教室の窓際、光が差す席に腰かけながら、秋司はぼんやりと視線を外に向けていた。エアコンの風が勢いよく吹き付け、寒いほどだった。隣に座る明は、いつものようにノートを取りながら、ときおりこちらの様子を窺っていた。
「ねえ、秋司。こないだのレポート、どうだった?」
「……こないだ?」
結菜に問い返した自分の声が、わずかに遅れて聞こえた気がした。明がペンを止めてこちらを見る。
「先週出したやつ。あれ、締め切りぎりぎりだったじゃん。大丈夫だったの?」
先週。レポート……。
記憶を探るように脳内をさまよったが、そこだけぽっかりと空白ができていた。明確なイメージが浮かばない。
「……先週締め切りのレポートなんて、あったっけ?」
「え?」
結菜の顔に、はっきりと困惑が浮かぶ。
――あれ、俺そんなに変なこと言ったか?
俺はどうやら回答を間違えたらしい。講義室の空気が、やけに冷たく感じられた。気まずさに、指先から感覚が鈍っていく。
よくわからないが、この空気をどうにかしないと。その一心で、俺はすぐに笑って誤魔化そうとした。
「うそうそ、出したよ。結菜が写させてくれたやつだろ?」
だけど、結菜は俺の言葉にますます困惑したように、眉をひそめた。
「写させてないけど、私」
一瞬、ときが止まった。
「……え?」
声に出した自分の言葉が、誰の耳にも届いていないような気がした。
喉の奥で笑いがひっかかって、息が詰まった。声にならないまま、口だけが動いていた。
なんでそんな嘘をついたのか、自分でもわからない。ただ――みんなに「おかしい」と思われるのが怖かった。
「秋司、具合でも悪いの? 昨日のカラオケも結局来なかったし。風邪でもひいた?」
今度は遥が心配そうに尋ねてきた。その隣で、隼人も「どしたん?」と首を傾けている。
昨日――カラオケ?
またしても、覚えがない。あるべきところにぽっかりと穴が開いている。そんな気がした。
「……カラオケって、なに? 俺、誘われてないよな……?」
「なに言ってんの。グループトークでも言ったし、アキくんが直接、秋司にも声かけたって……」
「明が?」
遥の目が、見てはいけないものを見たように揺れる。
やばい、と汗がこめかみを伝った。どう見たって、今の俺は頭がおかしくなったやつだった。
俺は心臓の鼓動を押さえつけるように胸元を掴んだ。
(誘われた覚えなんてない。あいつがそんな話をしてきた記憶も……)
助けを求めるように、明へ視線を向けた。すると明は、困ったように微笑んだ。
「……あー、昨日、ね。こいつ、帰ってすぐ寝落ちしちゃってさ。俺もバイトに行かなきゃだったから、連絡できなかったんだ。ごめんな」
明の説明に、遥は「そうだったんだ」と安堵したように顔を緩めた。でも、俺の心はちっとも休まらなかった。だって、昨日寝落ちした事実も、メッセージも、記憶になかったから……。
ぼんやりと虚空を眺めていると、結菜がおずおずと声をかけてきた。
「秋司、ほんとに大丈夫? 最近、ちょっと疲れてない?」
「……大丈夫だよ」
なんとか笑ってみせた。だけど、心の奥にひやりと冷たい空洞ができたようだった。
俺の頭はどうしてしまったんだろう。
***
翌日の放課後、俺は教授に提出物を届けに行った帰り、ふと保健室の前を通りかかった。扉が少しだけ開いていて、中からかすかに人の話し声が聞こえてくる。
「……なにか変わったことはなかった? 最近、夜はちゃんと眠れてる?」
それは、カウンセリングの先生の声だった。優しいが、どこか探るような口調。
「大丈夫です。前よりはだいぶ、落ち着いてます」
返したのは――明の声だった。
思わず、足が止まる。
――どういうことだ? 明が、保健室でカウンセリングを受けてる?
