数日後。
 赤く染まりかけた空が、アスファルトに長く影を落とす。
 夕方の街は人も少なく、俺たちの足音だけが乾いたリズムで響いていた。
「今日さ、帰り寄り道してもいい?」
 明が俺の隣でぽつりと口にした。
「いいけど……どこ行くんだよ」
「ううん、ちょっとだけ、歩きたいだけ」
 そう言って、俺の手首を軽く引く。
 明って、こんなにしょっちゅう触れてくるタイプだったか? と、不思議に思った。
(いや、違う。昔からこうだった気もするけど――大学生になってから、急にもっと近くなったような……)
 ふと、視界の端に見覚えのある公園が見えた。屋根のついたベンチと、壊れかけた水道――その光景に、胸がきゅっと締めつけられた。名前のない感情が、喉までせり上がってくるようだった。
 そこに立った瞬間、胸がざわついた。わからないけど、ここを知っている――漠然と、そう感じた。
「……ここ、来たことあったっけ?」
「秋司が昔、連れてきてくれたんだよ。雨が降った日」
 雨――そう言われても、また、記憶が空っぽだった。
 いつの話だろう? なぜか、思い出せない。頭の奥に黒い靄がかかったように、記憶の映像が引っかかって出てこない。
「俺、そんなことしたっけ……」
「うん。中学の頃ね。傘持ってなくて、びしょ濡れで震えてた俺に、おまえが『風邪ひくだろ』って、強引にここに連れてきてさ」
「……俺が? 言ったか?」
 確かに俺が言いそうな言葉だった。
 明が俺の方を見つめる。その顔は穏やかで、優しげで……でも、その目にふと、一瞬だけ浮かんだ表情――それは、懇願に近かった。必死に、なにかを隠そうとしているような。と同時に、思い出してほしいと願ってもいるような……。
「……覚えてなくても、大丈夫だよ」
「え?」
「おまえが忘れても、俺がちゃんと覚えてる。だから、大丈夫」
 明の声は、相変わらず優しい。けど、心の奥を撫でられてるような感覚だった。怖いぐらいに断言されると、安心よりも、どこかで寒気がした。
 不意に視線を下ろすと、明の手が見えた。爪が食い込むように握られていた。
「――なあ、明。なんか変じゃねえか?」
「……変じゃないよ」
 すぐに返ってきたその言葉が、逆に不自然で。
 問いかける暇もなく、明はそっと俺の手を握ってきた。
 その手は温かくて、でも、どこか――祈るように震えていた。



   ***



 夜の部屋はしんと静まり返っていた。壁の時計の針が、かすかに秒を刻む音だけが耳に響く。
 俺は無意識のうちに引き出しを開けていた。脳のどこかで「なにかがおかしい」と、ずっと警鐘が鳴っていた。
 明のことだ。あいつの、笑っているのに笑っていないみたいな目。言葉を選ぶときの、一瞬の沈黙。忘れた記憶と、空白になっている時間。
 通帳を確認する。学生証も、処方薬の袋も。次々と手に取る指が、かすかに震えていた。
 そして、それは出てきた。
 俺の名前で処方された処方箋。でも薬は、ない。さらにその下から、明の診察記録。精神科の名が書かれている。
 心臓が、ひとつ強く打った。
(……明が?)
 明の言葉。忘れていた記憶の断片。そして、ふいに生じる“空白”。明が見せた違和感のある表情、カウンセリング記録、そして医者とのやり取り。
(明……本当に、病んでるのか……?)
 さらにスマホの通院履歴を遡る。何件も予約が入っていた。覚えがない。
 ――俺は医者に行ったことがあるのか? いや、それならなんで覚えていないんだ……?
 混乱しながらも、さらに探し物を続けると、カサリと指先で音が鳴った。
「……手紙……?」
 引き出しの奥から見つけた封筒には、俺の筆跡で《読んだらだめ》と書かれていた。なのに指が止まらない。震えながら封を裂いた。中から出てきたのは、一枚の手紙。整った、丁寧な文字で綴られていた。
『秋司へ。
 きみがこれを読むとき、きみはきっとまた苦しんでいると思う。だから先に伝えておく。……俺は、きみのぜんぶが好きだ――』
 全身の血の気が、サアッと、急速に引いていく。
 遺書だ、と思った。
 呼吸が荒くなる。目の焦点が合わないまま、俺は部屋を飛び出していた。
(明が、明が……もしも死んだら、どうしよう……俺は、どうすれば……)
 無我夢中で走りながら、視界が歪むたび目蓋をこする。
 失いかけて、初めて大切なものに気づく――そんなこと、自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。
 明のアパートに向かって足をひたすら動かす。肺からはゼエゼエと乾いた音が鳴り、太ももの筋肉は悲鳴を上げる。でも、立ち止まるわけにはいかなかった。
 明のアパートに着くと、明は突然現れた俺の姿に、目を丸くして驚いた。
「秋司⁉︎」
 ――生きてた。よかった。間に合ったんだ。
 明を目にしてまず、そう思った。うっかりその場で涙もこぼれ落ちそうだった。
「秋司……どうしたの? 顔、真っ青だよ」
 明の声が、現実に引き戻した。
「……これ。さっき読んだ。どういうことだよ、明?」
 震える手で手紙を差し出すと、明はゆっくりと目を伏せた。肩が小さく震えた。その仕草が、余計に怖かった。
「そっか。読んじゃったんだね……」
「明、どうしてだよ……! おまえ、死ぬ気だったんだろ!?」
 思わず怒鳴った声が、夜の静けさを破った。
 その瞬間だった。
 明が一歩、近づいてきたかと思うと、強く俺を抱きしめた。服越しに感じる体温。心音。細身のくせに、思ったより力のある腕が背中に回されていた。
「ごめん、ごめん……俺が、もっと早く言えてればよかったのに……」
「なんなんだよ、明……。俺、もうなにがなんだか、わかんねえよ。おまえ、なんの話をしてるんだよ」
 明は耳元で、静かにささやいた。
「……ぜんぶだよ。俺たちが出会った日から、今日までの、ぜんぶの話だ」
 呼吸が止まった。その声が、体の芯に染み込んでいく。優しくて、怖かった。
 明のはっきりしない言葉。それがなにを指し示すのか理解できなかった。だけど、いま俺がすべきことは一つだけだ。
 胸の奥から堰が切れたように、言葉があふれた。
「明。おまえが好きなんだ。だから、いなくならないで。俺を、生きる理由にしてくれ……」
 嗚咽混じりの声が夜に吸い込まれていった。
 明の手が、もっと強く俺を抱いた。