あの頃、俺たちは世界の果てにいた。誰にも届かない、声の凍る場所で、ただ二人きりで震えていたんだ。
『秋司って、漢字で“秋”って書くんだろ? 訓読みするとアキだから、俺とお揃いみたいだよな』
『秘密の暗号みたいに、二人でいるときだけアキって呼んでよ』
『いいな、それ』
名前も似ているし、アキ――秋司のことを、双子の片割れみたいに思っていた。誰よりも秋司を知っていると信じていたし、誰よりも秋司を守れると思っていた。
けど、それはおこがましい幻想だったのかもしれない。気づけば、秋司は俺の手の届かないところへ何度も何度も、落ちていった。俺は苦しむ秋司を見ているしかなかった。
――思い返すと、すべての始まりは高校三年の夏だった。
その年、秋司の祖母が痴呆症を発症した。秋司の祖母は、もともと過干渉気味な人だったけれど、それでも秋司はよく懐いていたし、秋司にとって唯一の家族だった。だから、祖母が老人ホームに入ると決まったとき、秋司はとても寂しそうだった。
「俺、なるべく通うからさ。ばあちゃんの好きなゼリーとか、買って持っていけば喜んでくれるかな」
そう言って笑った秋司の横顔が、やけに細く、頼りなく見えたのを覚えてる。俺は「じゃあ、俺も付き合うよ」と答えた。受験勉強の合間を縫って、週に一度か二度、二人で老人ホームに通った。
夏の間は、まだ平和だった。秋司の祖母はぼんやりしながらも秋司を笑顔で迎え、俺には「秋司のお友達なの、これからも孫をよろしくね」と言ってくれた。秋司はうれしそうだった。その笑顔を見るたびに、胸の奥が切なさで震えた。
……だけど、秋が深まり始めた頃だった。
秋司の祖母の症状が進行し、しばしば記憶の混濁が起きるようになった。ひどく怒りっぽくなり、周囲の人に「私の金を盗んだだろう」とあらぬ疑いをかけるようになっていた。
ある日、俺たちが彼女を訪ねたとき。秋司の祖母は目を細めて、秋司を睨んだ。
「……おまえのせいで、娘は死んだ」
その一言が、静かに地獄の口を開いた。
秋司の母親の話は、それまでほとんど聞いたことがなかった。中学の頃、母親が自殺で亡くなったという噂話を聞かされてはいたが、本人には聞いてはいけない空気があった。けれど、その日から秋司の祖母は、断片的に過去を語るようになった。ホームを訪れるたびに蓄積されていく、破片のような言葉の断面たち。そこから、秋司の母親がどういう人生を歩んだのか、俺にも少しずつ見えてきた。
秋司の母は若い頃、とても優秀な大学生だったそうだ。有名な難関大学に入学し、秋司の祖父母はおろか、住んでいる町民をあげてお祝いするほどの神童ぶりだったという。だが、大学入学後、彼女は付き合っていた男に騙されて妊娠し、人生を狂わされ、孤独と絶望のなかで秋司を産み、そして……自ら命を絶った。
「産ませなければよかった……あのとき、子どもを堕ろしていれば。きっといい会社に入って、今も元気に働いていたはずさ。あの子が死んだのは、あの子のせいじゃない。おまえのせいだよ、秋司……おまえさえいなければ……」
そんな言葉を、秋司の祖母は何度も何度も繰り返した。俺やホームの職員が止めても、秋司の祖母は積年の恨みを晴らすとばかりに、秋司を攻撃した。
秋司の表情が日に日にやつれていくのがわかった。俺は必死で言葉を尽くした。
「違う。アキは悪くない。子どもに罪があるわけないって、わかるよな? ぜんぶ、母親を騙した男が悪いんだ。おまえはなにも悪くない」
でも秋司は、小さく首を振るだけだった。
その頃からだ。秋司の身体のあちこちに、細かい傷が現れたのは。
最初は見なかったふりをしていた。「なんでそんなことをするんだ」なんて、思っても、とても言えなかった。けれど、放っておいたわけじゃない。また秋司が自分を傷つけているかもしれない――そんな予感に震えながら、ネットで「自傷癖 どう止めるか」と検索し続けた。俺は医者でもないし、カウンセラーでもない。ただ、あいつを好きなだけの、ひとりの高校生だった。
秋司の自傷行為はやがてエスカレートし、自殺未遂をするようになっていった。包丁を持ち出したこともあったし、冬の海に飛び込んだ夜もあった。そのたびに、俺は内臓の一部を人質にとられたような恐怖に襲われながらも、必死で秋司を抱きしめて、言葉をかけた。
「死ぬな。俺を置いていかないでくれ」
それでも——届かないときがあった。
高校三年の冬になった頃だった。あの日は、やけに静かな夜だった。小さな生き物たちも声を潜める中、秋司が家を出ていくのを見て、俺は不安になって後を追った。そして……。
秋司は、学校の屋上から飛び降りた。俺は助けようと手を伸ばしたが、指の隙間から秋司の袖口が滑り落ちていった。運よく校庭にあった植木に引っかかり、即死は免れたが、秋司の身体はあちこちが折れてあらぬ方向に曲がっていた。
「……生きて、アキ」
病院の白い天井を見上げながら、俺は初めて泣いた。誰もいない廊下で、声を殺して泣いた。何日もICUに入ったままの秋司。俺の世界は、あのとき、確かに崩れかけた。
