ルームメイトは貴族様 ー俺たちは雷で結ばれたー

 ──まだ、好きじゃない。
 でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。



 その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。

 人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。

 章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。

 ふと父の声が頭の奥で響く。

「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」

 その言葉が、今も心に残っていた。

 昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。

 まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。
 そのとき──背後に気配を感じた。


 誰かが見ている気がした。
 でも、目は開けなかった。開けたくなかった。

 ぱたん、と本を閉じる音がする。
 静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。

(……あいつ、いるのか)

 さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。

 なんだか、ひとり腹を立てている自分がばかみたいだった。



 夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。

 章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。

「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」

 照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。

 カップを受け取ろうとしたアルジャーノンの指先と、自分の指が触れた。

「……っ、わ、悪い……」

 反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。

「ありがとう、Hiwatari」
「……お、おう」

 思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。

 消灯前。

「……電気、消していいか?」

「……うん」

 たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。

 ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。

「……っ」

 思わず、布団の端を握りしめる。

「……君、暗闇が怖いのか?」

 アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。

 返事はできなかった。

 やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。

 あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。

「大丈夫だ。すぐ隣にいる」

「なんだよ、子ども扱いして……」

 精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。

 そのとき、耳元で。

「……かわいい」

 小さな声が、ぽつりと零れた。

「な……っ」

 章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。

 それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。

 
 ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。

 寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。

 ──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。

 金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。

 眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。

(……なに見てんだよ、俺)

 視線を逸らそうとして、できなかった。

 そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。

「……ママ」

 思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。

 被災した日から、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。

(でも今は……)

 視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。

(あいつ……なんなんだよ)

 ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。

 そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。

 ……寝息が、止まった?

 いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。

 ──そして、朝。

 まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。

 腹にかかる見覚えのない毛布。
 指先に触れる、あたたかさ。
 耳元で聞こえる、誰かの寝息。

 ……寝息?

 ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。

「……なっ……」

 声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。

「なんで俺のベッドに……!」

 真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。

「……昨夜、君が眠れないようだったから」
「そ、そんな理由で!」

 反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。

(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)

 布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。

 ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。

 もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。
 ──その日、空は嘘をついていた。
 降らないふりをして、ふたりを、傘の下へ押し込めるために。

「午後からガーデンパーティ開催だってさ!」
 チャドが、朝食のソーセージをもぐもぐしながら叫んだ。

  「ふーん」と章吾が他人事のように流していると、アルジャーノンが当然のように付け加えた。

「伝統行事だからな。参加は必須だ」

 紅茶の香りがふわりと立った。
 英国の伝統行事。紅茶。古城の庭園。悪くない。
少なくとも、日本では体験できなかった空気が、そこにはある。

「当然だが、君も私と同伴だ」
「は?」
「別々に動いても、我々『ルームシェア中』だろう。目立つからな」
「……めんどくさ」とは言いつつも、章吾は断らなかった。

 結局、今日もまた、「ふたりきり」の時間を過ごすことになる。
 灰色の、重たい雲が空を覆っていた。



 ガーデンパーティが始まったのは、昼を少し過ぎたころだった。

「さっきから、やたら視線感じるんだけど」

 章吾がぼそっと呟いた。アルジャーノンは、腕を組んだまま視線を巡らせる。

「当然だ。我々は異色の組み合わせだからな。君が日本人で、私が王室奨学生。目立つのは仕方がない」
「それにしたって、ジロジロ見すぎだろ……」
「君が不用意に目立つからだ」
「俺のせいかよ」

 そんなくだらない言い合いをしているときだった。

「あの……!」

 背後から、控えめな声が聞こえた。声をかけてきたのは、近隣の女子校の生徒だった。栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女。

「これ、落としました……」

 彼女が差し出したのは、章吾のスケジュール帳だった。どうやらポケットから落ちたららしい。

「あー、サンキュ。助かった」

 受け取って、軽く頭を下げる。少女は、少し顔を赤らめた。

「もしかして、日本人の方ですか?遠い国なのにすごいなあって……」
「え?」

 章吾は素で戸惑った。それを──横で見ていたアルジャーノンは、内心をざわつかせていた。

(……何を、当然のように話しかけている)

