ゲーセンを後にした俺たちは、夕暮れが滲むキャンパスを歩いて、映画研究会のサークル室に立ち寄った。
大学の校舎の裏手にひっそりと佇むサークル棟。その一角にある映画研究会の部室に、明と肩を並べて入った。ドアを開けた途端、ふわりと埃とコーヒーと古いフィルムの匂いが鼻をくすぐる。狭く雑然とした空間。壁一面に貼られた映画のポスター、古びたソファとパイプ椅子。時間が止まったような部屋だった。
「おっ、アキくん! 秋司くんも来たんだ」
先に来ていた部員が手を上げる。
映画研究会――通称えいけん。幽霊部員歓迎サークル。活動も緩やかで、学年もバラバラなメンバーが自由気ままに集まる場所だ。秋司がここにいるのは、他でもない明にむりやり引っ張られたからで。最初は断ろうとしたものの、明が珍しく「一緒に入ってほしい」と言ったから、断れなかった。
明は先輩部員に呼ばれて、なにやら最近の映画について話している。
ソファに腰を下ろすと、隣に見知った顔が座った。黒川悠人――同じ一年で、何かと気が合う。口数は少ないが、年齢が一つ上というだけで俺に敬語で話しかけてくるような、律儀で礼儀正しい男だ。
「アキ先輩って、ときどき……人が変わったみたいに怖い顔しますよね」
ふいに、黒川がぽつりと呟いた。
その瞬間、差し入れのお菓子を掴もうとしていた手が、空中で固まる。
「……え?」
思わず、問い返す。
黒川は少しだけ目を泳がせたあと、眉を寄せて真面目な顔で言った。
「なんか、たまにですけど。人を見透かすみたいな……鳥肌立つくらい、鋭い目をすることがあるっていうか」
それに被せるように、女子の美波先輩がケラケラと笑った。
「あー、わかるかもー。アキくんってさー、たまにめっちゃ鋭い目で人見るときあるよね。こう、刺すような……」
笑い混じりの軽口。でも、俺の頭には違うものが浮かんだ。
ときおり起きた違和感。胸の奥を小さな手が掻き回すような、鈍いざわめき。
(やっぱり、俺だけじゃないんだ。明がおかしいって思ったの)
脳裏をかすめたのは、このまえ見かけたメッセージ。
――また、やったのか。
その文章の意味。そして謎の送り主。どちらもまだ答えがわからないままだ。
(……明。おまえ、なにを隠してる?)
そんな疑念だけが、声にならずに胸の底へ沈んでいく。
俺はさりげなく視線を動かした。明は、少し離れた本棚の前で、雑誌を手に取っていた。けれど、どこか所在なくページをめくる指が止まっていた。顔を上げた明と、視線がぶつかる。
その瞬間、明の瞳の奥に、一瞬だけ影が差した気がした。
――それに気づけるのは、たぶん、俺だけだ。
明は、もしかして本当になにかに苦しんでいるのかもしれない。自分でも意外なほどに静かにそう思った。
「まあ、明は変人だからな。俺も人のこと言えねーけど」
乾いた笑いを混ぜてそう言ってみせる。けれど心のどこかで、引っかかりは消えなかった。黒川が見た“明の異常性”とはなんだったのか。言葉にできない疑問が、胸の奥で燻る。
そのときだった。
ぬるりと空気を裂いて、明の影が現れた。
「……楽しそうだったね」
笑っていた。けれど、その目だけがまるで熱を持っていなかった。
「黒川くん」
明が、冷たく言葉を切った。
「きみ、秋司のこと好きなの?」
空気が凍る。黒川は、目を丸くして慌てたように言った。
「はい? いや、そんな、先輩とは普通に――」
「へえ。じゃあ、そんなに話しかけないでくれる?」
その声音は、静かで、それゆえに鋭かった。氷の刃のように、淡々と相手を切り裂く。
黒川が戸惑いながら席を立つと、俺は思わず舌打ちした。
「おまえ、ガキの嫉妬かよ」
苛立ち半分、呆れ半分で口にした。黒川は数少ない、明を介さないで仲良くなった友達なのに。
けれど明は顔を背け、「……違うよ」とだけ呟いた。
部室を出る頃には、夕焼けが街を赤く染めていた。空に浮かぶ雲の端が、茜に滲む。コンクリートの壁が柔らかく光を反射して、季節の輪郭をにじませている。
