部屋の窓を叩く雨音が、心臓の鼓動みたいに一定のリズムで続いている。しとしと、ぽつぽつ。うるさくもなく、静かでもなく。じわじわと染みてくるような、そんな雨が降っていた。
 そんな雨の日に限って、俺は倒れた。
 ――風邪、ひいちまったな。
 疲れが溜まっていた。体調を崩すのも時間の問題だと思っていたから、そう驚かない。二、三日大人しくしてたら治るだろう。
 玄関のチャイムが鳴っても、布団の中でうっすらと目を開けただけだった。体の節々が痛い。視界の端がぼやけて、声も出ない。
 立ち上がることすら億劫で、玄関まで行くのを諦めかけたそのとき。
「……鍵、開いてたぞ。いいのか、これ」
 聞き慣れた声が、廊下の向こうから届いた。
 秋司だった。
 俺はゆっくりと目を閉じた。ああ、最悪の姿を見られる。そう思いながらも、どこかでホッとしている自分がいた。
 ドアが静かに開く音がして、秋司の足音が近づいてくる。
「おまえ、マジで風邪ひいてんのかよ。電話も出なかったし、ずっと寝てた?」
 俺は小さく頷くだけで、喉の奥から声を出すことができなかった。熱に浮かされたような感覚の中、秋司が布団の縁に腰を下ろし、額に手を当ててくる。
 その手が、意外なほどに冷たくて、気持ちよかった。
「熱あるじゃん……」
 静かにそう呟いて、秋司は少しだけ眉を寄せた。
「明、寝てていいよ。おれがいるから」
 それは、あまりにも当たり前のように発せられた言葉だった。優しいとか、甘いとか、そういう類のものではない。ただそこに在ることが当然だというように。まるで、ずっと逆だった天秤がふいに入れ替わったような、そんな重みだった。
 明の喉の奥で、熱と一緒になにかが詰まった。
 ずっと、自分が守らなければと思っていた。秋司は壊れやすくて、透明で、油断すればすぐにどこかへ消えてしまう気がして。なにかに追いつめられている目をして、「死にたい」なんて平然と口にするあいつが怖くて、置いていかれたくなくて、ずっと手を伸ばし続けてきた。
 でも――。
 いま、自分の額に手を当ててくれているのは、秋司だ。
 あの、夜中に震えながら「消えたい」と呟いていた少年が、いまは自分のために水を汲み、冷えたタオルを用意し、体を気遣ってくれている。
 涙が浮かぶくらい、胸が切なく痛んだ。
 俺は、布団の中で片方の手をそっと握りしめた。無意識に、なにかを確かめるように。
「……うれしい、な……」
 かすれた声がようやく漏れた瞬間、頬を伝うものがあった。最初は熱で汗が出てきたのかと思ったが、違った。これは、涙だ。
 静かに俺は泣いた。
 声は出さなかった。だけど、涙は勝手に流れてきて止まらなかった。
「え……ちょ、おまえ……泣いてんのか?」
 秋司の戸惑った声に、首を横に振ることしかできない。
「だってさ……俺、いっつもおまえを守る側で、」
 言葉が詰まる。明は目元を腕で覆った。涙を見せるのが、ただ、恥ずかしかった。
「なのに、今日は……守ってもらってる……気がしてさ。ちゃんと、おれのこと見てくれてんだな、って……思ったら、もう……だめだった」
 秋司はそれ以上なにも言わなかった。ただ、しばらく黙って隣に座っていた。
 カーテン越しの灰色の世界に、雨の音だけがしみ込んでくる。二人を包む空気は、どこか心地よくて、泣き疲れて眠るにはちょうどいい温度だった。
 やがて、俺の手の中に、そっと別の手が滑り込んできた。
 秋司の指が、そっと絡んでくる。
「……おれも、いるからさ」
 ふたたび呟かれたその声は、今度はどこか、照れくさそうだった。