「……そう。じゃあ、もし“あの記憶”がまた出てきたり、発作衝動が起きることがあれば、すぐに来て」
俺の心臓が、ドクン、と鳴った。
衝動? 記憶? まるで、精神科で扱うような話題だった。
「……もう、大丈夫です。もう前みたいな事故は起こさせません。俺が、頑張ればいいことですから」
明の声が、いつもより低く、張り詰めていた気がして――背中がぞわりと粟立った。
その直後。ガチャ、と扉が開いた。
「……秋司?」
目が合った。
一瞬、明の瞳の奥に、何か鋭いものが光った気がした。笑顔なのに、目だけが笑っていなかった。
「あ、いや、悪い。通りかかっただけで」
誤魔化すように笑って、その場を立ち去る。
けれど、胸の中には暗くて重いなにかが溜まっていく感覚が残ったままだった。
***
夜。ベッドの上で、スマホの画面を眺めていた。
保健室で見かけた明のことが、頭から離れない。
明るくて、誰よりもまっすぐで――俺を支えてくれた、ただ一人の存在。でも、今日のあれは……本当に“普通”か?
発作衝動、という言葉の嫌な響き。もしかして、自傷のことか? と思い至った。不吉な想像に、悪寒が走った。
でも、明にそんな様子は見受けられなかった……過去になにか、トラウマがあって、実は陰で苦しんでいた?
もしかして――明は、精神的に不安定なのか?
考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
あいつは俺に笑いかけてくれる。でも、俺は明の全部を知らない。
俺は明の存在に救われていた。救ってくれていた明のほうが、本当はギリギリで笑っていたんじゃないのか。
そして、ふと気づく。
なぜ、「明が壊れてしまうかもしれない」と考えるだけで、こんなにも喉が詰まるほど怖いんだろう。それは――自分の中で、あいつがもう“ただの親友”じゃないと知ってしまったから。ただの親友なら、心配はしても、こんなに怖くはならない。明の存在が、俺の心の中でどれだけ大きくなっているかを思い知る。
けれど。それと同時に、心の奥に、見て見ぬふりをしていた“もう一つの自分”がいた。
俺は、ずっと明と支え合って生きてきたつもりだった。でも、もしかしたら――本当は、俺のほうが壊れてるんじゃないか?
母が死んで、祖父が逝って、家族をなくしたあの日から、誰かに寄りかからないとまともでいられなかった俺のほうが――そのことに気づいたとき、胸の奥で小さく「カチリ」と何かが鳴った。
それは、扉の鍵がひとつ外れるような音だった。
「違う。救わないといけないのは……明だろ」
思わず口にしたその言葉は、どこか自分自身へ言い聞かせているようだった。
「ねえ、秋司。こないだのレポート、どうだった?」
「……こないだ?」
結菜に問い返した自分の声が、わずかに遅れて聞こえた気がした。明がペンを止めてこちらを見る。
「先週出したやつ。あれ、締め切りぎりぎりだったじゃん。大丈夫だったの?」
先週。レポート……。
記憶を探るように脳内をさまよったが、そこだけぽっかりと空白ができていた。明確なイメージが浮かばない。
「……先週締め切りのレポートなんて、あったっけ?」
「え?」
結菜の顔に、はっきりと困惑が浮かぶ。
――あれ、俺そんなに変なこと言ったか?
俺はどうやら回答を間違えたらしい。講義室の空気が、やけに冷たく感じられた。気まずさに、指先から感覚が鈍っていく。
よくわからないが、この空気をどうにかしないと。その一心で、俺はすぐに笑って誤魔化そうとした。
「うそうそ、出したよ。結菜が写させてくれたやつだろ?」
だけど、結菜は俺の言葉にますます困惑したように、眉をひそめた。
「写させてないけど、私」
一瞬、ときが止まった。
「……え?」
声に出した自分の言葉が、誰の耳にも届いていないような気がした。
喉の奥で笑いがひっかかって、息が詰まった。声にならないまま、口だけが動いていた。
なんでそんな嘘をついたのか、自分でもわからない。ただ――みんなに「おかしい」と思われるのが怖かった。
「秋司、具合でも悪いの? 昨日のカラオケも結局来なかったし。風邪でもひいた?」
今度は遥が心配そうに尋ねてきた。その隣で、隼人も「どしたん?」と首を傾けている。
昨日――カラオケ?
