冷たいものを、ひとつひとつ溶かしていくようだった。
やがて秋司が、俺の胸元へ身を預ける。腕の中に静かにその身体を引き寄せ、慎重に秋司の唇へキスを落とした。
唇が触れた瞬間、秋司の細い肩はかすかに震えていたけれど、それは怯えや戸惑いではなく、心の深い場所が揺れているような震えだった。何度か、触れ合わせるだけのキスを交わし、俺たちは近づいたときと同じように、ゆっくりと唇を離した。
――本当は、もっとアキが欲しかった。
でもそれ以上を求めたら、壊れてしまう気がして。だから俺は、キスしかしなかった。それだけでも、幸せだった。
「……疲れただろ、アキ」
そう声をかけると、秋司はなにも言わず、小さく頷いた。俺の胸に耳を当てたまま、ゆっくりと呼吸のリズムを落としていく。安堵したように、目蓋を閉じて。数分もしないうちに、すうすうと寝息が聞こえ始めた。秋司の肩が小さく上下している。
眠っている。いつか見た日と、同じように……。でも、病院にいたときとは違い、今の秋司の顔は、穏やかだった。
眠ってしまった秋司の髪に、そっと指を滑らせる。無防備に目を閉じたその顔は、子供みたいだった。眉間の皺も、尖った口元も、すっかりほどけている。
こんなふうに隣で眠ってくれる日が、本当に来るなんて。ずっと夢の中にいたみたいだ。
俺は、ただ秋司を守りたかった。苦しみも、悲しみも、全部代わってやれるならそうしたかった。そのために、何度も無理をして、空回って、でも――どこかでずっと信じてた。この人を救えるのは、自分だけだと。そう思って、がむしゃらに走ってきた。
でも今、こうして秋司を抱きしめながら思う。
(もしかして、俺だけじゃなかったのかもしれない)
秋司も、俺のために泣いてくれた。手を取ってくれた。今、こうして俺の腕の中で眠っている。
好きだ、と。そう言ってくれた。
「……俺も同じくらい、おまえに愛されてる。そう思っていいのかな」
ひとりごとのように、声を落とす。誰にも聞かせるつもりなんてなかった。
けれど、眠っているはずの秋司が、俺の胸の中でふっと口元をゆるめた。それはまるで、肯定するかのような微笑みだった。なにも言わずとも、伝わるものがある。そんな確かな絆を、ようやく手にできた気がした。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでくる。茜色に染まった光が、俺たちの頬をやさしく撫でた。
長い夜が終わり、朝が来た。
ふたりで迎える、最初の朝だった。



