昼休みの「階段事件」が尾を引いたのか、放課後になっても笑陽のテンションは高いままだった。いや、正確に言えば“高いフリ”をしているように、黒沢の目には映った。
 屋上の鍵は、なぜか長岡史雄が持っていた。理由を聞いても「気づいたらポケットにあった」としか言わない。怖い。
 扉を開けると、まだ春の風が残る夕方の空気が頬を撫でた。下校のチャイムが響き、制服姿の生徒たちが下の校庭で散り始めていた。
 「はい、では本日の“青春を燃やす会議”を始めまーす!」
 笑陽が自作のスローガンを叫ぶと同時に、安部が「燃やすって! 燃やすって何を!?」と声を上げた。
 「青春だってば!」
 「お、おぉう……」
 高島生磨が風に髪を揺らしながら、黙って円形に座るみんなの輪に加わった。魁哉も無言で隣に腰を下ろす。彼女は一言も話していないのに、妙な存在感がある。
 「じゃあまず、各自“燃えるような情熱”って、どんなのだと思うか語ってもらおうか」
 「なぜそんな就職面接みたいなテーマに……」
 黒沢がぼそりと呟いた。いや、ぼそりとはしていなかった。思った以上に声が出てしまって、周囲に聞かれてしまった。笑陽がこちらを見る。
 「幸太くんは、何かに情熱を燃やしたこと、ないの?」
 ――ある、と言いたい。でも、それが何かを聞かれると、言葉に詰まる。
 「……ないとは言ってない」
 「あるんだ?」
 「たぶん……中学のとき、ひとりで地図を作ってた」
 「地図?」
 「放課後、通学路の分岐と標識と、猫が出るポイント全部書いて……」
 「あー、それ、青春だわ」
 「えっ?」
 「なんか……報われなさそうなところが」
 「失礼な!」
 笑陽の笑い声が風に流れ、黒沢は顔をそむける。でも、それを見た優希菜が小さな声で言った。
 「そういうの、ちょっと好きかも……なんか、丁寧だし」
 それは、本当に何気ない一言だった。けれど黒沢にとっては、今まで受けたどんな賞賛よりも心に響いた。
 その時、袖香が口を開いた。
 「私は、みんなでお弁当作って、それを校外に持ってって食べる……っていうの、やってみたい」
 「おおっ、協力プレイ系!」
 「でも……この前、梅干し入れ忘れて、全部甘くて微妙だったんだよね……。それを素直に言ってくれたのが優希菜で。すごく嬉しかった」
 「そりゃあ……食べた瞬間、これは白米泣くやつだと思って……!」
 皆が笑い、場がやわらいだ。だが、その一方で、魁哉がポツリと口を開いた。
 「私は、泣いたとき……そっと触れてくれた人がいたら、それが“情熱”なんだと思う」
 全員の動きが止まった。彼女の声は小さいのに、なぜか届く。理由は分からない。でも空気が変わったのは確かだった。
 「……なんか、すごいこと言うな……」
 「“初めて触れた君の涙”って感じだよね」
 その言葉に、黒沢の記憶が勝手にさかのぼった。中学のある日のこと。クラスでひとり泣いていた女子の肩に手を置いた――それだけの記憶。でも、なぜだかずっと心に残っている。名前も、顔も、忘れてしまったのに。
 「……なあ」
 黒沢が不意に立ち上がった。皆がこちらを見る。
 「この会議……何のためにやってるんだ?」
 「え?」
 「笑陽。お前が提案したんだろ? 何がしたいんだよ、本当は」
 笑陽が目を見開く。その一瞬だけ、彼女の“しなやかな適応”が揺らいだ。
 「……うちの学校、さ。生徒会で“生徒の自主活動”ってテーマの募集あって……うまくやれば、来年、課外活動に予算つくかもしれないの」
 「つまり、これって……」
 「実験。どうすれば“青春”が生まれるのか。その観察記録」
 「……それが動機?」
 笑陽はうなずいた。そして、少しだけ顔を伏せた。
 「ごめんね。最初から言えばよかった。でも、うまくやれば……みんなにとって、忘れられない何かが生まれる気がして」
 「その“何か”って……」
 黒沢が言いかけたとき、風が吹いて、魁哉の髪がゆらりと揺れた。
 「……それは、やってみなきゃ分からない。だから、今は“もがいて”いいと思う」
 静かな一言に、皆がうなずいた。
 夕焼けが屋上を染める。空は赤く、風は優しかった。
 そしてこの瞬間から、「きれいごとじゃない青春」の幕が――音もなく、確かに上がったのだった。