 視線が無意識に鋭くなるのを、自分でも止められなかった。
 少女はそれに気づいたのか、きゅっと身をすくめた。

「あ……す、すみません!邪魔してごめんなさい!」

 言うなり、彼女は足早に立ち去っていった。
 取り残された章吾が、苦笑まじりに肩をすくめる。

「なんか、悪いことしたかな」
「……知らん」
 冷たく答えた自分自身に、アルジャーノンは顔をしかめた。

 君は、私の隣にいるべきだ──そんな言葉が、喉の奥まで上ってきた。だが、それを口に出すことは、できなかった。




 ぽつ、ぽつ、と。空から、冷たい粒が落ちてきた。

「……来たな」

 章吾がぼそっと呟く。
 曇っていた空は、ついに限界を迎えたらしい。あっという間に、細かい霧雨が庭全体を包み始めた。

 生徒たちは、ざわめきながらテントや校舎へと走り始める。

 章吾は上着のポケットをまさぐった。が、傘なんて持っていない。

「おい、おまえは?」
「当然だ。英国紳士たるもの、備えは怠らん」

 そう言うと、アルジャーノンは背筋を伸ばして、優雅な仕草で小さめの黒い傘を広げた。

 ぱさり、と開いた傘は、章吾ひとり分の体をぎりぎり覆えるかどうか、というサイズだった。

「……ちっさくね?」
「紳士用は本来これが標準だ。むしろ合理的だろう」
「合理性とかいらねぇから。びっちょびちょだろ」
「文句を言う暇があるなら、早く入れ」

「はいはい」
 章吾はため息まじりにアルジャーノンの隣に滑り込んだ。当然、距離は近い。

 肩がわずかに触れる。互いの体温が、じわりと傘の内側にこもる。

「近すぎだろ……」
「この傘の半径では、これが最適解だ。文句を言うなら濡れるがいい」
「言い方がムカつくな」
「それは君の心が未熟だからだ」

 そんなやり取りをしていても、章吾はふと、アルジャーノンの横顔に目を奪われていた。

 少し濡れた金髪。まっすぐな鼻筋。光をたたえた青い瞳。

 ……雨のせいだ。こんなに綺麗に見えるのは、たぶん、雨のせいだ。

 自分にそう言い聞かせながら、章吾は視線をそらした。

(これ以上、距離を詰めたら……)

 何か、決定的に変わってしまいそうで。でも、傘の中のこの狭い世界から、出ていく勇気もなかった。

「走るぞ」

 アルジャーノンが短く告げた。

「え、いや、この傘で走るとか無理だろ」

 章吾の抗議を待たず、アルジャーノンはぐいと腕を引いた。片手で傘を支え、もう片方の手で章吾を引っ張る。雨脚はどんどん強くなり、すでに足元はぬかるんでいる。

「うわっ、すべっ──」

 その瞬間だった。章吾の足元がぬかり、バランスを崩す。倒れる、と思ったとき──

 バランスを崩した章吾の身体が傾く。反射的に伸びた腕が、彼の腰を掴んだ。

 手のひら越しに、湿った制服の下から伝わる熱。それは自分の体温ではない。彼のものだった。

「……大丈夫か」

 耳元に落ちた声は、妙に近くて、妙に熱かった。章吾は、小さく息を呑む。

 すぐに身を引いたつもりだった。なのに傘の下は狭すぎて、肩が離れない。

 目が合う。近すぎる距離。呼吸が、混ざりそうだった。

「……っ」  

 雨の音だけが、ふたりを包み込んでいた。章吾は一歩、後ろへ。
 
 顔を少しでも動かせば、触れてしまいそうだった。

 
「……」

「……」

 言葉は出なかった。代わりに、呼吸だけがやけにうるさく響く。

 アルジャーノンが、肩越しに視線を逸らす。吸い込んだ息が、浅い。
 
 校舎へ向かうあいだ、ふたりはほとんど話さなかった。濡れた芝を踏む足音と、傘の内側で交わる呼吸だけが、静かに続いていた。

 章吾がふと隣を見ると、いつもより少しだけ、気を抜いた顔。

(……やばい)

