自分の気持ちを自覚してから、明の顔を見るだけで、心臓が跳ねるようになった。
 朝メシを一緒に食べるとき。大学で授業を受けているとき。友達の輪の中で、くだらない話をしているとき。ぜんぶ、これまでと変わらない日常のはずなのに、すべてがときめきで満ちていた。そこに明がいるだけで、体温は上がるし、俺は意味もなく笑った。
 今までと同じように肩が触れる距離で笑ってくれる明に対して、俺だけが変わってしまったような――少しさみしい疎外感も覚えていた。
 夏の始まりを感じさせる湿っぽい風が、肌をふわりと撫でていく。木陰のベンチに腰掛けていたのに、じっとりとした陽気に汗がにじんだ。通り過ぎる風だけが、体温を奪ってくれる。
 ベンチに座った俺の隣には、いつも通り明がいる。口元に浮かぶ笑みは相変わらず穏やかで、どこか気が緩んでいるようにも見えた。
 明の白いシャツの袖が、さっきから俺の腕にかすかに触れている。わざとなのか、たまたまなのか。じんわりと明の体温が隣から伝わってくる。たったそれだけで、頭の奥がじわじわ熱くなる。
「……秋司、顔赤いぞ。熱中症か?」
 明がふいに覗き込んできた。距離が近い。声がやけに優しいのが、さらに俺の気持ちを落ち着かなくさせた。
 ――やばい、まただ。また、俺だけ緊張してる。
 意識すればするほど、呼吸が浅くなった。
「ち、ちげーよ。……お前のせいだっつの」
「え?」
 冗談めかして言ったつもりなのに、明がきょとんと瞬きをする。少しして、ふわりと笑った。その笑みがまた、完璧でずるい。
 こいつ、こんなに優しかったっけ。こんなふうに笑ってくれたっけ。いつからだ? 明の仕草のひとつひとつが、こんなにも俺を振り回すようになったのは。明がいつもと同じだっていうなら、変わったのは俺のほうなのか。
 明は悪巧みする子供みたいにニヤリとして、俺の顔を覗き込んでくる。
「……俺のせいで顔赤いんだ?」
「冗談だって。あんまそこツッコむな」
 明は笑っている。けれど、唇の端には小さな迷いが残っていた。
「ふーん。……じゃあさ、今日だけ、俺の彼氏になってみてよ」
「はあ?」
 いきなりの言葉に、心臓が跳ねる音が頭の内側に響いた。
「試しに、だよ。どうせドキドキするなら、理由つけたほうが楽だろ?」
 明は目を細めて笑っているけれど、どこかさみしそうな色が滲んでいた。まるで、期待しないように、冗談の皮をかぶせているみたいに。
「お前な……そういうの、軽く言うもんじゃねえよ」
「軽くなんかない。俺は本気で言ってる。――なあ、一日だけ彼氏になってよ」
 もう一度繰り返されたその言葉に、今度はなにも返せなかった。じん、と胸の奥が熱くなる。ふざけているようで、どこか本気に聞こえてしまうその声音に、足元がふらつきそうになる。
 冗談のはずなのに、胸が苦しかった。
「……一日だけ、だぞ」
 絞り出すように了承すると、明がパッと顔を輝かせた。
「よっしゃ! じゃあ決まりな。さっそくデートに行こう」
「え、デート!? おい待てって、どこ行くんだよ?」
 こちらの驚きを華麗にスルーして、明は俺の手を引いて歩き出した。「着いてからのお楽しみだよ」なんて、言いながら……。



   ***



 明と俺がたどり着いたのは、都心から少し離れたところにあるカフェだった。
 そこは明がバイトしている有名チェーン店のようなものではなく、住宅街にひっそりとある「知る人ぞ知る」的な隠れ家系カフェ。絵本に出てくるようなあたたかみのある橙色と茶色の外観。重厚な木で作られた扉を開けると、丸みのある椅子とテーブルが目に入る。ふんわりと漂ってくるコーヒーと砂糖の香り。
 俺たちは、店の看板メニューだという、うず高く生クリームを巻かれたパフェとコーヒーを頼んだ。
 ――それから数分後。
「なあ、ちょっと遊ばね?」と明が言い出したのは、アイスコーヒーの氷がカランと音を立てたときだった。
「遊ぶって、なにして?」
「どっちが先に照れるかゲーム。ルールは簡単。相手を照れさせるようなことをするだけ。負けたほうが、ここの会計、おごりな」
