「おい、秋司(しゅうじ)。起きろって」
 肩を思い切り揺さぶられ、まどろみから引きずり上げられる。かすかに埃っぽい朝の匂いが鼻をかすめ、耳の奥で小鳥の声がにじんだ。カーテンの隙間から差し込む陽光が、じわりと頬をあたためる。
 重たいまぶたを何度か瞬かせ、ようやく目を開けると、見慣れた白い天井と、親友の顔がぼんやり映った。
 茶色の髪が、朝の光を弾いてきらりと光る。 明るい琥珀色の瞳が、少し心配そうに、俺の顔をのぞき込んでいた。純日本人なのに、パーツのはっきりした華やかな顔立ちが、眩しかった。
(うわっ……まだ夢でも見てんのかと思った)
 もう長い付き合いだ。そろそろ見慣れてもいいはずなのに、この男の顔は心臓に悪すぎる。
(あきら)……」
「いつまで寝てんだよ。今日は授業、一限からだろ」
 そう言って俺から布団を剥がしたのは、七年来の親友――如月明(きさらぎあきら)。中学からの腐れ縁だ。
「……てかなんで俺ん家にいんの?」
「じゃーん。合鍵をもらったんで」
「は? 誰に」
「おまえのばあちゃん」
 明は誇らしげに合鍵を見せびらかした。いつのまに。
「ばあちゃん、すげえ心配してたぜー? ろくに顔も見せないって」
「先週行ったばっかだっつーの」
「毎日でも見たいんでしょ、孫の顔は」
 祖母はさみしがっていると聞いて、ちくりと胸が痛んだ。祖父が他界してから、祖母は老人ホームでずっと一人だった。ほかに家族がいないから、俺はこの家で一人暮らしをしていたし、そう頻繁に見舞いへ行けない。一人でいるさみしさは、よくわかっているつもりだったのに。
 ――まあ、明がこうやってよく来るから一人暮らしって感じあんまりないけど。
 ふわっと欠伸をしてから、目の前に立つ明を押しのけた。ふと時計が目に入った。なんと、一限まであと三十分しかなかった。
「――遅刻する!」
 思わず叫び、床に落ちてた服を拾いあげる。横から「だから起こしてたのに」とぼやく明の声が聞こえてきた。
「ヤバイ、ヤバイ、早く行くぞ!」
「えっ、朝メシは?」
「食ってる暇ねえだろ!」
「おい、朝メシは食べないとダメだろ!」
 食事を抜いて玄関へ走ろうとしたが、明に強く腕を引かれて止められた。ぐんっと勢いよく身体が吹っ飛び、明の腕の中に納まる。
「だって時間ねえじゃん。朝抜いたくらいでダメってことはないっしょ」
「ダメだ。遅刻してもいいから食べろ。朝メシ食べないと、身長伸びないぞ!」
「俺ら大学生じゃん。もう伸びしろないだろ」
「いやいや、俺は去年から一センチ伸びたから!」
「……マジかよ?」
 去年まで自分と同じ身長だったくせに。俺と同じくらい、ガリガリのヒョロヒョロな身体してるくせに。
 こいつにだけ先を越されてたまるか、とダイニングの椅子に腰を下ろした。用意されていた朝食――明お手製のサンドウィッチだ――にかぶりつく。ハムの塩気とトマトの甘みがバランスよく嚙み合っていて、おいしかった。
「おいしい?」
 両手を頬に添え、にこにこと笑顔で聞いてくる明。悔しいがイケメンだった。少女漫画の住人かよ、と言ってやりたいが、勘弁してやることにした。朝食もわざわざ作ってもらったし。
「……お前が朝から甲斐甲斐しく男の世話するような奴って知ったら、女子たちはがっかりするだろうなー」
「は? 今どき料理できる男はプラスでしかないだろ。むしろさらにモテモテだわ」
「勝手に言ってろ」
 明は昔から、妙に女にモテた。
 派手な顔立ちと、軽やかな愛想。生まれつき人たらしの才能でも持っているみたいだった。