駅まで続く坂道を、明と肩を並べて歩いた。足元に長く影が伸び、背後から差す夕焼けが、まるでなにかを急かすように俺たちの背を押していた。
淡い茜が街を包む。建物の輪郭が少しずつ溶けていく中で、小さく呟いた。
「今日みたいな日が、ずっと続けばいいのにな」
足を止めたのは明の方だった。少しだけうつむいて、小さく問う。
「……そんなに、黒川が好きなの?」
「バカ言うなよ」
俺は肩をすくめて、明の肩に軽く手を置いた。
「今日の明は、ちょっと変だったな。らしくなかった」
「そう?」
明が振り返る。顔には微笑みが浮かんでいたが、瞳だけはどこか遠くを見ていた。
「……でもさ、秋司。今日は、俺もずっと心が静かだったんだ。……おまえが、笑ってたからかな」
その声には、不思議なほどの安堵と哀しみが入り混じっていた。まるで、なにかを諦めた人間のような。あるいは、たったひとつの救いを手に入れた人間のような。
穏やかなのに、あんまりさみしそうだから。俺は明の腕を引いた。そして、そっと抱きしめた。心臓の鼓動が重なる距離。
誰かを慰めるなんて、柄じゃない。でも今は、それしか思いつかなかった。
「明。おまえは俺の光だよ」
らしくないキザな台詞に、顔が熱くなる。
「……は?」
俺の言葉に、明は呆然として聞き返す。けれど明は、それ以上なにも言わなかった。
明の横顔。黒川と話していたときはすべてを拒絶するようだった目が、今はどこか穏やかで。
(もしかして、明は俺のことを……? いやいや、やめろ。考えんなって)
そんな疑念が、俺の胸を静かに波立たせた。
頬を撫でる風が、やけにぬるく感じる。
明がゆっくりと手を伸ばして、俺の手を繋ぐ。
「わっ、なんだよ」
「……あったかい」
「いや、そんな寒い季節でもねーだろ」
明が猫のように頬を寄せてくる。その柔らかな動作に、戸惑いながらも抵抗しなかった。むしろ、ふいに抱きしめ返したくなる衝動すらあった。
(……こいつ、こんな顔すんだな)
目を細めて、微かに息を抜く。明の表情は、今まで見たどのときよりも穏やかで、安心しきっていた。まるで、すべてを預けても大丈夫だと信じているような目。
心が、温かく満たされる――その一方で、妙な胸騒ぎが疼いた。
ふと、明が顔を上げ、じっとこっちを見つめる。
「秋司」
「ん?」
「……ぜったい、俺より先にいなくなるなよ」
さらりとした口調だった。けれど、その声の奥にあった感情は、あまりにも切実すぎて、俺は言葉を失った。
「なんだよ、それ……」
ふざけた冗談かと思った。けれど、明の目は笑っていなかった。夜の帳が落ちる一歩手前の空の色と重なるように、深くて、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
――なんで、そんな顔するんだよ?
明はなにかを諦めたような、投げ出したような、そんな表情をしていた。
(まるで、自分がいなくなるのは当然、みたいな――)
その先を考えるのが怖くて、目を逸らす。
明がふっと微笑んだ。
「……冗談だよ」
嘘だった。あれは、冗談の顔じゃない。
でも、わざと軽く笑ってみせた。
「バーカ。心配性のおかんめ」
俺の言葉に、明も笑った。いつも通りのやわらかな笑顔。けれど心には、ぬぐえない影がじわじわと広がっていった。
帰宅後、夜になっても、俺はどこか落ち着かずにいた。部屋の明かりを落とし、カーテン越しに外を見下ろす。
ふと――視線が絡んだ。
街灯の光の中、マンションの下から、明がこちらを見上げていた。まるで、なにかを確かめるように。あるいは、見守るように。
ゆっくりと手を振ると、明は一拍遅れて笑い、同じように手を振り返した。その笑顔は優しかった。だからこそ、胸の奥がじくりと痛んだ。
窓を開けて、明に聞こえるよう声を張り上げる。
「そこでなにしてんだよ、明ー!」
「野暮用で近く寄ったからさ、おまえが起きてないか見てた」
「なんだそれ。電話しろよ!」
「それもそうだな」
明は、今の今までスマホの存在に忘れていたかのように、ひょうきんな顔をして笑った。
――なあ、明。おまえ、なんで苦しんでるんだ……?