 にやりとした顔が、なんだか悪いことを企んでいる子どもみたいで。断りたかったのに、なぜか頷いていた。
「よし、先攻は俺な」
 そう言うと明は、ぐっと身を乗り出して、俺の顎に指を添えてくる。反射的に背筋が跳ねた。
「秋司って、こうやって触るとすぐ顔赤くなるよなー」
 明は楽しそうに頬を緩めた。
 ――触ってくるなんて、反則だろ。
 やばい、と思ったそばから心臓が騒ぎ出す。落ち着かせようと深呼吸をしてみても、鼓動が喉元まで上がってくるのを、隠せない。
「くっそ、先に照れたの俺じゃねーし!」
「じゃあ次、秋司の番。ちゃんとやって」
 睨むように明を見たが、その目があまりにもまっすぐで、逆にひるんでしまう。
 もう一度深呼吸してから、俺はテーブルの下で、そっと明の指先に自分の指を絡めた。ゆっくりと、でも確実に。
 その瞬間、明がわずかに目を見開いたのを俺は見逃さなかった。
「……っ」
「はい、照れた。俺の勝ち」
「……卑怯だろ。いきなり手ぇ握るとか……」
 顔を伏せた明の耳が、真っ赤だった。少しいい気味だった。
 ゲームで負けた明は「次は絶対勝つ」と悔しげに呟いたが、どこか嬉しそうでもあった。
 そのまま時間は過ぎ、俺たちが頼んでいたパフェができあがり、店員が席まで運んできた。天を目指すようにして巻かれたド迫力の生クリームに「すげえ!」とはしゃぎ、何枚か写真を撮った。
 そして、いざ実食しようとした、そのとき――明が俺のパフェをじっと見つめて言った。
「秋司。そっちのパフェ、一口くれない?」
「おう。……って、おまえ、イチゴ嫌いじゃなかったか?」
「うん。でもさ……」
 一瞬、言葉を切る。
「秋司が食べさせてくれたら、食べられる気がする」
 そんな甘いことを、平然とした顔で言うのはやめてほしい。動揺して、スプーンを持つ手が震えた。
「……ほら、口あけろよ」
「あー」
「うまいか?」
「んー……うん、悪くないね。秋司も俺のやつ、一口食ってみる?」
「うん、じゃ、もらうわ」
 明の頼んだパフェはバナナパフェだ。密かに気になっていたので、提案に頷く。明のスプーンごと、差し出された一口を口に入れる。とびきり甘いクリームとバナナのうまみがいいバランスを奏でていて、けっこううまい。
「うん、うまいじゃん。なんか、このバナナ高級そうな味する」
「ほんと? よかったー」
 明はほっとした顔をしていたが、ふと、使ったのが自分のスプーンだったことに気づいたようで、目を丸くする。
「あ、ってかさ……今、俺たち間接キスしちゃった……な」
「……え」
 一瞬、空気が止まった。互いに手が止まり、視線が絡む。
 ――薄々気づいてたのに、なんではっきり言うんだよ?
 恥ずかしさで地面に埋まりたくなった。じわじわと、顔が熱くなっていく。明も同じだったらしく、目をそらして頬をかいていた。
「い、いいよ別に……今さら」
「お、おう。まあ、な。気にすることじゃ……ねーし?」
 気にしてるくせに。お互いそう思ってるのが、分かりすぎるほど分かった。
 カフェには客もまばらで、店内の空調が回る音だけがぼんやり響いている。心地よい沈黙のなかで、明がふいに口を開いた。
「なあ、さっきのゲームみたいにさ……今度は“好きなところ”を言い合わない?」
「はあ?」
「一個ずつ。照れたら負け、ってルールで」
 ほんと、今日はどうかしてる。そう思いつつ、断れなかった。明の言う「好きなところ」って、どういう意味なんだ。性格的に、褒め合うのが好きなタイプじゃなかったはずなのに。
「じゃあ……俺からいくな」
 明は少しだけ姿勢を正し、俺の目をまっすぐ見つめる。
「秋司の、笑ったときの目が好き。細くなって猫みたいになるやつ」
「……っ!」
 出だしから急所を突かれた。心臓がドクンと大きく跳ねる。
「照れた?」
「照れてねえ。つーか、そんなもんじゃ負けねえからな」
 そう言って強がりながらも、耳まで熱いのが分かる。
「……じゃあ、俺の番。お前の、声。落ち着く。……うるさいときはうざいけど」
「うざい言うな。でも……ありがとう」
 小さく笑った明の顔が、静けさの中でやけに優しく見えた。
