飲み会はお開きとなった。泥酔した先輩たちを介抱し、タクシーに順番に乗せる。同じ一年生たちに「お疲れ」と挨拶をしてから、いつものように明と二人で帰宅路についていた。
いつもと同じ坂、同じ道、同じ空の色。けれど、今夜は世界が少し違って見えた。
駅前のざわめきが遠のいていく。並んで歩く夜道。街灯の下、互いの影がぴたりと重なっていた。
無言が続いた。俺はそれを、やけに意識していた。いつもならどうってことない沈黙なのに、今夜は、明の息づかいすら気になってしまう。
「……なあ、明」
足元の小石を蹴飛ばしながら、俺は言った。
「ん?」
「……もし、さ。もしも、の話だけど……おまえが他の誰かと付き合うって言ったら、俺、きっと止めると思う」
明の足が、ふっと止まる。いつものおどけた笑顔が消える。驚いたような目で、俺を見ていた。
「……それって、どういう意味?」
「どうって、そのままの意味だけど。いや、わかんねえ。でも……」
自分でも、言葉を探しながら話していた。頭の中では、何度も「言うな」「やめとけ」と警告が鳴っている。でも、止まらなかった。
「明がほかの誰かを好きになったら、俺、たぶん……耐えられない」
それは、まるで子供みたいなわがままで。でも紛れもなく、本心だった。
明は、何かを堪えるようにして、唇を引き結んだ。
「……秋司」
「なに」
「そんなこと言われると、期待しちゃうよ。いいんだ? 期待しても」
ぽつりと落ちたその言葉は、冗談のふりをしていたけれど――目は、本気だった。
「いいよ」
「おい……」
「なんだよ、怖い顔して」
珍しく明が眉を寄せていたから、怒らせたのかと思った。けれど、明はすぐにいつもの優しい表情に戻った。
「……俺を翻弄して楽しいか? 秋司」
「そんなことしてねえし」
「してんだよ! ……どうなっても知らないからな」
明の脅し文句に、「こわっ」と笑う。すると、明は突然ぎゅうぎゅうと俺の身体を全力で抱き締めてきた。尋常じゃない腕の力だ。ぐっと胸を押し潰されて、息が止まりかけた。
「くっ、苦し……! ……っざけんなよ明、離せって!」
「やだ。これはお仕置きだから」
「ふざけんな!」
瘦せっぽちのどこにこんな怪力が潜んでいたんだ。俺は明に押し潰されそうになりながら、じたばたとその場で暴れた。
明の腕が俺の背中に回って、さらにぎゅっと締めつけられた。
「っ……う、うぉい、痛って……!」
抵抗しようとしたが、腕の力は強く、微動だにしない。心臓が、胸の中でぐしゃぐしゃにされているみたいだった。
「……もっと早くこうしておけば……どれだけ楽だったろうな……」
明の声が耳元で落ちる。どこか震えていた。
「なあ、秋司」
「……ん?」
「おまえ、覚悟しとけよ」
「は? なにが」
「おまえが俺にそう言ったんだから。期待、していいって。もう……引き返せないからな」
それきり、明はなにも言わなくなった。だけど俺は、黙って明の歩幅に合わせて歩いた。その沈黙が、なによりも、温かかった。
***
カーテンの隙間から、街灯の淡い光が差し込んでいた。月は見えない。俺の部屋の天井は、ただ黙って俺の吐く息を受け止めている。
気づけばもう、何時間もまばたきもせずに天井を見つめていた。時計の秒針の音が、やけに耳に響く。時間だけが律儀に前に進んでいる。
「……俺、調子に乗り過ぎかな」
誰にともなく、呟く。けど、それは確かに俺自身に向けた言葉だった。ベッドに仰向けになったまま、腕を額に乗せる。視界に、明かりのついていない天井が滲んだ。
「どうするつもりなんだよ、俺……。明にドキドキして、好かれてるかもって思い上がって……。これでぜんぶ勘違いだったらどうするよ……? バカみてえ」
自分で自分を責める声が、胸の奥で繰り返された。曖昧な態度で、あいつを惑わせて。優しくされるたびに、勝手に舞い上がって。結局、俺はまだなにも決められてないのに。
――でも、わかってる。
あの笑顔を見たときの、胸の痛み。名前を呼ばれた瞬間の、電流みたいな感覚。誰かと楽しそうにしているのを見たときの、喉の奥を締めつける焦り。
そんなの、ただの“友達”の感情じゃない。
「……俺、明のことが好きだったんだな」
口にした瞬間、息が止まった。耳が熱くなる。鼓動が、うるさい。指先がじわじわと冷たくなる。たったひとつの言葉が、こんなにも世界を変えてしまうなんて思ってもみなかった。
怖い。怖くてたまらない。でも。
「もう、友達のままじゃ無理だ。無視できないくらい、好きだから……」
心のどこかが、ふっと緩んだ。長いあいだ結ばれていた見えない紐が、するすると解けていくような感覚。認めたことで、少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
この気持ちに名前を与えた瞬間から、もう後戻りはできない。もう“知らないふり”は、できない。
明の笑顔の理由を、俺が作りたい。誰よりも近くで、あいつを笑わせていたい。
それは、友情なんかじゃない。
