「このあいだ公開されたあの映画、見た?」
「見ましたよ。秋司先輩も好きそうな作風でした」
「あ、マジで?」
映画研究会の埃っぽい部室で、秋司が同学年の男とお喋りをしていた。二人はソファに並んで座り、とても親しげだ。
俺はその光景を、落ち着かない気持ちで眺めていた。
黒川悠人――俺と秋司が大学で入った映画サークルで、最初に「友人」と呼べる関係を築いた相手だ。
同学年だが一つ年下で、礼儀正しく、頭の回転が速い。たいていのことは、顔に出さずに飲み込む。
悪いやつではない。むしろ、秋司の「友達候補」としてこれ以上ないくらい適格な人間だった。
でも……黒川は、察しがよすぎた。
その“観察力”に、俺はずっと警戒心を抱いていた。秋司のことを、黒川は見すぎている。ただの友人のふりをしながら、あいつは秋司の脆さに気づいている。
――記憶の欠落、夜に起こる自殺衝動、それを止めるために自分がどれだけ奔走しているか、どこまでわかっているのかは知らない。けれど、黒川の目は、たまに俺たちの内側を射抜くように見てくるのだ。
――あいつ、アキが普通じゃないって、気づいてるんじゃないか。
最初にそう感じたのは、サークルで夜遅くまで作業していた帰り道、秋司がふと口をつぐんだときだった。
それまで笑っていた空気が、一瞬で凍った。秋司の足が止まり、目が宙をさまよう。
――発作の兆しだった。
俺はすぐに肩を抱いて、耳元で「アキ」と名前を呼んだ。その声で、秋司はかろうじて現実に留まり、俺を見つめ返すと、深呼吸しながら頷いた。
その一部始終を、黒川は見ていた。
「……秋司先輩、ちょっと疲れてるんじゃないですか?」
何気ないふうに、そう言った。けれどその瞳は、俺の動揺と、それを隠そうとする指先の震えまで、まるごと拾い上げていた。
ほかの友人たち――隼人、結菜、遥。
彼らは“わざと”選んだ。察しが悪く、空気を読みすぎない、あえて深く踏み込まない人たち。
それが、明にとって最も安全な人間関係だった。孤独にならないよう、適度な人数で、心優しい輪を作るための。
だけど、黒川は違う。
勝手に秋司に近づき、秋司に懐かれ、ある日には「覚えてないときの記憶って、いつか戻ったりするんですかね」と、わざとらしくも危うい地雷に足を踏みかけていた。
――やめろ。
秋司には、まだ話せない記憶がある。いま一気に思い出してしまえば、また崩れる。
「おまえ、なにが目的だよ」
ある日、我慢の限界が訪れた。俺はサークル室で秋司と黒川が楽しげに会話している場に割って入った。
いつものように、笑いながら無防備な顔をしている秋司の隣に、黒川が何食わぬ顔で座っていた。その距離が、目障りだった。秋司が誰かに笑いかける姿は、美しくて、でも見たくない。俺以外にそんな顔を向けてほしくなかった。
秋司から黒川をむりやり離して、黒川だけ空き教室に連れ込む。
中に入って扉を閉めると、黒川が俺の方を向いた。
「アキ先輩が、秋司先輩のこと好きだから……俺に嫉妬してるんですか?」
すごく静かな声だった。けれど教室の空気が、その一言を芯から震わせた。
「……え?」
思わず間抜けな声が出た。
次の瞬間、熱がばっと顔に昇ってくる。
――嫉妬? 俺が、黒川に? そんなつもりは……いや、してたのか……?
「……俺……おまえに嫉妬、してたのか」
小さく呟くように言ったその声に、自分で驚いた。
心の底でずっと感じていた違和感が、ようやく名前を与えられて浮かび上がった気がした。
秋司が誰かに取られるのが怖くて、秋司が誰かに懐くのが不快で、でもそれが好きという気持ちに基づいたものだと、どうしてか今まで自覚していなかった。
うなだれるようにして、黒川に向き直る。
「……ごめん。なんか、変に攻撃的な態度取ってた、よな……俺、気づいてなかっただけで……ほんとに、嫉妬してたみたい」
声が情けなく震えていた。
黒川はぽかんと目を丸くしたあと、ふっと息を漏らすように笑った。
「……そんな謝らないでくださいよ。別に、俺は構いませんよ」
「え?」
「むしろ、ちょっとほっとしました」
「……なんで」
「だって、あんまりにも秋司先輩のこと大事にしてるから……愛じゃなかったら、逆に怖いじゃないですか」
そう言って、冗談めかしたような微笑みを浮かべた。
けれど、そこに嘘はなかった。黒川の目は、探るようでいて、今はただまっすぐだった。
ようやくわかった。黒川は秋司を傷つけようとしているわけではなく、俺たちをただ心配していただけだった、と。
「うまくいくといいですね。……応援してますよ」
その言葉に肩の力が抜けて、曖昧に頷いた。
黒川のことは、今も完全に信用できたわけじゃない。
けれど、この日から少しだけ、距離が変わったのはたしかだった。
そしてそのことを――秋司はまだ知らなかった。
