「初恋はいつ? 相手はどんな人だった?」
 先輩の声に、ハッと意識が戻った。飲み会も終盤。今は恋愛トークに花を咲かせているところらしかった。
 先輩に話しかけられた明は、言い渋るように「うーん……」と唸りをあげる。それから、ちらりと横目で俺を見たかと思うと、「ちゃんとした初恋は、高校生のときです」と答えた。
 ――高校生のとき。
 脳裏に、今でも忘れられない瞬間の映像が蘇る。
 高校二年生の文化祭。俺と明のクラスは劇をやることになった。配役が決まらず、押し付け合いの末、なぜか明が主役、俺はヒロイン役にされた。
 ヒロインは女装だった。ただの演劇では面白くない、男子が女装してヒロインを演じることで革新的な演出になるはず――そんなクラスメイトたちの意見に押された結果だった。抵抗はあったが、周囲の盛り上がりに拒否できる空気はなかった。
 そして、この劇には大きな問題が一つあった。台本に一か所だけ、キスシーンがあったのだ。
「……なあ、これって、本当にやんなきゃダメなのか?」
「んー、どうする?」
「角度つけてさ、してるフリだけでじゅうぶんじゃね」
「そっか」
 明は、少しさみしそうに笑った。そのときは、「演技とはいえ、明のやつ、文化祭に本気出し過ぎだろ」と思っていた。
 舞台前日になると、照明テストまで終えた。体育館の裏手、仮設の控室に明と二人で残っていた。
「キスシーンやんの、気が重いんだけど」
「俺はやりたいけどな」
「は?」
 明は台本の端をくしゃっと折りながら、笑うでもなく言った。
「こういうの、一生に一度くらいあってもいいじゃん」
 冗談っぽく言うその声が、やけに静かだった。
「……バカじゃねえの」
 俺は笑いながら、でも胸の奥がざわついていた。
 もしあいつが「役」じゃなくて「明」として、俺にキスしようとしていたら? 
 そんなこと、考えたくはないのに。頭が勝手に疑いで模様を描き始めて、俺を混乱させた。
 ――そして、訪れた本番。体育館の照明が落ち、スポットライトの下に立った瞬間、場違いなほどの静寂が広がった。汗ばんだ手のひらで、ドレスの裾を握りしめる。ざわつく客席の気配も、明の視線の熱さにかき消された。
 俺たちは問題のシーン前までは、何事もなく演じた。
 例のキスシーン――顔を傾けて、それっぽく見せる予定だったのに。明は止まらなかった。
 観客たちが驚いて歓声を上げる中、明の顔がゆっくりと俺目掛けて近づいてくる。明の長い睫毛が間近に迫る。
(あ、明……なに考えてんだよ!?)
 俺は客席には見えないよう、必死で「やめろ」と唇を動かしたが、明はそれでも無言で近づいてきた。俺と明の鼻がこつんとぶつかり、お互いの呼吸を感じた、そのとき。
「……ごめん」
「は……? え?」
 息を呑むような間が過ぎ去ったあと。明は予定通りキスのフリをして、そっと俺から離れていった。
 俺の心臓は、ばくばくと跳ねたまま、口を開けなかった。だって、明の顔が、近すぎた。たぶん今までで一番近かった。
 あのとき――もしキスしていたら、俺たちの関係が変わっていたのかもしれない。
 演劇が最後まで終わってから、俺は明に、冗談めかして聞いた。動揺と、恥ずかしさを隠すために明るく振る舞ったものの、緊張して声が少し上擦った。
「おまえ、キスする気だったろ。でもなんで直前で止めたんだよ。ほっぺにキスくらいだったら、俺も許してやったのに。ビビったのか?」
 明は少しだけ目を伏せて、笑いながら言った。
「違うよ。俺が本気になりそうだったから」
「……は?」
「冗談だよ」
 そう言って、明は笑っていた。でも、その目の奥に、なにかが沈んでいた。たとえば、手を伸ばしても届かないなにかを諦めるときの顔。俺はそれ以上、なにも言えなかった。
 そして――教室で衣装を着替えていたとき。俺はなんとなく明に声をかけた。
「なあ、明」
「んー?」
「おまえ、進路希望どうすんの?」
「進路?」
「うん。もうそろそろ進路希望票、出さなきゃだろ?」
「あー……そうだな」
 明は俺の方をちらりと見てから、おもむろに肩に手を回してきた。
「……秋司のそばにいたいな」
「は?」
「いや、冗談。ちゃんと考えてるよ」
 冗談に聞こえなかった。けれど俺は、笑ってごまかした。明は少しだけ目を伏せて、それからぽつりと、言った。
「俺さ、いつか……おまえにちゃんと言いたいことがあるんだ」
「なんだよ、急に」
 そのとき、なぜか心臓が跳ねた。言われる前から分かっていたような、でも、聞きたくなかったような。心が、変な衝動に襲われる。
 明は俺の目を真っ直ぐに見て、なにかを伝えようとした。
「俺、秋司のこと――」
「……!」
 けれどその瞬間、教室のドアが開いた。
「あ、いたいた! 高瀬、先生が呼んでたよ!」
 呼びかける声に、俺は過敏に反応して立ち上がった。
「悪い。行ってくる」
 背後の明がなにか言いかけた気がしたが、俺は振り返らなかった。
 ――あのとき俺は、逃げたんだ。
 その夜、布団の中で目を閉じても、明のあの言葉の続きを想像してしまっていた。
『俺、秋司のこと――』
 なにかとても大事なことを言いかけていた、明の声。真剣な目。ふざけた様子の欠片もなかった。
 なのに、俺は──逃げた。怖かったからだ。もしそれを聞いてしまったら、もう今までの関係には戻れない気がした。
 俺たちは“親友”だ。それ以上にも、それ以下にも、なってはいけない――そう決めつけていたのは、ほかでもない俺自身だった。俺には愛する権利も、愛される権利もないと思っていたから。
 けれど今、その記憶が胸に突き刺さる。
 思い出せば思い出すほど、明の想いが、ずっと俺のそばにあったことを気づかされる。あいつがどんな気持ちでいたんだろうと考えると、胸がずきりと痛む。
 あいつはずっと、俺に言おうとしていた。何度も、何度も。それなのに俺は、その気持ちを受け止める勇気がなかったんだ。