黒沢幸太が教室のドアを開けた瞬間、誰かの「オワター!」という叫びが爆音のように響いた。
 教室の一番後ろで両手を上げていたのは安部元明だ。机に散らばるプリント、無惨に折れ曲がったノート、そして立ち上がった椅子がひとつ。黒沢は一瞬、誰か倒れたのかと勘違いしたが、よく見ればそれは安部が勢い余って蹴り飛ばした自分の椅子だった。
 「……何が終わったんだよ」
 小声でつぶやきながら、黒沢は教室の端の自分の席に向かった。視線を合わせたくない。そもそも会話を始める理由が見つからない。目的がない会話は苦手だ。だからこそ、「友達付き合い」という言葉にアレルギー反応が出るのだ。
 「あっ、黒沢ー。プリント回ってきてないから、こっちから持ってってー」
 吉沢田笑陽の声が飛んできた。黒沢の耳には「強制労働です」って翻訳されて聞こえた。
 けれども、断る理由もない。いや、あるのだが、それを言葉にする方が面倒だ。彼女の席へ向かいながら、彼は心の中で「これも義務教育の一環」と唱えた。
 「さんきゅ。あ、でさ、昼休みのことなんだけど」
 ――来た。話の続き。
 彼女の目は真剣だった。黒沢が一番苦手とするやつだ。何かを決める前に全員のスケジュールを把握しようとする合理的な配慮。しかも、やんわりとした口調で、押し付けがましくない。だが、これが一番タチが悪い。
 「昨日の件、やっぱ生磨くんが言ってた屋上案、私はアリだと思うの。開放感あるし、空も広いし――ただ風が強いとポテチ飛ぶけど」
 「……別に、俺はどこでもいいけど」
 「それを言っちゃうと何も決まらないんだよ、幸太」
 「うっ」
 いつも通りの展開に、黒沢は口を閉ざすしかなかった。彼の脳内では、昼休みに屋上で何かをするという情報しか入力されていない。そしてそれが何なのかもよくわかっていない。なのに、話がどんどん進んでいくのが怖かった。
 「ていうか、優希菜ちゃんと魁哉ちゃんが昼休みの小ネタ考えてきてくれたんだって。見たいでしょ?」
 「小ネタってなんだよ」
 「やーん、照れる〜でも、うちツッコミのほうが得意かもー」と突然入ってきたのは後藤優希菜だった。その後ろには、三田魁哉が静かに立っている。背筋が真っすぐで、いつも物音ひとつ立てずに近づいてくるのが逆に怖い。
 「……いや、誰もネタ見たいとは……」
 「えっ、見たくないの!? うち、今日すごいこと考えてきたのに!」
 「すごいことってなに」
 「“階段で靴紐を踏んでしまい、足がもつれてそのまま愛に落ちる”ネタ!」
 「それ事故だろ」
 だが、その時だった。教室に入ってきた増田袖香が、まさにリアルタイムで「うわっ」と叫びながらつまずいた。――本当に靴紐を踏んだらしい。
 全員が凍りついた。静寂。
 「……うちのネタ、再現V?」
 「うわあああ! ごめん、見てなかった! 靴紐ほどけてた!」
 「ううん!ナイスタイミング!」
 「いや、ナイスじゃねぇよ!」
 安部が突然大声でツッコんだ。笑陽が机を叩いて爆笑し、生磨が小さく「大丈夫?」と声をかける。その横で、長岡史雄はスマホのストップウォッチを止めて、なぜかうなずいている。
 「……え? 記録とってたの?」
 「うん、どのくらいの距離で躓いたか測ってた。次の“靴紐落下実験”のために」
 「何その実験!?」
 黒沢はすでに思考停止していた。彼にとってはこの教室そのものが「観測不能」だ。何が起きていて、何を考えればいいのか分からない。ただ、あることだけは確信できた。
 ――この空間に「普通」は存在しない。