大学の入学式は、春風の吹く穏やかな日だった。
あのときも、よく晴れていた。陽の光はどこまでも優しくて、まるで俺たちをこれから待ち受ける現実から目を逸らさせようとしているみたいだった。
秋司は新しく買ったスーツに身を包んでいた。ジャケットの袖からは白い手首がのぞいていて、それが妙に儚く見えた。本人は「緊張する」と呟いていたけど、頬はほんのり赤く染まっていて、小さな子供のようでかわいかった。
俺はその隣で、なにも言わずに歩いた。言葉にしようとしても、喉に躊躇いが引っかかるような感覚があって、結局なにも言えなかった。
大学生活が始まって、まず最初に気づいたのは、秋司が“普通”の人間を演じるのが想像以上にうまいということだった。
教室では控えめに笑って、話しかけられたら感じよく返す。目立たず、でも愛想は悪くない。教授にも好かれるタイプだ。表面だけを見ていれば、秋司はただの優等生だった。
……けれど、それは全部、ひとときの幻だった。
最初の頃は穏やかに見えた日々も、やがて秋司の中に巣くう闇が顔を出すようになった。
夜中、ふいに秋司がいなくなる。部屋の玄関が開く音。俺はベッドから飛び起きて、秋司の名前を叫びながら追いかける。
「アキ! どこ行くんだ、待てって!」
秋司はまるで誰かに導かれるように、表情もなく夜道を歩いていた。ときには靴を履いていないことさえあった。その姿は、夢遊病患者のようだった。
何度、死に場所を探すみたいに歩く秋司を止めたか分からない。手を掴んで、抱きしめて、何度も「生きてくれ」と懇願した。
本格的に授業が始まってからも、秋司の発作はたびたび起きた。突然トランス状態のようになって、夜の街を彷徨い歩く。無意識のうちに駅へ向かい、線路際に立ち尽くすこともあった。
俺は秋司のスマホにこっそり位置情報アプリを入れていたから、発作が起きるたびにそれを頼りに追いかけた。必死で、無我夢中で。どこまで行っても、俺の姿を見ても、秋司はなにも言わなかった。
俺が秋司を強く抱きしめて、「アキ」と名を呼ぶと、ようやく意識が戻る。そして、いつもの秋司に変わる。それが毎回の流れだった。秋司は大抵、彷徨中のことを覚えていなかった。
秋司には自分が病んでいる自覚はなかった。だから、医者にかかることも、薬を飲むことも、ぜんぶ俺が代理でやった。
診察の予約を取り、秋司にバレないように薬を仕入れ、毎日時間通りに飲ませた。「栄養サプリ」だと偽って。拒否されることもあったけど、そのたびに俺は、諦めずに言い聞かせた。
「これは、俺の安心のために飲んでくれ」って。
秋司の祖母との面会だって、簡単じゃなかった。祖母の機嫌が良さそうなときだけ秋司を連れて行き、少しでも様子がおかしいと感じたら、俺が一人で出向いて秋司の祖母の相手をした。そのうち、老人ホーム職員に俺が孫だと誤解されるようにもなった。
それに加えて、俺は秋司が部屋でなにかあったとき、すぐ駆けつけられるよう、こっそりペットカメラを仕掛けた。罪悪感はあった。でも、それでも、命には代えられなかった。
大学の講義、バイト、秋司の監視。薬の受け取り、診察の代理、秋司の祖母との面会の調整。俺の生活は、秋司のためだけに回っていた。
アルバイトのシフトは夜遅くまで続き、講義中はたびたび舟を漕いだ。けれど、そんなことで手を抜くつもりはなかった。誰にも言えない秘密を抱えたまま、俺は表面上は普通の大学生を演じた。秋司と同じように、笑顔の仮面を被って。
毎日のタスクはありえない量で、一日がたとえ五十時間あっても足りそうになかった。仕方ないので、俺は睡眠時間を削った。疲れ切って、限界ギリギリの毎日だった。
それでも、秋司に笑顔を向けられると、それだけで救われる気がした。ほんの一瞬でいい、秋司が「生きててよかった」って思ってくれるなら、俺はなんだってするのに――。
そんなある日。佐伯先生が言った。
「明くん……そろそろ、秋司くんを措置入院させたほうがいいんじゃないか」
俺は一瞬、耳を疑った。
「それは……アキが、もう限界ってことですか? 閉じ込めないといけないくらい?」
「限界なのは、きみのほうだよ。明くん。やつれ過ぎだ。まともに眠れてないんだろう」
きっと俺の疲弊は、他人の目から見れば限界に映っていたんだろう。
佐伯先生には「このままじゃ、明くんまで潰れる」とまで言われた。
でも俺は、即座に首を振った。
「俺は……アキを手放したくない。あいつの命を、他人に委ねるなんてできません」
「……本当にそう思ってるのかい?」
佐伯先生の問いかけに、俺は強くうなずいた。
「アキは、俺が救ってみせます。どれだけ時間がかかっても、絶対に」
気がつけば、そう言っていた。それが俺の決意であり、誓いだった。
自分をすり減らしてでも、秋司の心に少しずつ光を届けたい。秋司の人生を、過去を、未来を、ぜんぶ引き受ける。その覚悟を、俺は決めてしまっていたんだ。
――愛していた。どうしようもなく、狂おしいほどに。
秋司が壊れても、どれだけ遠くに行こうとしても、俺は何度でも引き戻す。それが、俺の生きる理由になっていた。
俺があいつの“生きる理由”になれるなら、俺の人生はそれで終わってもいいとさえ思ってた。