 別に、誰にでも優しいわけじゃない。気まぐれに話しかけ、笑いかける。たったそれだけで、明るい光に吸い寄せられるみたいに、人が集まってくる。
 けれど、どれだけ近づいても、手のひらの上に乗るだけで、心の奥までは誰も届かない。それに気づく女の子たちは、みんな決まって萎びた花のような、同じ顔をして去っていった。
 俺だけが、明の隣に居座り続けた。
「秋司」
「ん?」
 ふいに、明が俺の頬に手を伸ばした。
 指先が、そっと触れる。その瞬間、肌がびりっと痺れたような気がした。途端に身体が硬直する。けれど、明はおかまいなしに、親指で俺の頬をなぞった。
「……っ」
「食べかす、ついてた」
 そう言って、明は俺の口元についていたパンの欠片を、ぱくりと自分の口に運ぶ。
 男同士なんだ。しかも親友。なんてことのない、仕草なのに。鼓動がドクドクと高鳴って、呼吸が浅くなった。
「……バカだろ。おまえは俺の母親かっての」
 顔が熱くなるのをごまかすみたいに、乱暴な声を出した。それでも、明はただ楽しそうに笑っただけだった。そんな顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。まるで、明といるだけで、世界がやわらかくなるみたいだった。
 明の優しさは、溶ける前の淡雪みたいだ。手の上に載せられるとふわふわして、幸せな気持ちになる。でも、いつか消えてしまうんじゃないかって、怖くもなる。
「うーわ。マジで遅刻コースだ、これ」
 時計をもう一度見上げて、急いで着替えに取りかかる。春の終わりにしては、今日はずいぶんと暖かい。ジーンズに足を通し、Tシャツにパーカーを羽織る。
 腕を伸ばした瞬間、鈍い痛みが走った。
「いて……っ」
 右腕を押さえ、顔をしかめる。何かに打った覚えも、捻った覚えもない。だけど、二の腕のあたりがじんじんと痛む。寝ている間に掻きむしったのかもしれない。
「怪我したのか? 見せろ」
 明の眉がきゅっと寄る。声がわずかに強ばっていた。
「たいしたことないって」
 笑ってごまかすと、明はなおさら真剣な顔になる。
「ダメだ、ちゃんと治さないと」
「……おまえのほうこそ、怪我してんぞ」
「え? ああ。俺はいいんだよ、俺は」
 なんでもないように明は言い捨てた。
(なんだよ、それ)
 明の指と手首には、結構深い切り傷があった。料理したときに傷つけたんだろう。
 明にはこういうところがある。自分をおざなりにする、癖。
「これやるから、貼っとけって」
 救急箱から絆創膏を二枚取り出し、明に差し出した。自分を大事にしない明を見ていると、胸がやけに苦しかった。
「お、サンキュー」
 明は俺の心配なんてどこ吹く風で、ニカッと笑い、絆創膏を受け取った。
 それから家を出て、猛ダッシュし、電車に駆け込んだ。息切れしながら扉に反射した自分を見ると、寝癖が派手に跳ねていた。手ぐしでなんとか整えようとするが、あまり成果は上がらない。
「……ま、いいか」
 明は近づくなり、唐突に俺の前髪に手を伸ばした。
「寝癖、まだ残ってんぞ。ほら、じっとして」
 明の指先が額に触れる。ひんやりと冷たい温度に、ぴくりと肩が跳ねた。
「……おま、なんでいちいち触るんだよ」
 言葉にトゲを含ませたつもりだったが、明は全然気にした様子もなく、指先でそっと髪を撫でつけた。
「いーじゃん。親友だろ?」
 屈託ない笑顔。でも、その無防備な距離に、心臓が酷くうるさかった。
 こうやって大切にされると、誤解してしまいたくなる。
(やめろよ、バカ)
 心の中でだけ毒づいて、顔を逸らす。
 もし今、目を合わせたら、変な顔をしてしまいそうだった。