最後まで言葉にならなかった問いが、夜風に溶けていった。
大学の校舎の裏手にひっそりと佇むサークル棟。その一角にある映画研究会の部室に、明と肩を並べて入った。ドアを開けた途端、ふわりと埃とコーヒーと古いフィルムの匂いが鼻をくすぐる。狭く雑然とした空間。壁一面に貼られた映画のポスター、古びたソファとパイプ椅子。時間が止まったような部屋だった。
「おっ、アキくん! 秋司くんも来たんだ」
先に来ていた部員が手を上げる。
映画研究会――通称えいけん。幽霊部員歓迎サークル。活動も緩やかで、学年もバラバラなメンバーが自由気ままに集まる場所だ。秋司がここにいるのは、他でもない明にむりやり引っ張られたからで。最初は断ろうとしたものの、明が珍しく「一緒に入ってほしい」と言ったから、断れなかった。
明は先輩部員に呼ばれて、なにやら最近の映画について話している。
ソファに腰を下ろすと、隣に見知った顔が座った。黒川悠人――同じ一年で、何かと気が合う。口数は少ないが、年齢が一つ上というだけで俺に敬語で話しかけてくるような、律儀で礼儀正しい男だ。
「アキ先輩って、ときどき……人が変わったみたいに怖い顔しますよね」
ふいに、黒川がぽつりと呟いた。
その瞬間、差し入れのお菓子を掴もうとしていた手が、空中で固まる。
「……え?」
思わず、問い返す。
黒川は少しだけ目を泳がせたあと、眉を寄せて真面目な顔で言った。
「なんか、たまにですけど。人を見透かすみたいな……鳥肌立つくらい、鋭い目をすることがあるっていうか」
それに被せるように、女子の美波先輩がケラケラと笑った。
「あー、わかるかもー。アキくんってさー、たまにめっちゃ鋭い目で人見るときあるよね。こう、刺すような……」
笑い混じりの軽口。でも、俺の頭には違うものが浮かんだ。
ときおり起きた違和感。胸の奥を小さな手が掻き回すような、鈍いざわめき。
(やっぱり、俺だけじゃないんだ。明がおかしいって思ったの)
脳裏をかすめたのは、このまえ見かけたメッセージ。
――また、やったのか。
その文章の意味。そして謎の送り主。どちらもまだ答えがわからないままだ。
(……明。おまえ、なにを隠してる?)
そんな疑念だけが、声にならずに胸の底へ沈んでいく。
俺はさりげなく視線を動かした。明は、少し離れた本棚の前で、雑誌を手に取っていた。けれど、どこか所在なくページをめくる指が止まっていた。顔を上げた明と、視線がぶつかる。
その瞬間、明の瞳の奥に、一瞬だけ影が差した気がした。
――それに気づけるのは、たぶん、俺だけだ。
明は、もしかして本当になにかに苦しんでいるのかもしれない。自分でも意外なほどに静かにそう思った。
「まあ、明は変人だからな。俺も人のこと言えねーけど」
乾いた笑いを混ぜてそう言ってみせる。けれど心のどこかで、引っかかりは消えなかった。黒川が見た“明の異常性”とはなんだったのか。言葉にできない疑問が、胸の奥で燻る。
そのときだった。
ぬるりと空気を裂いて、明の影が現れた。
「……楽しそうだったね」
笑っていた。けれど、その目だけがまるで熱を持っていなかった。
「黒川くん」
明が、冷たく言葉を切った。
「きみ、秋司のこと好きなの?」
空気が凍る。黒川は、目を丸くして慌てたように言った。
「はい? いや、そんな、先輩とは普通に――」
「へえ。じゃあ、そんなに話しかけないでくれる?」
その声音は、静かで、それゆえに鋭かった。氷の刃のように、淡々と相手を切り裂く。
黒川が戸惑いながら席を立つと、俺は思わず舌打ちした。
「おまえ、ガキの嫉妬かよ」
苛立ち半分、呆れ半分で口にした。黒川は数少ない、明を介さないで仲良くなった友達なのに。
けれど明は顔を背け、「……違うよ」とだけ呟いた。
部室を出る頃には、夕焼けが街を赤く染めていた。空に浮かぶ雲の端が、茜に滲む。コンクリートの壁が柔らかく光を反射して、季節の輪郭をにじませている。
駅まで続く坂道を、明と肩を並べて歩いた。足元に長く影が伸び、背後から差す夕焼けが、まるでなにかを急かすように俺たちの背を押していた。