あのときも、よく晴れていた。陽の光はどこまでも優しくて、まるで俺たちをこれから待ち受ける現実から目を逸らさせようとしているみたいだった。
秋司は新しく買ったスーツに身を包んでいた。ジャケットの袖からは白い手首がのぞいていて、それが妙に儚く見えた。本人は「緊張する」と呟いていたけど、頬はほんのり赤く染まっていて、小さな子供のようでかわいかった。
俺はその隣で、なにも言わずに歩いた。言葉にしようとしても、喉に躊躇いが引っかかるような感覚があって、結局なにも言えなかった。
大学生活が始まって、まず最初に気づいたのは、秋司が“普通”の人間を演じるのが想像以上にうまいということだった。
教室では控えめに笑って、話しかけられたら感じよく返す。目立たず、でも愛想は悪くない。教授にも好かれるタイプだ。表面だけを見ていれば、秋司はただの優等生だった。
……けれど、それは全部、ひとときの幻だった。
最初の頃は穏やかに見えた日々も、やがて秋司の中に巣くう闇が顔を出すようになった。
夜中、ふいに秋司がいなくなる。部屋の玄関が開く音。俺はベッドから飛び起きて、秋司の名前を叫びながら追いかける。
「アキ! どこ行くんだ、待てって!」
秋司はまるで誰かに導かれるように、表情もなく夜道を歩いていた。ときには靴を履いていないことさえあった。その姿は、夢遊病患者のようだった。
何度、死に場所を探すみたいに歩く秋司を止めたか分からない。手を掴んで、抱きしめて、何度も「生きてくれ」と懇願した。
本格的に授業が始まってからも、秋司の発作はたびたび起きた。突然トランス状態のようになって、夜の街を彷徨い歩く。無意識のうちに駅へ向かい、線路際に立ち尽くすこともあった。
俺は秋司のスマホにこっそり位置情報アプリを入れていたから、発作が起きるたびにそれを頼りに追いかけた。必死で、無我夢中で。どこまで行っても、俺の姿を見ても、秋司はなにも言わなかった。
俺が秋司を強く抱きしめて、「アキ」と名を呼ぶと、ようやく意識が戻る。そして、いつもの秋司に変わる。それが毎回の流れだった。秋司は大抵、彷徨中のことを覚えていなかった。
秋司には自分が病んでいる自覚はなかった。だから、医者にかかることも、薬を飲むことも、ぜんぶ俺が代理でやった。
診察の予約を取り、秋司にバレないように薬を仕入れ、毎日時間通りに飲ませた。「栄養サプリ」だと偽って。拒否されることもあったけど、そのたびに俺は、諦めずに言い聞かせた。
「これは、俺の安心のために飲んでくれ」って。
秋司の祖母との面会だって、簡単じゃなかった。祖母の機嫌が良さそうなときだけ秋司を連れて行き、少しでも様子がおかしいと感じたら、俺が一人で出向いて秋司の祖母の相手をした。そのうち、老人ホーム職員に俺が孫だと誤解されるようにもなった。
それに加えて、俺は秋司が部屋でなにかあったとき、すぐ駆けつけられるよう、こっそりペットカメラを仕掛けた。罪悪感はあった。でも、それでも、命には代えられなかった。
大学の講義、バイト、秋司の監視。薬の受け取り、診察の代理、秋司の祖母との面会の調整。俺の生活は、秋司のためだけに回っていた。
アルバイトのシフトは夜遅くまで続き、講義中はたびたび舟を漕いだ。けれど、そんなことで手を抜くつもりはなかった。誰にも言えない秘密を抱えたまま、俺は表面上は普通の大学生を演じた。秋司と同じように、笑顔の仮面を被って。
毎日のタスクはありえない量で、一日がたとえ五十時間あっても足りそうになかった。仕方ないので、俺は睡眠時間を削った。疲れ切って、限界ギリギリの毎日だった。
それでも、秋司に笑顔を向けられると、それだけで救われる気がした。ほんの一瞬でいい、秋司が「生きててよかった」って思ってくれるなら、俺はなんだってするのに――。
そんなある日。佐伯先生が言った。
「明くん……そろそろ、秋司くんを措置入院させたほうがいいんじゃないか」
俺は一瞬、耳を疑った。
「それは……アキが、もう限界ってことですか? 閉じ込めないといけないくらい?」
「限界なのは、きみのほうだよ。明くん。やつれ過ぎだ。まともに眠れてないんだろう」
きっと俺の疲弊は、他人の目から見れば限界に映っていたんだろう。
佐伯先生には「このままじゃ、明くんまで潰れる」とまで言われた。
でも俺は、即座に首を振った。
「俺は……アキを手放したくない。あいつの命を、他人に委ねるなんてできません」
「……本当にそう思ってるのかい?」
佐伯先生の問いかけに、俺は強くうなずいた。
「アキは、俺が救ってみせます。どれだけ時間がかかっても、絶対に」
気がつけば、そう言っていた。それが俺の決意であり、誓いだった。
自分をすり減らしてでも、秋司の心に少しずつ光を届けたい。秋司の人生を、過去を、未来を、ぜんぶ引き受ける。その覚悟を、俺は決めてしまっていたんだ。
――愛していた。どうしようもなく、狂おしいほどに。
秋司が壊れても、どれだけ遠くに行こうとしても、俺は何度でも引き戻す。それが、俺の生きる理由になっていた。
俺があいつの“生きる理由”になれるなら、俺の人生はそれで終わってもいいとさえ思ってた。



