──まだ、好きじゃない。
でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。
*
その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。
人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。
章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。
ふと父の声が頭の奥で響く。
「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」
その言葉が、今も心に残っていた。
昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。
まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。
そのとき──背後に気配を感じた。
誰かが見ている気がした。
でも、目は開けなかった。開けたくなかった。
ぱたん、と本を閉じる音がする。
静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。
(……あいつ、いるのか)
さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。
なんだか、ひとり腹を立てている自分がばかみたいだった。
*
夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。
章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。
「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」
照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。
カップを受け取ろうとしたアルジャーノンの指先と、自分の指が触れた。
「……っ、わ、悪い……」
反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。
「ありがとう、Hiwatari」
「……お、おう」
思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。
消灯前。
「……電気、消していいか?」
「……うん」
たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。
ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。
「……っ」
思わず、布団の端を握りしめる。
「……君、暗闇が怖いのか?」
アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。
返事はできなかった。
やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。
あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。
「大丈夫だ。すぐ隣にいる」
「なんだよ、子ども扱いして……」
精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。
そのとき、耳元で。
「……かわいい」
小さな声が、ぽつりと零れた。
「な……っ」
章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。
それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。
ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。
寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。
──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。
金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。
眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。
(……なに見てんだよ、俺)
視線を逸らそうとして、できなかった。
そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。
「……ママ」
思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。
被災した日から、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。
(でも今は……)
視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。
(あいつ……なんなんだよ)
ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。
そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。
……寝息が、止まった?
いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。
──そして、朝。
まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。
腹にかかる見覚えのない毛布。
指先に触れる、あたたかさ。
耳元で聞こえる、誰かの寝息。
……寝息?
ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。
「……なっ……」
声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。
「なんで俺のベッドに……!」
真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。
「……昨夜、君が眠れないようだったから」
「そ、そんな理由で!」
反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。
(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)
布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。
ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。
もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。
──その日、空は嘘をついていた。
降らないふりをして、ふたりを、傘の下へ押し込めるために。
「午後からガーデンパーティ開催だってさ!」
チャドが、朝食のソーセージをもぐもぐしながら叫んだ。
「ふーん」と章吾が他人事のように流していると、アルジャーノンが当然のように付け加えた。
「伝統行事だからな。参加は必須だ」
紅茶の香りがふわりと立った。
英国の伝統行事。紅茶。古城の庭園。悪くない。
少なくとも、日本では体験できなかった空気が、そこにはある。
「当然だが、君も私と同伴だ」
「は?」
「別々に動いても、我々『ルームシェア中』だろう。目立つからな」
「……めんどくさ」とは言いつつも、章吾は断らなかった。
結局、今日もまた、「ふたりきり」の時間を過ごすことになる。
灰色の、重たい雲が空を覆っていた。
*
ガーデンパーティが始まったのは、昼を少し過ぎたころだった。
「さっきから、やたら視線感じるんだけど」
章吾がぼそっと呟いた。アルジャーノンは、腕を組んだまま視線を巡らせる。
「当然だ。我々は異色の組み合わせだからな。君が日本人で、私が王室奨学生。目立つのは仕方がない」
「それにしたって、ジロジロ見すぎだろ……」
「君が不用意に目立つからだ」
「俺のせいかよ」
そんなくだらない言い合いをしているときだった。
「あの……!」
背後から、控えめな声が聞こえた。声をかけてきたのは、近隣の女子校の生徒だった。栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女。
「これ、落としました……」
彼女が差し出したのは、章吾のスケジュール帳だった。どうやらポケットから落ちたららしい。
「あー、サンキュ。助かった」
受け取って、軽く頭を下げる。少女は、少し顔を赤らめた。
「もしかして、日本人の方ですか?遠い国なのにすごいなあって……」
「え?」
章吾は素で戸惑った。それを──横で見ていたアルジャーノンは、内心をざわつかせていた。
(……何を、当然のように話しかけている)
視線が無意識に鋭くなるのを、自分でも止められなかった。
少女はそれに気づいたのか、きゅっと身をすくめた。
「あ……す、すみません!邪魔してごめんなさい!」
言うなり、彼女は足早に立ち去っていった。
取り残された章吾が、苦笑まじりに肩をすくめる。
「なんか、悪いことしたかな」
「……知らん」
冷たく答えた自分自身に、アルジャーノンは顔をしかめた。
君は、私の隣にいるべきだ──そんな言葉が、喉の奥まで上ってきた。だが、それを口に出すことは、できなかった。
*
ぽつ、ぽつ、と。空から、冷たい粒が落ちてきた。
「……来たな」
章吾がぼそっと呟く。
曇っていた空は、ついに限界を迎えたらしい。あっという間に、細かい霧雨が庭全体を包み始めた。
生徒たちは、ざわめきながらテントや校舎へと走り始める。
章吾は上着のポケットをまさぐった。が、傘なんて持っていない。
「おい、おまえは?」
「当然だ。英国紳士たるもの、備えは怠らん」
そう言うと、アルジャーノンは背筋を伸ばして、優雅な仕草で小さめの黒い傘を広げた。
ぱさり、と開いた傘は、章吾ひとり分の体をぎりぎり覆えるかどうか、というサイズだった。
「……ちっさくね?」
「紳士用は本来これが標準だ。むしろ合理的だろう」
「合理性とかいらねぇから。びっちょびちょだろ」
「文句を言う暇があるなら、早く入れ」
「はいはい」
章吾はため息まじりにアルジャーノンの隣に滑り込んだ。当然、距離は近い。
肩がわずかに触れる。互いの体温が、じわりと傘の内側にこもる。
「近すぎだろ……」