 こんなに近くて、まだ「ただのルームメイト」でいられるのか。いや──きっと、彼も。

「……すまなかった」

 ふいに、アルジャーノンが低く言った。

「は?」
「君を、無理に引っ張った。軽率だった」

 章吾は肩をすくめる。

「……別に、ケガしてねぇし」
「それでも……傷つけたくはない」

 空気が、変わった。

 章吾は一瞬、言葉を失い、苦し紛れに笑ってみせる。

「……貴族様ってやつは、責任感バカ高ぇな」
「黙れ」

ふたり同時に笑って、また黙った。

 傘の内側は狭い。どこまでが自分の鼓動で、どこまでが相手のものか、もうわからない。

 雨音も、ざわめきも、遠ざかる。

 ──こんな時間が、また来たらいい。きっと隣の彼も、同じことを思っていた。
 夜の寄宿舎は、昼間とは別の顔を見せていた。外にはまだ雨の名残があり、遠く森からフクロウの声がほうほうと響く。

 章吾は、ベッドに寝転がりながら天井をぼんやり見つめていた。隣では、アルジャーノンがデスクで本を読んでいる。

 夜の空気は、いつもよりほんの少しだけ違っていた。

 さっきの、傘の下での距離感。あの、触れたら壊れそうだった沈黙。

(……なんなんだよ、あれ)

 考えたって答えは出ない。章吾はごろりと寝返りを打った。その音に、アルジャーノンがちらりと視線を寄越す。

「……眠れないのか」
「うるせぇ。起きてるだけだ」
「どちらも同じだろう」

 投げ合う言葉は、いつも通り。なのに、不思議と胸の奥がくすぐったかった。

 章吾は、ふと窓の外に目を向けた。星はまだ見えない。
 雨雲は遠ざかりつつあるのに、空はまだ重たかった。

「なあ」

 自然と口を開いていた。

「日本って、こういうとき星が見えるんだよ。晴れたら、な」
「そうか」

 アルジャーノンは本から目を上げなかったが、指先はページをめくるのをやめていた。

 静かな夜。まだ遠い星空。

「……君は、星を見るのが好きなのか」

 アルジャーノンがぽつりと尋ねた。視線は窓の外、晴れない夜空のまま。

 章吾は、毛布を軽く握った。

「別に。好きとか考えたことねぇよ」
「なら、なぜ今、そんな話を?」
「……さあな」

 ぼそりと返し、毛布に顔を半分埋める。本当は、言葉にできなかっただけだった。

 静かな夜空に、隣に誰かがいてくれたらいい。そんな景色を、ただ思い浮かべたかった。

(なに考えてんだ、俺)

 頭を振っても、胸のざわつきは消えなかった。
 アルジャーノンは静かに本を閉じ、椅子に背を預ける。

「私も星を見る習慣はない。……だが、君となら、少しは見てみたいと思った」

 章吾は、思わず喉を鳴らした。

(おまえ……)

 そんな顔で、そんな言葉を言うな。普通、言わねぇだろう。

「恥ずかしいこと、さらっと言うよな」
「事実を述べただけだ」

 アルジャーノンは淡々と答えた。だが、その耳たぶはうっすら赤く染まっていた。

 章吾は小さく笑い、毛布を引き寄せる。

 窓の外に、まだ星はない。でも、胸の奥に小さな光が、そっとまたたいた気がした。誰にも見えない、ふたりだけの夜に。

 ごそごそと毛布を引き寄せた章吾は、それを無言でアルジャーノンに放った。

「……使えよ」

 ぶっきらぼうな声。目も合わせない。
 アルジャーノンは驚いた顔をしながら、毛布を拾い上げた。
 ふわりと漂う、章吾の微かな体温。

「私は、問題ない」
「知ってる。でも、おまえ、前に俺にかけてくれただろ」

 毛布にくるまったまま、章吾はぽつりと続けた。

「……サンキュな」

 その一言に、アルジャーノンの指先がぴくりと震えた。

(……ありがとう、だと?)