俺の中に巣食っていた“好き”という想いが、ようやく輪郭を持ちはじめていた。
いつもと同じ坂、同じ道、同じ空の色。けれど、今夜は世界が少し違って見えた。
駅前のざわめきが遠のいていく。並んで歩く夜道。街灯の下、互いの影がぴたりと重なっていた。
無言が続いた。俺はそれを、やけに意識していた。いつもならどうってことない沈黙なのに、今夜は、明の息づかいすら気になってしまう。
「……なあ、明」
足元の小石を蹴飛ばしながら、俺は言った。
「ん?」
「……もし、さ。もしも、の話だけど……おまえが他の誰かと付き合うって言ったら、俺、きっと止めると思う」
明の足が、ふっと止まる。いつものおどけた笑顔が消える。驚いたような目で、俺を見ていた。
「……それって、どういう意味?」
「どうって、そのままの意味だけど。いや、わかんねえ。でも……」
自分でも、言葉を探しながら話していた。頭の中では、何度も「言うな」「やめとけ」と警告が鳴っている。でも、止まらなかった。
「明がほかの誰かを好きになったら、俺、たぶん……耐えられない」
それは、まるで子供みたいなわがままで。でも紛れもなく、本心だった。
明は、何かを堪えるようにして、唇を引き結んだ。
「……秋司」
「なに」
「そんなこと言われると、期待しちゃうよ。いいんだ? 期待しても」
ぽつりと落ちたその言葉は、冗談のふりをしていたけれど――目は、本気だった。
「いいよ」
「おい……」
「なんだよ、怖い顔して」
珍しく明が眉を寄せていたから、怒らせたのかと思った。けれど、明はすぐにいつもの優しい表情に戻った。
「……俺を翻弄して楽しいか? 秋司」
「そんなことしてねえし」
「してんだよ! ……どうなっても知らないからな」
明の脅し文句に、「こわっ」と笑う。すると、明は突然ぎゅうぎゅうと俺の身体を全力で抱き締めてきた。尋常じゃない腕の力だ。ぐっと胸を押し潰されて、息が止まりかけた。
「くっ、苦し……! ……っざけんなよ明、離せって!」
「やだ。これはお仕置きだから」
「ふざけんな!」
瘦せっぽちのどこにこんな怪力が潜んでいたんだ。俺は明に押し潰されそうになりながら、じたばたとその場で暴れた。
明の腕が俺の背中に回って、さらにぎゅっと締めつけられた。
「っ……う、うぉい、痛って……!」
抵抗しようとしたが、腕の力は強く、微動だにしない。心臓が、胸の中でぐしゃぐしゃにされているみたいだった。
「……もっと早くこうしておけば……どれだけ楽だったろうな……」
明の声が耳元で落ちる。どこか震えていた。
「なあ、秋司」
「……ん?」
「おまえ、覚悟しとけよ」
「は? なにが」
「おまえが俺にそう言ったんだから。期待、していいって。もう……引き返せないからな」
それきり、明はなにも言わなくなった。だけど俺は、黙って明の歩幅に合わせて歩いた。その沈黙が、なによりも、温かかった。
***
カーテンの隙間から、街灯の淡い光が差し込んでいた。月は見えない。俺の部屋の天井は、ただ黙って俺の吐く息を受け止めている。
気づけばもう、何時間もまばたきもせずに天井を見つめていた。時計の秒針の音が、やけに耳に響く。時間だけが律儀に前に進んでいる。
「……俺、調子に乗り過ぎかな」
誰にともなく、呟く。けど、それは確かに俺自身に向けた言葉だった。ベッドに仰向けになったまま、腕を額に乗せる。視界に、明かりのついていない天井が滲んだ。
「どうするつもりなんだよ、俺……。明にドキドキして、好かれてるかもって思い上がって……。これでぜんぶ勘違いだったらどうするよ……? バカみてえ」
自分で自分を責める声が、胸の奥で繰り返された。曖昧な態度で、あいつを惑わせて。優しくされるたびに、勝手に舞い上がって。結局、俺はまだなにも決められてないのに。
――でも、わかってる。
あの笑顔を見たときの、胸の痛み。名前を呼ばれた瞬間の、電流みたいな感覚。誰かと楽しそうにしているのを見たときの、喉の奥を締めつける焦り。
そんなの、ただの“友達”の感情じゃない。
「……俺、明のことが好きだったんだな」
口にした瞬間、息が止まった。耳が熱くなる。鼓動が、うるさい。指先がじわじわと冷たくなる。たったひとつの言葉が、こんなにも世界を変えてしまうなんて思ってもみなかった。
怖い。怖くてたまらない。でも。
「もう、友達のままじゃ無理だ。無視できないくらい、好きだから……」
心のどこかが、ふっと緩んだ。長いあいだ結ばれていた見えない紐が、するすると解けていくような感覚。認めたことで、少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
この気持ちに名前を与えた瞬間から、もう後戻りはできない。もう“知らないふり”は、できない。
明の笑顔の理由を、俺が作りたい。誰よりも近くで、あいつを笑わせていたい。
それは、友情なんかじゃない。
俺の中に巣食っていた“好き”という想いが、ようやく輪郭を持ちはじめていた。