「この傘の半径では、これが最適解だ。文句を言うなら濡れるがいい」
「言い方がムカつくな」
「それは君の心が未熟だからだ」
そんなやり取りをしていても、章吾はふと、アルジャーノンの横顔に目を奪われていた。
少し濡れた金髪。まっすぐな鼻筋。光をたたえた青い瞳。
……雨のせいだ。こんなに綺麗に見えるのは、たぶん、雨のせいだ。
自分にそう言い聞かせながら、章吾は視線をそらした。
(これ以上、距離を詰めたら……)
何か、決定的に変わってしまいそうで。でも、傘の中のこの狭い世界から、出ていく勇気もなかった。
「走るぞ」
アルジャーノンが短く告げた。
「え、いや、この傘で走るとか無理だろ」
章吾の抗議を待たず、アルジャーノンはぐいと腕を引いた。片手で傘を支え、もう片方の手で章吾を引っ張る。雨脚はどんどん強くなり、すでに足元はぬかるんでいる。
「うわっ、すべっ──」
その瞬間だった。章吾の足元がぬかり、バランスを崩す。倒れる、と思ったとき──
バランスを崩した章吾の身体が傾く。反射的に伸びた腕が、彼の腰を掴んだ。
手のひら越しに、湿った制服の下から伝わる熱。それは自分の体温ではない。彼のものだった。
「……大丈夫か」
耳元に落ちた声は、妙に近くて、妙に熱かった。章吾は、小さく息を呑む。
すぐに身を引いたつもりだった。なのに傘の下は狭すぎて、肩が離れない。
目が合う。近すぎる距離。呼吸が、混ざりそうだった。
「……っ」
雨の音だけが、ふたりを包み込んでいた。章吾は一歩、後ろへ。
顔を少しでも動かせば、触れてしまいそうだった。
「……」
「……」
言葉は出なかった。代わりに、呼吸だけがやけにうるさく響く。
アルジャーノンが、肩越しに視線を逸らす。吸い込んだ息が、浅い。
校舎へ向かうあいだ、ふたりはほとんど話さなかった。濡れた芝を踏む足音と、傘の内側で交わる呼吸だけが、静かに続いていた。
章吾がふと隣を見ると、いつもより少しだけ、気を抜いた顔。
(……やばい)
こんなに近くて、まだ「ただのルームメイト」でいられるのか。いや──きっと、彼も。
「……すまなかった」
ふいに、アルジャーノンが低く言った。
「は?」
「君を、無理に引っ張った。軽率だった」
章吾は肩をすくめる。
「……別に、ケガしてねぇし」
「それでも……傷つけたくはない」
空気が、変わった。
章吾は一瞬、言葉を失い、苦し紛れに笑ってみせる。
「……貴族様ってやつは、責任感バカ高ぇな」
「黙れ」
ふたり同時に笑って、また黙った。
傘の内側は狭い。どこまでが自分の鼓動で、どこまでが相手のものか、もうわからない。
雨音も、ざわめきも、遠ざかる。
──こんな時間が、また来たらいい。きっと隣の彼も、同じことを思っていた。
夜の寄宿舎は、昼間とは別の顔を見せていた。外にはまだ雨の名残があり、遠く森からフクロウの声がほうほうと響く。
章吾は、ベッドに寝転がりながら天井をぼんやり見つめていた。隣では、アルジャーノンがデスクで本を読んでいる。
夜の空気は、いつもよりほんの少しだけ違っていた。
さっきの、傘の下での距離感。あの、触れたら壊れそうだった沈黙。
(……なんなんだよ、あれ)
考えたって答えは出ない。章吾はごろりと寝返りを打った。その音に、アルジャーノンがちらりと視線を寄越す。
「……眠れないのか」
「うるせぇ。起きてるだけだ」
「どちらも同じだろう」
投げ合う言葉は、いつも通り。なのに、不思議と胸の奥がくすぐったかった。
章吾は、ふと窓の外に目を向けた。星はまだ見えない。
雨雲は遠ざかりつつあるのに、空はまだ重たかった。
「なあ」
自然と口を開いていた。
「日本って、こういうとき星が見えるんだよ。晴れたら、な」
「そうか」
アルジャーノンは本から目を上げなかったが、指先はページをめくるのをやめていた。
静かな夜。まだ遠い星空。
「……君は、星を見るのが好きなのか」
アルジャーノンがぽつりと尋ねた。視線は窓の外、晴れない夜空のまま。
章吾は、毛布を軽く握った。
「別に。好きとか考えたことねぇよ」
「なら、なぜ今、そんな話を?」
「……さあな」
ぼそりと返し、毛布に顔を半分埋める。本当は、言葉にできなかっただけだった。
静かな夜空に、隣に誰かがいてくれたらいい。そんな景色を、ただ思い浮かべたかった。
(なに考えてんだ、俺)
頭を振っても、胸のざわつきは消えなかった。
アルジャーノンは静かに本を閉じ、椅子に背を預ける。
「私も星を見る習慣はない。……だが、君となら、少しは見てみたいと思った」
章吾は、思わず喉を鳴らした。
(おまえ……)
そんな顔で、そんな言葉を言うな。普通、言わねぇだろう。
「恥ずかしいこと、さらっと言うよな」
「事実を述べただけだ」
アルジャーノンは淡々と答えた。だが、その耳たぶはうっすら赤く染まっていた。
章吾は小さく笑い、毛布を引き寄せる。
窓の外に、まだ星はない。でも、胸の奥に小さな光が、そっとまたたいた気がした。誰にも見えない、ふたりだけの夜に。
ごそごそと毛布を引き寄せた章吾は、それを無言でアルジャーノンに放った。
「……使えよ」
ぶっきらぼうな声。目も合わせない。
アルジャーノンは驚いた顔をしながら、毛布を拾い上げた。
ふわりと漂う、章吾の微かな体温。
「私は、問題ない」
「知ってる。でも、おまえ、前に俺にかけてくれただろ」
毛布にくるまったまま、章吾はぽつりと続けた。
「……サンキュな」
その一言に、アルジャーノンの指先がぴくりと震えた。
(……ありがとう、だと?)