淡い茜が街を包む。建物の輪郭が少しずつ溶けていく中で、小さく呟いた。
「今日みたいな日が、ずっと続けばいいのにな」
足を止めたのは明の方だった。少しだけうつむいて、小さく問う。
「……そんなに、黒川が好きなの?」
「バカ言うなよ」
俺は肩をすくめて、明の肩に軽く手を置いた。
「今日の明は、ちょっと変だったな。らしくなかった」
「そう?」
明が振り返る。顔には微笑みが浮かんでいたが、瞳だけはどこか遠くを見ていた。
「……でもさ、秋司。今日は、俺もずっと心が静かだったんだ。……おまえが、笑ってたからかな」
その声には、不思議なほどの安堵と哀しみが入り混じっていた。まるで、なにかを諦めた人間のような。あるいは、たったひとつの救いを手に入れた人間のような。
穏やかなのに、あんまりさみしそうだから。俺は明の腕を引いた。そして、そっと抱きしめた。心臓の鼓動が重なる距離。
誰かを慰めるなんて、柄じゃない。でも今は、それしか思いつかなかった。
「明。おまえは俺の光だよ」
らしくないキザな台詞に、顔が熱くなる。
「……は?」
俺の言葉に、明は呆然として聞き返す。けれど明は、それ以上なにも言わなかった。
明の横顔。黒川と話していたときはすべてを拒絶するようだった目が、今はどこか穏やかで。
(もしかして、明は俺のことを……? いやいや、やめろ。考えんなって)
そんな疑念が、俺の胸を静かに波立たせた。
頬を撫でる風が、やけにぬるく感じる。
明がゆっくりと手を伸ばして、俺の手を繋ぐ。
「わっ、なんだよ」
「……あったかい」
「いや、そんな寒い季節でもねーだろ」
明が猫のように頬を寄せてくる。その柔らかな動作に、戸惑いながらも抵抗しなかった。むしろ、ふいに抱きしめ返したくなる衝動すらあった。
(……こいつ、こんな顔すんだな)
目を細めて、微かに息を抜く。明の表情は、今まで見たどのときよりも穏やかで、安心しきっていた。まるで、すべてを預けても大丈夫だと信じているような目。
心が、温かく満たされる――その一方で、妙な胸騒ぎが疼いた。
ふと、明が顔を上げ、じっとこっちを見つめる。
「秋司」
「ん?」
「……ぜったい、俺より先にいなくなるなよ」
さらりとした口調だった。けれど、その声の奥にあった感情は、あまりにも切実すぎて、俺は言葉を失った。
「なんだよ、それ……」
ふざけた冗談かと思った。けれど、明の目は笑っていなかった。夜の帳が落ちる一歩手前の空の色と重なるように、深くて、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
――なんで、そんな顔するんだよ?
明はなにかを諦めたような、投げ出したような、そんな表情をしていた。
(まるで、自分がいなくなるのは当然、みたいな――)
その先を考えるのが怖くて、目を逸らす。
明がふっと微笑んだ。
「……冗談だよ」
嘘だった。あれは、冗談の顔じゃない。
でも、わざと軽く笑ってみせた。
「バーカ。心配性のおかんめ」
俺の言葉に、明も笑った。いつも通りのやわらかな笑顔。けれど心には、ぬぐえない影がじわじわと広がっていった。
帰宅後、夜になっても、俺はどこか落ち着かずにいた。部屋の明かりを落とし、カーテン越しに外を見下ろす。
ふと――視線が絡んだ。
街灯の光の中、マンションの下から、明がこちらを見上げていた。まるで、なにかを確かめるように。あるいは、見守るように。
ゆっくりと手を振ると、明は一拍遅れて笑い、同じように手を振り返した。その笑顔は優しかった。だからこそ、胸の奥がじくりと痛んだ。
窓を開けて、明に聞こえるよう声を張り上げる。
「そこでなにしてんだよ、明ー!」
「野暮用で近く寄ったからさ、おまえが起きてないか見てた」
「なんだそれ。電話しろよ!」
「それもそうだな」
明は、今の今までスマホの存在に忘れていたかのように、ひょうきんな顔をして笑った。
――なあ、明。おまえ、なんで苦しんでるんだ……?
最後まで言葉にならなかった問いが、夜風に溶けていった。