 明は目を閉じた。
 この人の傍にいたい。守りたい。でもそれ以上に、ちゃんと、自分も守られていたんだと知った。
 そしてなにより、この人は、もうとっくに自分を愛してくれていたんだと――やっと気づいた。
 どれくらい眠っていたのか、俺がうっすらと目を開けたとき、部屋にはほんのりとした湯気と、出汁の香りが漂っていた。
「……おかゆ?」
 かすれた声に、キッチンから顔を出した秋司が「起きた?」と小さく笑った。
「コンビニで買ってきたやつだけど。温めた。ほら、食えそう?」
 手には湯気の立つプラスチックの器。レンゲと、ついていたらしい薬味の小袋。秋司が真剣な表情でそれを持って、明の枕元までやってくる。
「口、開けろ。食えないなら、俺が食わせる」
 言いながらも、その頬はどこか緊張で強ばっていた。レンゲを持つ指先に力が入っていて、なんだか今にも割れそうだ。
 俺はふっと笑った。
「なんか、いつもと逆だなあ」
「うるせえ」
 秋司がむすっとしながら、レンゲにすくったおかゆをそっと差し出す。俺は口を開けて、それを受け取った。
 出汁のやさしい味が、弱った喉と胃に染み渡る。自然と、身体がほっとする。
「おいしい」
 素直にそう告げると、秋司はますます真面目な顔になって、またレンゲをすくい始めた。その横顔があまりに真剣で、まるで自分の一生がこれにかかっているみたいだったから、つい悪戯心が湧いてくる。
「なにその顔。受験勉強のときだって、そんな顔しなかったじゃん」
「だって……熱あるやつに食わせるの、初めてだし」
「そっか」
 短く返してから、秋司の頬に指を伸ばした。俺の指先が、秋司の頬をふにふにとつつく。
「ん? な、なに」
 ビクリと肩をすくめた秋司の顔が、みるみる赤くなっていく。目を泳がせて、唇を引き結びながら、レンゲを差し出した手までそわそわと震えている。
「かわいーなあ、おまえ」
「かわいくねーよ!」
「いや、照れてんじゃん。照れてる秋司、かわいいよなあ。付き合ったら毎日こんなことしてもらえんのか~、いいなあ、俺」
 からかい半分、本音半分でそう言うと、秋司は顔を真っ赤にしたまま、器を持つ手をぐいっと引っ込めた。
「な、なに言ってんだよ……! バカか⁉︎ はよ風邪治せ!」
 怒ってるのか、照れてるのか、秋司の声がひっくり返る。
 その姿がいじらしくて、いとおしくて、俺はおかゆを飲み込んだあと、緩く笑った。
「……ん。なおすよ」
 秋司の表情が、すこしだけ和らぐ。
 ぽつ、ぽつ、と窓を打つ雨音はまだ続いていたけれど。胸の中には、別の音が響いていた。優しい、愛おしい音。
 支えてきたつもりだった。守ってきたつもりだった。秋司の痛みをひとつでも減らしたくて、できることは全部してきた。けど、それだけじゃなかったんだ。
 こんなふうに、返ってくるものがある。差し出した手は、ちゃんと握り返される。
 それをたぶん、人は幸せって呼ぶんだろう。
「つらいことだけじゃないんだな」
 思わず口の中で呟いたその言葉が、自分でも驚くほど自然だった。
 秋司を支えることは、たしかにしんどいときもある。でもそれが、こんなふうにぬくもりとして返ってくるなら――それはきっと、苦労ではなくて、ただの“愛”なのだ。
 俺はゆっくりと目を閉じた。
 薬も飲んだし、秋司がそばにいる。熱に浮かされた頭でも、それだけははっきりわかった。
 いつの間にか握られていた手は、あたたかくて、どこまでもやさしかった。
 雨音の中で、静かに、眠りに落ちる。
 すべてを信じられるような、そんな夢の入り口で――。