心臓が暴れるように脈打つ。章吾が、素直に礼を言うなんて。
「当然のことだ」
かすれた声を必死に整える。
「そういうとこ、けっこういいやつだよな、おまえ」
「……黙れ」
滲んだ照れを、章吾が気づいたかはわからない。ただ、その傍らにいる存在だけが、アルジャーノンの世界を確かに変えつつあった。
(夜は、まだ終わらないでほしい)
そんな願いを、誰にも知られないように胸に隠した。
時間は、ゆっくりと流れていった。
章吾は体を起こし、無意識のうちにアルジャーノンを見た。ちょうどそのとき、アルジャーノンも章吾を見た。
──目が、合った。
「……」
「……」
どちらも、すぐには目をそらせなかった。まるで、何かを確かめるように。
胸が、ひどくうるさく鳴った。
章吾は小さく息を吐き、アルジャーノンも、ほんの少しだけまぶたを伏せた。
そして、何も言わずに視線を外した。
ただ、それだけ。だけど──
(……もう、前みたいには戻れねぇな)
そんなことを思いながら、章吾は再び毛布に顔をうずめた。
静かに、優しく、夜が更けていった。
朝、寄宿舎に差し込む光はまだ淡く、窓の外には、ようやく雨上がりの青空がのぞいていた。
「晴れた、か」
寝ぼけた頭でぼんやりと考える。隣のデスクでは、アルジャーノンが制服を整えていた。
その仕草を、自然に目で追う。
昨日までと何も変わらない。……はずなのに、少しだけ変わっていた。
「ぼさっとするな。遅刻するぞ」
「わかってる」
短く返事をして、章吾はベッドを出た。
朝の喧騒の中に、アルジャーノンの澄んだ声が混ざっていた。それは昨日よりほんの少しだけ、やわらかい音だった。
「……悪くねぇな」
誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。
昼休みの校庭には、春の日差しがやわらかく降り注いでいた。
章吾はチャドと並んで、校舎脇のベンチに腰を下ろし、黙々とサンドイッチをかじっていた。
「Hiwatari君」
背後から名前を呼ばれ、振り返ると、整えすぎた制服を着た少年が立っていた。
──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。アルジャーノンの幼馴染だという。
第一印象は、やけに整っていて、どこか冷たい。涼しい目元の奥に、かすかな棘が光るのを章吾は見逃さなかった。
「よかったら、午後の空き時間、一緒に勉強しない?」
「……は?」
思わず視線だけで返す。
(なに、こいつ)
口調は柔らかいくせに、妙に圧がある。誘いの裏に、何か含まれている。
ふと目をやると、校庭の向こう、ベンチで本を読んでいる金髪が視界に入った。
──アルジャーノンだ。
「悪い。用事ある」
サンドイッチの包み紙をくしゃっと握りしめて、立ち上がる。そのとき、レジナルドがぽつりと呟いた。
「君には、似合わないと思うけどね」
視線は、まっすぐアルジャーノンに向けられていた。
章吾は言葉を返さず、そのまま歩き出す。だけど、胸の奥に、ひとつだけ残っている想い。
(あいつの隣に、行きたい)
そう、それだけだった。
*
中庭のベンチには、まだアルジャーノンがいた。本を読みながら、章吾のほうをちらりと見たように思えたけれど、確信はない。
まっすぐ視線を向けることができず、章吾は一度だけ深呼吸した。
「……隣、いいか?」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうな返事。いつもと変わらないはずなのに、どこか棘があった。
章吾は黙って腰を下ろした。拳ひとつぶんの距離が、今日は妙に遠く感じられる。
沈黙のまま、数秒が過ぎた。やがて、アルジャーノンが本のページを閉じ、低く問いかけた。
「──レジナルドと、何を話していた?」
章吾は一瞬、返事に詰まった。
「勉強に誘われた。試験前だし、手伝ってやるってさ」
「そうか」
それきり、アルジャーノンは沈黙した。その指先がわずかに本の表紙を撫でる仕草が、どこかぎこちなく見えた。
章吾は、少し躊躇ってから口を開いた。
「おまえと、あいつって仲いいんだろ?」
「……ああ」
アルジャーノンは、ためらわずに答えた。その声は、いつもよりわずかに低かった。
「家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から、特別な存在だった」
言葉は整っているが、顔はこわばっていた。
本を握る手が、ほんの少し強くなる。章吾は、その横顔をまっすぐ見ることができなかった。
(……特別、か)
胸のどこかが、きゅっと締めつけられるようだった。
「おまえ、機嫌悪い?」
「そんなことはない」
返ってきたのは即答だったが、言葉の端がやけに尖っていた。
章吾は眉をひそめた。朝までは、もっと自然に話せていたのに。
「……なら、いいけど」
それ以上、踏み込めなかった。拳を握ったまま、ただ隣にいることしかできない。
横目でそっと見ると、案の定、目が合った。深い青。アルジャーノンの瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。
「……っ」
慌てて視線を逸らす。
あの目は、何を見ていたんだろう。
*
放課後。古びた渡り廊下を歩きながら、章吾は首をひねる。
(……あれ、スケジュール帳、どこやったっけ)
教室に置いたか、それとも昼のベンチか──そんなことを考えていたところで、背後から声がかかった。