またしても、覚えがない。あるべきところにぽっかりと穴が開いている。そんな気がした。
「……カラオケって、なに? 俺、誘われてないよな……?」
「なに言ってんの。グループトークでも言ったし、アキくんが直接、秋司にも声かけたって……」
「明が?」
遥の目が、見てはいけないものを見たように揺れる。
やばい、と汗がこめかみを伝った。どう見たって、今の俺は頭がおかしくなったやつだった。
俺は心臓の鼓動を押さえつけるように胸元を掴んだ。
(誘われた覚えなんてない。あいつがそんな話をしてきた記憶も……)
助けを求めるように、明へ視線を向けた。すると明は、困ったように微笑んだ。
「……あー、昨日、ね。こいつ、帰ってすぐ寝落ちしちゃってさ。俺もバイトに行かなきゃだったから、連絡できなかったんだ。ごめんな」
明の説明に、遥は「そうだったんだ」と安堵したように顔を緩めた。でも、俺の心はちっとも休まらなかった。だって、昨日寝落ちした事実も、メッセージも、記憶になかったから……。
ぼんやりと虚空を眺めていると、結菜がおずおずと声をかけてきた。
「秋司、ほんとに大丈夫? 最近、ちょっと疲れてない?」
「……大丈夫だよ」
なんとか笑ってみせた。だけど、心の奥にひやりと冷たい空洞ができたようだった。
俺の頭はどうしてしまったんだろう。
***
翌日の放課後、俺は教授に提出物を届けに行った帰り、ふと保健室の前を通りかかった。扉が少しだけ開いていて、中からかすかに人の話し声が聞こえてくる。
「……なにか変わったことはなかった? 最近、夜はちゃんと眠れてる?」
それは、カウンセリングの先生の声だった。優しいが、どこか探るような口調。
「大丈夫です。前よりはだいぶ、落ち着いてます」
返したのは――明の声だった。
思わず、足が止まる。
――どういうことだ? 明が、保健室でカウンセリングを受けてる?
「……そう。じゃあ、もし“あの記憶”がまた出てきたり、発作衝動が起きることがあれば、すぐに来て」
俺の心臓が、ドクン、と鳴った。
衝動? 記憶? まるで、精神科で扱うような話題だった。
「……もう、大丈夫です。もう前みたいな事故は起こさせません。俺が、頑張ればいいことですから」
明の声が、いつもより低く、張り詰めていた気がして――背中がぞわりと粟立った。
その直後。ガチャ、と扉が開いた。
「……秋司?」
目が合った。
一瞬、明の瞳の奥に、何か鋭いものが光った気がした。笑顔なのに、目だけが笑っていなかった。
「あ、いや、悪い。通りかかっただけで」
誤魔化すように笑って、その場を立ち去る。
けれど、胸の中には暗くて重いなにかが溜まっていく感覚が残ったままだった。
***
夜。ベッドの上で、スマホの画面を眺めていた。
保健室で見かけた明のことが、頭から離れない。
明るくて、誰よりもまっすぐで――俺を支えてくれた、ただ一人の存在。でも、今日のあれは……本当に“普通”か?
発作衝動、という言葉の嫌な響き。もしかして、自傷のことか? と思い至った。不吉な想像に、悪寒が走った。
でも、明にそんな様子は見受けられなかった……過去になにか、トラウマがあって、実は陰で苦しんでいた?
もしかして――明は、精神的に不安定なのか?
考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
あいつは俺に笑いかけてくれる。でも、俺は明の全部を知らない。
俺は明の存在に救われていた。救ってくれていた明のほうが、本当はギリギリで笑っていたんじゃないのか。
そして、ふと気づく。
なぜ、「明が壊れてしまうかもしれない」と考えるだけで、こんなにも喉が詰まるほど怖いんだろう。それは――自分の中で、あいつがもう“ただの親友”じゃないと知ってしまったから。ただの親友なら、心配はしても、こんなに怖くはならない。明の存在が、俺の心の中でどれだけ大きくなっているかを思い知る。
けれど。それと同時に、心の奥に、見て見ぬふりをしていた“もう一つの自分”がいた。
俺は、ずっと明と支え合って生きてきたつもりだった。でも、もしかしたら――本当は、俺のほうが壊れてるんじゃないか?
母が死んで、祖父が逝って、家族をなくしたあの日から、誰かに寄りかからないとまともでいられなかった俺のほうが――そのことに気づいたとき、胸の奥で小さく「カチリ」と何かが鳴った。
それは、扉の鍵がひとつ外れるような音だった。
「違う。救わないといけないのは……明だろ」
思わず口にしたその言葉は、どこか自分自身へ言い聞かせているようだった。