『秋司って、漢字で“秋”って書くんだろ? 訓読みするとアキだから、俺とお揃いみたいだよな』
『秘密の暗号みたいに、二人でいるときだけアキって呼んでよ』
『いいな、それ』
名前も似ているし、アキ――秋司のことを、双子の片割れみたいに思っていた。誰よりも秋司を知っていると信じていたし、誰よりも秋司を守れると思っていた。
けど、それはおこがましい幻想だったのかもしれない。気づけば、秋司は俺の手の届かないところへ何度も何度も、落ちていった。俺は苦しむ秋司を見ているしかなかった。
――思い返すと、すべての始まりは高校三年の夏だった。
その年、秋司の祖母が痴呆症を発症した。秋司の祖母は、もともと過干渉気味な人だったけれど、それでも秋司はよく懐いていたし、秋司にとって唯一の家族だった。だから、祖母が老人ホームに入ると決まったとき、秋司はとても寂しそうだった。
「俺、なるべく通うからさ。ばあちゃんの好きなゼリーとか、買って持っていけば喜んでくれるかな」
そう言って笑った秋司の横顔が、やけに細く、頼りなく見えたのを覚えてる。俺は「じゃあ、俺も付き合うよ」と答えた。受験勉強の合間を縫って、週に一度か二度、二人で老人ホームに通った。
夏の間は、まだ平和だった。秋司の祖母はぼんやりしながらも秋司を笑顔で迎え、俺には「秋司のお友達なの、これからも孫をよろしくね」と言ってくれた。秋司はうれしそうだった。その笑顔を見るたびに、胸の奥が切なさで震えた。
……だけど、秋が深まり始めた頃だった。
秋司の祖母の症状が進行し、しばしば記憶の混濁が起きるようになった。ひどく怒りっぽくなり、周囲の人に「私の金を盗んだだろう」とあらぬ疑いをかけるようになっていた。
ある日、俺たちが彼女を訪ねたとき。秋司の祖母は目を細めて、秋司を睨んだ。
「……おまえのせいで、娘は死んだ」
その一言が、静かに地獄の口を開いた。
秋司の母親の話は、それまでほとんど聞いたことがなかった。中学の頃、母親が自殺で亡くなったという噂話を聞かされてはいたが、本人には聞いてはいけない空気があった。けれど、その日から秋司の祖母は、断片的に過去を語るようになった。ホームを訪れるたびに蓄積されていく、破片のような言葉の断面たち。そこから、秋司の母親がどういう人生を歩んだのか、俺にも少しずつ見えてきた。
秋司の母は若い頃、とても優秀な大学生だったそうだ。有名な難関大学に入学し、秋司の祖父母はおろか、住んでいる町民をあげてお祝いするほどの神童ぶりだったという。だが、大学入学後、彼女は付き合っていた男に騙されて妊娠し、人生を狂わされ、孤独と絶望のなかで秋司を産み、そして……自ら命を絶った。
「産ませなければよかった……あのとき、子どもを堕ろしていれば。きっといい会社に入って、今も元気に働いていたはずさ。あの子が死んだのは、あの子のせいじゃない。おまえのせいだよ、秋司……おまえさえいなければ……」
そんな言葉を、秋司の祖母は何度も何度も繰り返した。俺やホームの職員が止めても、秋司の祖母は積年の恨みを晴らすとばかりに、秋司を攻撃した。
秋司の表情が日に日にやつれていくのがわかった。俺は必死で言葉を尽くした。
「違う。アキは悪くない。子どもに罪があるわけないって、わかるよな? ぜんぶ、母親を騙した男が悪いんだ。おまえはなにも悪くない」
でも秋司は、小さく首を振るだけだった。
その頃からだ。秋司の身体のあちこちに、細かい傷が現れたのは。
最初は見なかったふりをしていた。「なんでそんなことをするんだ」なんて、思っても、とても言えなかった。けれど、放っておいたわけじゃない。また秋司が自分を傷つけているかもしれない――そんな予感に震えながら、ネットで「自傷癖 どう止めるか」と検索し続けた。俺は医者でもないし、カウンセラーでもない。ただ、あいつを好きなだけの、ひとりの高校生だった。
秋司の自傷行為はやがてエスカレートし、自殺未遂をするようになっていった。包丁を持ち出したこともあったし、冬の海に飛び込んだ夜もあった。そのたびに、俺は内臓の一部を人質にとられたような恐怖に襲われながらも、必死で秋司を抱きしめて、言葉をかけた。
「死ぬな。俺を置いていかないでくれ」
それでも——届かないときがあった。
高校三年の冬になった頃だった。あの日は、やけに静かな夜だった。小さな生き物たちも声を潜める中、秋司が家を出ていくのを見て、俺は不安になって後を追った。そして……。
秋司は、学校の屋上から飛び降りた。俺は助けようと手を伸ばしたが、指の隙間から秋司の袖口が滑り落ちていった。運よく校庭にあった植木に引っかかり、即死は免れたが、秋司の身体はあちこちが折れてあらぬ方向に曲がっていた。
「……生きて、アキ」
病院の白い天井を見上げながら、俺は初めて泣いた。誰もいない廊下で、声を殺して泣いた。何日もICUに入ったままの秋司。俺の世界は、あのとき、確かに崩れかけた。