「Hiwatari」
振り返ると、制服姿のアルジャーノンが立っていた。手には、探していたあのスケジュール帳。
「……君のものか?」
「あ、悪い。気づかなかった」
受け取った瞬間、指先に触れた水気に気づいた。彼の手が濡れている。
(……俺のこと、探してくれたのか)
思わず胸が熱くなる。不機嫌なんかじゃなかった。あいつは、ずっと、変わらずそこにいたんだ。
「……サンキュ」
ぽつりと漏らした声に、アルジャーノンがほんの少しだけ目を細めたように見えた。
「礼には及ばない」
短い沈黙が落ちる。
──そして、
「……君が隣にいないと、多少、調子が狂うな」
一瞬、章吾の呼吸が止まった。何も言えずにいると、アルジャーノンがふっと口元をゆるめた。
「気にするな。貴族のくせに、私は精神が脆弱なのだ」
「……は?」
思わず吹き出しそうになりながら、肩を軽く小突く。
「おまえ、ほんとめんどくせぇな」
「自覚している」
どちらも目を合わせなかったけれど、少しだけ笑っていた。
ふたりの距離は、またひとつ近づいていた。
寄宿舎の石畳を、春の風がそっとすり抜けていく。
放課後のラウンジには、紅茶の香りが漂っていた。
章吾はカップ片手にソファへ沈み込み、隣ではアルジャーノンが本を読んでいる。いつもの距離、いつもの空気。
──たった一言で、ぐちゃぐちゃにされるとも知らずに。
「なあなあ!」
スコーンと紅茶を両手に抱えたチャドが、能天気に駆け寄ってきた。
「Shogo、アルジー! おまえらさあ──」
「……何だ、アメリカ人」
「うるさい、要件だけ言え」
ふたりの冷ややかな応対にも、チャドは悪びれず笑った。
「おまえら、一緒にいすぎじゃね?」
「「は?」」
声が見事に重なり、章吾はカップを傾けかけ、アルジャーノンも本をぱたりと閉じた。
「え?違うか?」
チャドは笑いながら続けた。
「「ちがう!!」」
即座に声を揃えて否定したラウンジには、微妙な沈黙が落ちた。
章吾は顔が熱くなるのを感じ、アルジャーノンも微妙に耳が赤い。どう取り繕うかもわからず、ふたりはひたすら紅茶をすする。チャドはお構いなしにスコーンを頬張りながら、にやにやと眺めていた。
たったそれだけのこと。それだけなのに、胸の奥はぎゅっと締めつけられていた。
*
朝。寄宿舎はまだ薄暗い。
章吾は毛布にくるまったまま、ぼんやりと目を開けた。
デスクの前には、制服に袖を通したアルジャーノン。鏡の前できっちりとネクタイを締めている。──いつも通りのはず、なのに。
(……顔、合わせんの、気まずい)
胸の奥に、妙なざわめきが残っていた。
(……ぜってー今日も、茶化される)
そう思うと、布団の中がやけに安全に思えた。しかし、いつまでも逃げていられない。
章吾は、ごそごそと毛布から這い出る。
「……おはよう」
「おはよう」
また、同時だった。気まずさが音を立てるような間が流れ、ふたりは同時に視線を逸らした。
「……今日、講義サボりてぇ」
ぽつりと漏れた本音。言い訳がましくない、それだけの気持ち。
「……私も、あまり行きたくはない」
アルジャーノンの声もまた、小さく、低かった。
ふたりして顔を合わせず、ぼそぼそと交わすやりとり。
心臓は馬鹿みたいにうるさくて、息をするたび胸がきしんだ。
沈黙のなか、アルジャーノンがそっと章吾の毛布を拾い上げる。丁寧にたたんで、ベッドの端に置いた。
「……行くぞ」
「……ああ」
笑われるのは怖いが、ひとりでいることのほうが、ずっと怖かった。
触れられない距離。でも、すぐ隣にいる。──それだけで、今日は少し前を向けそうだった。
*
昼休みの校庭。チャドは相変わらず元気だった。
「なあなあ、放課後、みんなで街に出ね?」
章吾は生返事で聞き流す。隣では、アルジャーノンが静かに本を読んでいた。
そしてまた、唐突にチャドが爆弾を投げた。
「なあ! お前ら、本当に『なんでもない』のか?」
「……」
「……」
空気が凍った。チャドはお構いなしに続ける。
「どう考えても、お似合いな気がするんだよな~」
言葉を失うふたり。その静寂を破ったのは、アルジャーノンだった。彼は静かに本を閉じ、顔を上げずに言った。
「お似合い……?」
わずかに間を置いて、彼は低く呟いた。
「我々の関係は──ただのルームメイトだ」
淡々とした口調。チャドは「マジで?」ときょとんとする。
章吾は、ぐっと唇を噛み締めた。否定しなきゃと思った。笑い飛ばさなきゃと思った。なのに、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
(あいつは、男だぞ)
(俺は、女が好きなはずだろ)
(……普通に考えろ、俺)
一方、アルジャーノンも、胸の奥に言葉にならない震えを覚えていた。
(私は、フォーセット家を継ぐ者だ)
(妻を娶り、子をなすべき立場だ)
(それ以外など、許されるはずがない)
なぜ、視線を逸らせない。なぜ、こんなにも胸が苦しい。
チャドはというと、無邪気にスコーンを頬張っめいる。まるで、すべてが冗談でできているみたいに。
チャドは知らない。ふたりの痛みと、その動揺を。
夜、寄宿舎。
章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。
毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。
──お似合い……?