「見ましたよ。秋司先輩も好きそうな作風でした」
「あ、マジで?」
映画研究会の埃っぽい部室で、秋司が同学年の男とお喋りをしていた。二人はソファに並んで座り、とても親しげだ。
俺はその光景を、落ち着かない気持ちで眺めていた。
黒川悠人――俺と秋司が大学で入った映画サークルで、最初に「友人」と呼べる関係を築いた相手だ。
同学年だが一つ年下で、礼儀正しく、頭の回転が速い。たいていのことは、顔に出さずに飲み込む。
悪いやつではない。むしろ、秋司の「友達候補」としてこれ以上ないくらい適格な人間だった。
でも……黒川は、察しがよすぎた。
その“観察力”に、俺はずっと警戒心を抱いていた。秋司のことを、黒川は見すぎている。ただの友人のふりをしながら、あいつは秋司の脆さに気づいている。
――記憶の欠落、夜に起こる自殺衝動、それを止めるために自分がどれだけ奔走しているか、どこまでわかっているのかは知らない。けれど、黒川の目は、たまに俺たちの内側を射抜くように見てくるのだ。
――あいつ、アキが普通じゃないって、気づいてるんじゃないか。
最初にそう感じたのは、サークルで夜遅くまで作業していた帰り道、秋司がふと口をつぐんだときだった。
それまで笑っていた空気が、一瞬で凍った。秋司の足が止まり、目が宙をさまよう。
――発作の兆しだった。
俺はすぐに肩を抱いて、耳元で「アキ」と名前を呼んだ。その声で、秋司はかろうじて現実に留まり、俺を見つめ返すと、深呼吸しながら頷いた。
その一部始終を、黒川は見ていた。
「……秋司先輩、ちょっと疲れてるんじゃないですか?」
何気ないふうに、そう言った。けれどその瞳は、俺の動揺と、それを隠そうとする指先の震えまで、まるごと拾い上げていた。
ほかの友人たち――隼人、結菜、遥。
彼らは“わざと”選んだ。察しが悪く、空気を読みすぎない、あえて深く踏み込まない人たち。
それが、明にとって最も安全な人間関係だった。孤独にならないよう、適度な人数で、心優しい輪を作るための。
だけど、黒川は違う。
勝手に秋司に近づき、秋司に懐かれ、ある日には「覚えてないときの記憶って、いつか戻ったりするんですかね」と、わざとらしくも危うい地雷に足を踏みかけていた。
――やめろ。
秋司には、まだ話せない記憶がある。いま一気に思い出してしまえば、また崩れる。
「おまえ、なにが目的だよ」
ある日、我慢の限界が訪れた。俺はサークル室で秋司と黒川が楽しげに会話している場に割って入った。
いつものように、笑いながら無防備な顔をしている秋司の隣に、黒川が何食わぬ顔で座っていた。その距離が、目障りだった。秋司が誰かに笑いかける姿は、美しくて、でも見たくない。俺以外にそんな顔を向けてほしくなかった。
秋司から黒川をむりやり離して、黒川だけ空き教室に連れ込む。
中に入って扉を閉めると、黒川が俺の方を向いた。
「アキ先輩が、秋司先輩のこと好きだから……俺に嫉妬してるんですか?」
すごく静かな声だった。けれど教室の空気が、その一言を芯から震わせた。
「……え?」
思わず間抜けな声が出た。
次の瞬間、熱がばっと顔に昇ってくる。
――嫉妬? 俺が、黒川に? そんなつもりは……いや、してたのか……?
「……俺……おまえに嫉妬、してたのか」
小さく呟くように言ったその声に、自分で驚いた。
心の底でずっと感じていた違和感が、ようやく名前を与えられて浮かび上がった気がした。
秋司が誰かに取られるのが怖くて、秋司が誰かに懐くのが不快で、でもそれが好きという気持ちに基づいたものだと、どうしてか今まで自覚していなかった。
うなだれるようにして、黒川に向き直る。
「……ごめん。なんか、変に攻撃的な態度取ってた、よな……俺、気づいてなかっただけで……ほんとに、嫉妬してたみたい」
声が情けなく震えていた。
黒川はぽかんと目を丸くしたあと、ふっと息を漏らすように笑った。
「……そんな謝らないでくださいよ。別に、俺は構いませんよ」
「え?」
「むしろ、ちょっとほっとしました」
「……なんで」
「だって、あんまりにも秋司先輩のこと大事にしてるから……愛じゃなかったら、逆に怖いじゃないですか」
そう言って、冗談めかしたような微笑みを浮かべた。
けれど、そこに嘘はなかった。黒川の目は、探るようでいて、今はただまっすぐだった。
ようやくわかった。黒川は秋司を傷つけようとしているわけではなく、俺たちをただ心配していただけだった、と。
「うまくいくといいですね。……応援してますよ」
その言葉に肩の力が抜けて、曖昧に頷いた。
黒川のことは、今も完全に信用できたわけじゃない。
けれど、この日から少しだけ、距離が変わったのはたしかだった。
そしてそのことを――秋司はまだ知らなかった。



