気がつけば、俺はまた、彼を抱きしめていた。
傷だらけの身体を、そっと腕に収める。震える肩はあたたかいけれど、彼は目を開けない。返事も、反応もない。ただ、重たく、静かに、俺の腕の中に収まっているだけだった。
白い壁と、消毒液の匂いが鼻を刺す。無機質な病室のなかで、ベッド横の機械が規則的に生命を刻む音を鳴らしている。
かすかに上下する胸。その小さな動きだけが、彼がまだ生きている証だった。
(――生きてる。ちゃんと、ここにいる)
その事実に、胸の奥が軋む。安堵と、怒りと、どうしようもない愛しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺の中で暴れていた。
指先で、そっと彼の頬をなぞる。ひんやりとした肌が、まるで水底から掬い上げたばかりの小魚みたいに頼りない。やめなきゃいけない。こんなこと、意味がないってわかっている。けれど――触れずにはいられなかった。
もう二度と、この体温に触れられないかもしれない。そんな恐怖が、喉の奥を焼いた。
俺は歯を食いしばり、滲みそうになる涙を睨みつけながら、彼の名前を呼ぶ。
「アキ……」
まるで懇願するみたいに。誰にも聞かれないような、小さな声で。だけど、彼は答えなかった。
窓の隙間から風が入り込み、カーテンをばさりと揺らす。外の太陽はやけに明るく、皮肉にも、彼の青白い顔色をいっそう浮き彫りにしていた。
枯れ枝みたいに細くなった手首。むき出しになった腕や足には、切り傷や青痣が散らばっている。それらすべて、彼がどれだけ世界から消え去ろうとしてきたかを物語っていた。
俺はそっと彼の手の甲をなぞる。薄い皮膚の下、かすかに流れる血の鼓動。その温もりに、ほっとすると同時に、胸が締め付けられるように強く痛んだ。
「こんにちは」
不意に、背後から声がかかった。
振り返ると、ドアの隙間から看護師が顔を覗かせていた。アキが入院するたびに会う、顔馴染みの看護師だ。彼女の腕には、小さな擦り傷がいくつも見える。今日も忙しかったんだろう。
看護師は、疲れたような微笑みを浮かべながら言った。
「アキくん……まただったのね。今度は、建物から飛び降りようとしたんだって?」
俺は黙ってうなずいた。
看護師はため息をつきながらも、俺を責めるでもなく、ただ悲しそうに目を細めた。
「助かって、本当によかったよ」
「……運が良かっただけです。下に木があって、引っかかったって、運び込まれたときに聞きました」
「ああ……そうだったの」
彼女はちらりとアキの姿に目を落とし、静かに続けた。
「飛び降りだけは、本当に危ないからね。高さや角度によっては……助からないことも、あるから」
低く、重い声だった。
「……わかっています。今度は、絶対に引き止めます」
絞り出すように答えると、彼女は小さくうなずいて、また仕事へと戻っていった。
パタン、とドアが閉まる音が病室に静けさを落とす。
俺はもう一度、アキを見下ろした。
首筋には、飛び降りようとしたときにできた擦り傷が赤く滲んでいる。それを見た瞬間、涙が込み上げてくる。痛々しい傷痕は、俺の失態をまざまざと見せつけているみたいだった。
何度目だろう。こうして、病院で彼が目覚めるのを待つのは。
出会ってから、もう七年も経つ。それなのに、俺は――まだアキを救えない。
ふと、記憶の底から声が蘇る。
『死にたいんだ』
泣きそうな声でそう言った彼に、俺は誓ったんだ。「俺が守るから」って。だって、俺だけが彼の痛みを知っている。孤独も、絶望も、誰よりも知っている。救えるとしたら、自分しかいないだろうと自負していた。
(どうして、俺じゃ駄目だったんだろう)
噛み殺したような後悔が、じわじわと指先から俺を蝕んでいく。
俺はそっと、彼の手を持ち上げ、自分の額に押し当てた。細くて、壊れそうな手だった。
『無理すんなよ。……おまえまで死んだら、俺が困る』
思い出すのは、笑っていた彼の顔だ。つらいときも笑って、俺を安心させようとしていた顔。
だけど――あの笑顔も、全部、やせ我慢だったのかもしれない。
そっと病衣の袖を捲る。痩せた腕に刻まれた無数の傷跡が、痛々しく浮かび上がった。
(前より……増えてる)
指先で傷跡をなぞる。なぞれば、消えてくれるんじゃないか。そんな馬鹿みたいなことを願いながら。
――助けたい。守りたい。君に、もう二度と「生きていちゃいけないんだ」と思わせたくなかった。
それだけが、俺のすべてだった。
彼の指をそっと包み、ぎゅっと握り込む。
「……生きて、アキ」
声が震えた。俺を置いて、どこにも行かないでくれ。必死に願う。
「今度こそ、死に場所を探させたりしない。……俺が、アキに生きる理由を渡すんだ」
額を彼の手に押し当てたまま、そっと目を閉じる。
ほのかな体温が、じんわりと手のひらに沁み込んでいった。