──我々の関係は──ただのルームメイトだ。
アルジャーノンの、あの冷静な台詞。
(……俺も同意すればよかった)
(なのに)
あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。
なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。
隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。
顔を上げた、その瞬間──目が、合った。
(……)
(……)
ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。
*
夜半。
寄宿舎には、静寂が満ちていた。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。眠れなかったのだ。
こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。
それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。
ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。
小柄な体。硬さを隠した寝顔。
どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。
(……馬鹿げている)
私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。
アルジャーノンは、きつく目を閉じた。
だが、なぜだ。
胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。
──守りたい。
理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。
そんな自分が、ひどく怖かった。
「私は、どうかしている」
静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。
*
夜明け前。
章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。
部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。
寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。
あたたかいものが、すぐそばにある気がした。
目を凝らすと、暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。
章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。
なんで、そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。
何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。
(バカか、俺)
毛布を引き寄せて、顔を隠す。
眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。
静かな夜。小さな、あたたかい距離。
章吾は、目を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「……ずっと、こうしていられたらいいのに」
*
朝。
窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。
章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。
デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。
ネクタイを締める手。
カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。
(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)
夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。
アルジャーノンは、知らないふりをしている。
章吾も、知らないふりをするしかなかった。
「……おはよう」
「……ああ」
章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。
「……今日、天気悪そうだな」
「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」
「ふーん」
何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。
本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。
*
夕方。
寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。
寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。
会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。
ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。
(でも……触れたい)
歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。
肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。
(でも、ダメだ)
(あいつは、男だ)
(それに──)
ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。
いつもの姿。──のはずだった。
ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。
章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。
(……だめだ)
(これ以上、近づいたら)
自分が、どうなるかわからなかった。
章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。
同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。
ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。