「次。秋司の、まっすぐなところが好き。意地っ張りだけど、嘘つけないとこ」
「俺は……お前の、不器用だけど人のことちゃんと見てるとこ。あと、料理がうまいとこも」
「ふふ、だいぶ照れてるじゃん」
「うるせえ……お前も顔、赤いっつの」
 結局、勝敗なんてどうでもよくなっていた。ただ、お互いの「好き」が少しずつ積み重なっていく感覚に、胸がじんわりと温かくなっていた。
 家に帰ってきたのは、いつのまだったか。
 明かりを落としたままの部屋で、俺たちはソファに並んで座っていた。どちらともなく言葉をやめて、ただ静けさを共有していた。明の肩が、そっと俺の肩に寄りかかる。心臓が跳ねたけれど、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、あたたかさが俺を安心させてくれた。
「……なあ、ちょっとだけ、目つぶっててもいい?」
 明がぽつりと言った。見れば、目蓋の奥に滲んだ赤が、眠気を物語っている。
「いいけど……大丈夫か? 寝不足?」
「ちょっと最近、夜更かししすぎた。……秋司と話してたら、リラックスして眠くなってきたっぽい」
 そんなことを、なんでもないように言う。胸の奥がふっと浮いたように軽くなった。たったそれだけの言葉で。
「……バカじゃねえの。子どもかよ」
 悪態をつきながらも、口元がゆるんでしまうのを止められなかった。
 明は軽く笑って、俺の肩にもたれるように身を傾けてきた。シャツ越しに伝わる体温が、じんわりと熱を帯びてくる。
「ちょ、ちょっと待て。寝るにしても……なんで、こっちに寄ってくるんだよ……」
「んー……落ち着くから」
 囁くような声が、耳に残った。こいつ、無防備すぎる。無意識でそんなこと言うなって……。
 肩に預けられた重みが、やけに頼ってくれているように思えて、心臓の音がまた騒ぎ出す。見れば、まつげが震えるように微かに動いている。眠気に抗うような仕草が、どこか幼くて、つい目が離せなかった。
(……やばい、こいつの寝顔、近すぎだろ)
 ふと、明の頬にかかった前髪を指先で払ってみた。触れた瞬間、ふにゃりと眉がゆるんだ。
(……なんなんだよもう、こいつ)
 そのまま見つめていると、ふいに明が微笑んだように見えた。夢の中でも、こんな顔で笑うのか――そう思ったとたん、胸がひどく、痛くなった。
「……このまま、止まればいいのにな」
 明がぽつりと、夢みたいに呟いた。冗談にも本音にも聞こえる曖昧な声。
「止まるって……何が?」
「全部。時間とか、気持ちとか……」
 ぼやけた声に、ふと胸がざわついた。でも、それがなんなのか、うまく言葉にできなかった。かわりに、「……止まったら腹減るだろ」と間の抜けた返事をして、明を笑わせる。
 けれど笑ったのは一瞬で、明の表情はまた、どこか寂しげなものに戻っていた。
「秋司ってさ……いつも俺のこと、ちゃんと見てくれるよな」
「は?」
「誰かが俺のこと置いていっても、秋司は……俺を見捨てないって、思える」
「……当たり前だろ」
 何言ってんだ、こいつは。俺がどれだけ、お前のこと……。
 言葉にする前に、明が静かに目を伏せた。
「……そっか。よかった」
 ふいに、強い眠気が襲ってきた。今までの甘さとは違う、喉の奥に引っかかるような違和感。
 あれ、さっきまで元気だったのに。……なんで、こんなに、目蓋が重いんだ。
「なあ、明……」
 視界が、滲む。口の中が乾いて、声もうまく出なかった。ソファに深く沈み込む俺の肩を、明の手がやさしく支える。
 ――その手が、あまりにも慣れていたのが、妙に気になった。
「大丈夫。ちゃんと、俺がそばにいるから」
 明の声は、ひどく優しかった。まるで、何度も繰り返した台詞みたいに。
 その瞬間、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。なんでだ。なにか、変だ。
(……俺は、なにを忘れてる?)
 なにか大事なことを。とても大事なことを。
 答えが浮かぶ前に、意識がゆっくりと沈んでいった。