傷だらけの身体を、そっと腕に収める。震える肩はあたたかいけれど、彼は目を開けない。返事も、反応もない。ただ、重たく、静かに、俺の腕の中に収まっているだけだった。
白い壁と、消毒液の匂いが鼻を刺す。無機質な病室のなかで、ベッド横の機械が規則的に生命を刻む音を鳴らしている。
かすかに上下する胸。その小さな動きだけが、彼がまだ生きている証だった。
(――生きてる。ちゃんと、ここにいる)
その事実に、胸の奥が軋む。安堵と、怒りと、どうしようもない愛しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺の中で暴れていた。
指先で、そっと彼の頬をなぞる。ひんやりとした肌が、まるで水底から掬い上げたばかりの小魚みたいに頼りない。やめなきゃいけない。こんなこと、意味がないってわかっている。けれど――触れずにはいられなかった。
もう二度と、この体温に触れられないかもしれない。そんな恐怖が、喉の奥を焼いた。
俺は歯を食いしばり、滲みそうになる涙を睨みつけながら、彼の名前を呼ぶ。
「アキ……」
まるで懇願するみたいに。誰にも聞かれないような、小さな声で。だけど、彼は答えなかった。
窓の隙間から風が入り込み、カーテンをばさりと揺らす。外の太陽はやけに明るく、皮肉にも、彼の青白い顔色をいっそう浮き彫りにしていた。
枯れ枝みたいに細くなった手首。むき出しになった腕や足には、切り傷や青痣が散らばっている。それらすべて、彼がどれだけ世界から消え去ろうとしてきたかを物語っていた。
俺はそっと彼の手の甲をなぞる。薄い皮膚の下、かすかに流れる血の鼓動。その温もりに、ほっとすると同時に、胸が締め付けられるように強く痛んだ。
「こんにちは」
不意に、背後から声がかかった。
振り返ると、ドアの隙間から看護師が顔を覗かせていた。アキが入院するたびに会う、顔馴染みの看護師だ。彼女の腕には、小さな擦り傷がいくつも見える。今日も忙しかったんだろう。
看護師は、疲れたような微笑みを浮かべながら言った。
「アキくん……まただったのね。今度は、建物から飛び降りようとしたんだって?」
俺は黙ってうなずいた。
看護師はため息をつきながらも、俺を責めるでもなく、ただ悲しそうに目を細めた。
「助かって、本当によかったよ」
「……運が良かっただけです。下に木があって、引っかかったって、運び込まれたときに聞きました」
「ああ……そうだったの」
彼女はちらりとアキの姿に目を落とし、静かに続けた。
「飛び降りだけは、本当に危ないからね。高さや角度によっては……助からないことも、あるから」
低く、重い声だった。
「……わかっています。今度は、絶対に引き止めます」
絞り出すように答えると、彼女は小さくうなずいて、また仕事へと戻っていった。
パタン、とドアが閉まる音が病室に静けさを落とす。
俺はもう一度、アキを見下ろした。
首筋には、飛び降りようとしたときにできた擦り傷が赤く滲んでいる。それを見た瞬間、涙が込み上げてくる。痛々しい傷痕は、俺の失態をまざまざと見せつけているみたいだった。
何度目だろう。こうして、病院で彼が目覚めるのを待つのは。
出会ってから、もう七年も経つ。それなのに、俺は――まだアキを救えない。
ふと、記憶の底から声が蘇る。
『死にたいんだ』
泣きそうな声でそう言った彼に、俺は誓ったんだ。「俺が守るから」って。だって、俺だけが彼の痛みを知っている。孤独も、絶望も、誰よりも知っている。救えるとしたら、自分しかいないだろうと自負していた。
(どうして、俺じゃ駄目だったんだろう)
噛み殺したような後悔が、じわじわと指先から俺を蝕んでいく。
俺はそっと、彼の手を持ち上げ、自分の額に押し当てた。細くて、壊れそうな手だった。
『無理すんなよ。……おまえまで死んだら、俺が困る』
思い出すのは、笑っていた彼の顔だ。つらいときも笑って、俺を安心させようとしていた顔。
だけど――あの笑顔も、全部、やせ我慢だったのかもしれない。
そっと病衣の袖を捲る。痩せた腕に刻まれた無数の傷跡が、痛々しく浮かび上がった。
(前より……増えてる)
指先で傷跡をなぞる。なぞれば、消えてくれるんじゃないか。そんな馬鹿みたいなことを願いながら。
――助けたい。守りたい。君に、もう二度と「生きていちゃいけないんだ」と思わせたくなかった。
それだけが、俺のすべてだった。
彼の指をそっと包み、ぎゅっと握り込む。
「……生きて、アキ」
声が震えた。俺を置いて、どこにも行かないでくれ。必死に願う。
「今度こそ、死に場所を探させたりしない。……俺が、アキに生きる理由を渡すんだ」
額を彼の手に押し当てたまま、そっと目を閉じる。
ほのかな体温が、じんわりと手のひらに沁み込んでいった。