心だけは、必死で叫んでいた。
君に、触れたい。
その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。
昼休み、寄宿舎の裏庭。
章吾は、ベンチに腰かけ、スマホを手のひらでいじくり回していた。
「……なあ、チャド」
「ん? なんだよ、ブラザー!」
陽気なアメリカン、チャドがにこにこ顔を向ける。
章吾は、少し顔を赤らめ、低く続けた。
「……彼女、作りてぇんだけど」
チャドは目を丸くした。
「マジか! いいじゃん!……でも、本当に『彼女』がほしいのか? 」
一瞬、間が空いた。
「ほ、ほしい。だから、アプリとかないのかよ」
章吾はスマホを握りしめる。必死だった。自分に言い聞かせるように。
(俺は……ふつうだ。女が好きなんだ)
あいつに惹かれてなんか、いない。だから、証明しなきゃ。
チャドは嬉々としてスマホを取り出す。
「これ、超オススメのマッチングアプリな。恋愛なら俺に任せとけ。とにかく行動あるのみだ!」
「マジか」
章吾もスマホを開き、画面を覗き込んだ。その瞬間だった。
背後から、ひやりとした声が飛んだ。
「何をしている?」
振り返ると──アルジャーノンが、蒼い瞳でじっと立っていた。
アルジャーノンは、静かに歩み寄ってきた。
制服の上着が風に揺れる。佇まいは端正だが、足取りには苛立ちがにじんでいた。
「……Hiwatari」
「な、なんだよ」
章吾はスマホを慌てて背中に隠した。まるで悪いことをした子供みたいに。
アルジャーノンは一歩、ぐっと踏み込んだ。
目が合った瞬間、章吾は息を呑む。その蒼い瞳には、見たこともない怒りが宿っていた。
「未成年だろう。マッチングアプリは禁止だ」
ぴしゃりとした口調。冷静な言葉なのに、どこか焦りが混ざっている。
(……なに、マジギレ?)
章吾はまばたきした。その横でチャドが小声で呟く。
「お、おい……アルジー、超マジ顔だぞ……」
「……別に、ただ彼女作りたかっただけだろ」
章吾がぼそっと言い訳すると、アルジャーノンの眉がびくりと動いた。
「……愚か者め」
「な、なんだよ!」
「君が……そのような、見ず知らずの相手に身を預けるなど──あってはならない」
声が少しだけ上ずっていた。普段の彼からは想像もつかない動揺が、滲んでいた。
「知らない相手にそそのかされたら、どうする。
そのような者に、君を傷つけさせるわけにはいかない」
一瞬、口をつぐむ。
「それでもまだ、『誰でもいい』なんて言えるのか?」
章吾は、ごくりと喉を鳴らした。叱られているはずなのに、どこか、胸が締めつけられた。
「……なんで、そんな真剣なんだよ」
その問いに、アルジャーノンの唇がわずかに震える。何かを言いかけて、やめたように見えた。
「君は……そんなもので、心を与えるべき人じゃない」
「は?」
「君には、もっと大事にしてくれる人が──」
言いかけたところで、アルジャーノンは目を逸らした。ほんのわずか、耳が赤くなっていた。
章吾の胸が、どくんと跳ねる。
(……なんだよ。なにを言いかけたんだよ)
「……俺、別に誰でもいいわけじゃないし」
そう呟くと、アルジャーノンの肩がふっと緩んだ。
「ならば……最初から、やめてくれ」
その声音は、さっきよりも少しだけ、優しかった。
章吾はスマホをポケットにしまいながら、呟く。
「わかったよ。もうやんねぇよ、マッチングアプリなんか」
アルジャーノンは、どこか安堵したように息を吐いた。
「当然だ」
そう言った彼の耳は、やっぱり赤かった。
「……嬉しそうな顔すんな」
章吾が言うと、アルジャーノンは少しだけ顔を背けた。
「嬉しくなど、していない」
「嘘つけ。耳、真っ赤だぞ」
否定はなかった。その仕草が、何より雄弁だった。
章吾は、思わず小さく笑った。
(……やっぱバカだ、俺)
言い合ってばかりなのに、どうしてこんなふうに、心が温かくなるんだろう。
*
夕暮れの校庭。
ふたりは、特に言葉もなく並んで歩いた。章吾は、心の中で呟く。
(……ま、別に。悪くないかもな)
すると、アルジャーノンがちらりとこちらを見た。章吾は慌てて目を逸らす。
「……変な顔すんな」
「失礼な。君の顔ほどではない」
「は?」
軽く小突きあいながら、ふたりの歩幅は、自然とぴたりと揃った。
傾いた夕陽が、ふたりの影をそっと重ねた。
「Hiwatari。君に伝えておくことがある」
昼食後の時間、アルジャーノンは静かにそう切り出した。
「なんだよ。昼休みに説教か?」
「違う、音楽の先生に言われた。君に、『やってみたい楽器はないか』と。個人音楽レッスンは必修なのだ」
「はぁ? めんどくせぇ」
章吾は気だるげにそっぽを向く。アルジャーノンは動じず、軽く顎で音楽棟の方を示した。
「行こう。どうせ暇だろう」
「おい、引っ張んなって……って、うわ、腕っ……!」
音楽室に着くまでに、三度章吾は「帰っていい?」と聞いた。アルジャーノンはすべて無視した。
室内にはグランドピアノと、整然と並んだ譜面台。 その真ん中に置かれた長椅子に、章吾はふてくされたように腰を下ろした。
「ピアノはどうだ?」
と、アルジャーノン。
「まあまあかな」
章吾は肩をすくめ、無造作にピアノに手を置いた。 そして、何の前触れもなく──音が溢れ出す。
指が鍵盤の上を滑るたび、部屋の空気が震えた。
アルジャーノンは言葉を失った。
「……君、本当にそれ、独学か?」
「まーな。レッスンは子供のころ受けたけど」
さらりと答える章吾に、アルジャーノンはますます眉をひそめた。
「……お前も、弾いてみろよ」
「ならば、私はヴァイオリンを弾こう」
そう言って、アルジャーノンは静かに棚からヴァイオリンを取り出した。
アルジャーノンは黙って、構えた。音が、弦からこぼれ落ちる。
エルガーの『愛の挨拶』。
そのやさしい旋律が、音楽室に満ちていく。 章吾は吸い込まれるようにその音に耳を傾けた。
「いいじゃん。教えて」
その一言に、アルジャーノンの指がふと止まる。
「……私がか?」
「うん。今、弾いてみたい」
アルジャーノンは少しだけ目を伏せ、ヴァイオリンを差し出した。
「では──構えはこう。右手は弓、左手はネックを支える。そう、そこ……」
ふたりの距離が、ぐっと近づいた。アルジャーノンの手が、そっと章吾の手を導く。温かい指先が、弓の握り方を教えるように触れる。
「こう。……力を抜いて」
「ち、近くね?」
「君の握りが不器用だからだ」
からかいのような、真面目なような口調。
しかし章吾の心臓は、先ほどからずっと落ち着かない。
耳元で響く低い声。わずかに触れ合う肩と肩。
そして、アルジャーノンが後ろから腕をまわすようにして、構えを整えた瞬間だった。
章吾が顔を上げる。
アルジャーノンも同時に、章吾の手元から顔をのぞき込む。
ふたりの顔が──ほんの数センチのところで、止まった。
視線が重なる。息が、かかった。
(……えっ)
どちらともなく、呼吸が止まる。このまま、ほんの少し動けば、唇が……!
アルジャーノンの蒼い瞳が、すぐそこにあった。章吾の目が見開かれる。
「っ……すまない!」
先に離れたのは、アルジャーノンだった。距離を取るように一歩下がり、ヴァイオリンをきゅっと抱え込む。
「ご、ごめん……!」
章吾も弓を置き、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。
音楽室の空気が、しん、と静まり返る。雷の前のような、張り詰めた静けさだった。
「……その、弾きたいって言ったの、取り消してもいい?」
沈黙を破ったのは、章吾だった。
「いや。教えよう」
意外にも、アルジャーノンの声は落ち着いていた。が、その耳はほんのりと赤い。
「さっきのは……事故だからな」
「わかってるよ」
目を合わさずに言い合うふたりは、まるで何かの稽古のようにぎこちない。だが、その空気は少しずつ和らいでいく。
「もう一度、構えからだ」
アルジャーノンが再び後ろに立つ。章吾は頬を赤らめながらも、素直に身を預けた。
「右肩にヴァイオリンを乗せて。左手は指板を支えて」
低い声が、背後から優しく響く。少し前とは違う。指導の声には、ほんのわずかな微笑みが混じっていた。
「こうか?」
「……悪くない」
章吾の手元に、アルジャーノンの長い指がそっと重なる。弓の木肌ごしに、彼の体温がにじんだ。
指が、そっと弓を導く。
弦を擦った瞬間、小さな音がふるえた。不格好でも、それは「ふたりで出した最初の音」だった。
「お、出た……!」
章吾が小さく笑った。アルジャーノンも、その横顔を見て、ふっと息をついた。
(……この人は、本当に掴みどころがない)
だからこそ、離したくないのかもしれない──そんな思いが、胸の奥に灯った。
「……さっき、あぶなかったな」
章吾がぽつりと呟いた。
「……何がだ」
「……わかってんだろ。あと少しで、唇、ぶつかってた」
アルジャーノンの手が止まる。
「……君は、気にしているのか?」
章吾は苦笑した。
「するだろ、ふつう」
「そうか」
「……お前は、しないわけ?」
問い詰めるような章吾の声に、アルジャーノンは言葉を詰まらせた。
「……した。気にしている」
ふたりの間に、また沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどよりもずっと柔らかかった。
「ま、事故だしな」
章吾が、ぼそっと言う。
「事故、か」
アルジャーノンはヴァイオリンをケースに片づける。
「……でも、悪い気はしなかった」
その言葉に、章吾の手がピクリと動いた。
「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」
「事実だからな」
どこか照れくさそうに、アルジャーノンはケースを棚に戻す。
「また弾きたいと思ったら、いつでも来るといい」
「勝手に開放していいのかよ、音楽室」
「私の名前を出せば、問題ない」
「……お前、便利だな」
ふたりは肩を並べて部屋を出た。
廊下の窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。さっきまでの張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。
礼拝堂の鐘が、遠くで鳴った。次の授業が始まるまで、あと数分。
「……なあ」
章吾がぽつりと声を上げる。
「ん?」
「今日、……たのしかった」
アルジャーノンの足が、一瞬止まる。そして振り返り、章吾を見る。
「私も、だ」
章吾は照れ隠しのように鼻をこすり、先に歩き出す。
「……また教えろよ」
「もちろん」
その返事が聞こえてくると、どこかくすぐったくて、うれしくなった。
音楽室の出来事は、誰にも話さない。
ふたりだけの、ちょっとした「秘密」として、胸にしまっておこうと思った。
厚い雲の切れ間から差す光が、さっきの弓の一音を思い出させるように、ふたりの肩を照らした。
──女の話なのに、どうして、あいつの顔が浮かぶんだ。
「なぁ、Shogo!昨日、彼女がベッドでさぁ〜……」
チャドの能天気な声が、談話室中に響き渡る。空気が、ぴきりと張り詰めた。
周囲にいた生徒たちが、ちらりとこちらを見て、小さく笑う。
章吾はカップを持つ手をぎゅっと握りしめた。
震える指先。顔が真っ赤になるのが、自分でもわかった。
「マジで赤いな」「アジア人って純情だよな」
無神経な囁き声が、ぐさりと胸に刺さる。
ほんの一瞬、映像が頭に浮かんだ。ベッドの上、頬を染めた──アルジャーノンの姿。
(……なっ)
脳が真っ白になった。なんでだ。なんで、あいつなんだ。女の子を想像しろよ。そう言われたのに。
浮かぶのは、金髪と蒼い瞳。ネクタイを緩めた、あの穏やかな横顔。
(やめろ!!)
絶叫するような気持ちを抑えきれず、章吾はカップを机に叩きつけた。
大きな音が、談話室に響く。
また、ざわりと視線が集まった。
そのときだった。
静かに、椅子が引かれる音。
章吾が顔を上げると、無表情のアルジャーノンが立っていた。凍りつくような蒼い瞳。
無言でチャドに歩み寄る。
「……君には、品というものがないのか?」
静かな声だった。それでいて、空気を凍らせるほど冷たかった。
チャドが肩をすくめる。
「いやいや、Shogoがかわいくって、つい……」
「他人を辱しめて笑いものにするなど、紳士のすることではない」
ぴたりと、談話室の空気が止まった。チャドは蒼白になり、逃げるように去っていく。
(……なんだよ、あいつ)
──俺を、助けてくれた。
胸が、ざわざわした。
無意識に、隣に立つアルジャーノンを見上げた。彼は、紅茶のカップを持つ指も、姿勢も、すべてが端正で整っていた。
でも、目が合いそうで合わない。それは、わざとなのか、偶然なのか。
章吾には──分からなかった。
──談話室にひとり残されたアルジャーノンは、カップを見つめたまま、動かなかった。
指先で、そっと縁をなぞる。
(……君は、私を壊す)
誰にも届かない声が、胸の奥で響いていた。