 心臓が暴れるように脈打つ。章吾が、素直に礼を言うなんて。

「当然のことだ」

 かすれた声を必死に整える。

「そういうとこ、けっこういいやつだよな、おまえ」
「……黙れ」

 滲んだ照れを、章吾が気づいたかはわからない。ただ、その傍らにいる存在だけが、アルジャーノンの世界を確かに変えつつあった。

(夜は、まだ終わらないでほしい)

 そんな願いを、誰にも知られないように胸に隠した。

 時間は、ゆっくりと流れていった。
 章吾は体を起こし、無意識のうちにアルジャーノンを見た。ちょうどそのとき、アルジャーノンも章吾を見た。

──目が、合った。

「……」

「……」

 どちらも、すぐには目をそらせなかった。まるで、何かを確かめるように。

 胸が、ひどくうるさく鳴った。

 章吾は小さく息を吐き、アルジャーノンも、ほんの少しだけまぶたを伏せた。

 そして、何も言わずに視線を外した。

 ただ、それだけ。だけど──

(……もう、前みたいには戻れねぇな)

 そんなことを思いながら、章吾は再び毛布に顔をうずめた。

 静かに、優しく、夜が更けていった。

 朝、寄宿舎に差し込む光はまだ淡く、窓の外には、ようやく雨上がりの青空がのぞいていた。

「晴れた、か」

 寝ぼけた頭でぼんやりと考える。隣のデスクでは、アルジャーノンが制服を整えていた。

 その仕草を、自然に目で追う。

 昨日までと何も変わらない。……はずなのに、少しだけ変わっていた。

「ぼさっとするな。遅刻するぞ」

「わかってる」

短く返事をして、章吾はベッドを出た。

 朝の喧騒の中に、アルジャーノンの澄んだ声が混ざっていた。それは昨日よりほんの少しだけ、やわらかい音だった。

「……悪くねぇな」

 誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。
 昼休みの校庭には、春の日差しがやわらかく降り注いでいた。

 章吾はチャドと並んで、校舎脇のベンチに腰を下ろし、黙々とサンドイッチをかじっていた。

「Hiwatari君」

 背後から名前を呼ばれ、振り返ると、整えすぎた制服を着た少年が立っていた。

 ──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。アルジャーノンの幼馴染だという。

 第一印象は、やけに整っていて、どこか冷たい。涼しい目元の奥に、かすかな棘が光るのを章吾は見逃さなかった。

「よかったら、午後の空き時間、一緒に勉強しない?」
「……は?」

 思わず視線だけで返す。

(なに、こいつ)

 口調は柔らかいくせに、妙に圧がある。誘いの裏に、何か含まれている。

 ふと目をやると、校庭の向こう、ベンチで本を読んでいる金髪が視界に入った。
 ──アルジャーノンだ。

「悪い。用事ある」

 サンドイッチの包み紙をくしゃっと握りしめて、立ち上がる。そのとき、レジナルドがぽつりと呟いた。

「君には、似合わないと思うけどね」

 視線は、まっすぐアルジャーノンに向けられていた。
 章吾は言葉を返さず、そのまま歩き出す。だけど、胸の奥に、ひとつだけ残っている想い。

(あいつの隣に、行きたい)

 そう、それだけだった。



 中庭のベンチには、まだアルジャーノンがいた。本を読みながら、章吾のほうをちらりと見たように思えたけれど、確信はない。

 まっすぐ視線を向けることができず、章吾は一度だけ深呼吸した。

「……隣、いいか?」
「好きにしろ」

 ぶっきらぼうな返事。いつもと変わらないはずなのに、どこか棘があった。

 章吾は黙って腰を下ろした。拳ひとつぶんの距離が、今日は妙に遠く感じられる。

 沈黙のまま、数秒が過ぎた。やがて、アルジャーノンが本のページを閉じ、低く問いかけた。

「──レジナルドと、何を話していた?」

 章吾は一瞬、返事に詰まった。

「勉強に誘われた。試験前だし、手伝ってやるってさ」
「そうか」

 それきり、アルジャーノンは沈黙した。その指先がわずかに本の表紙を撫でる仕草が、どこかぎこちなく見えた。

 章吾は、少し躊躇ってから口を開いた。

「おまえと、あいつって仲いいんだろ?」
「……ああ」

 アルジャーノンは、ためらわずに答えた。その声は、いつもよりわずかに低かった。

「家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から、特別な存在だった」

 言葉は整っているが、顔はこわばっていた。

 本を握る手が、ほんの少し強くなる。章吾は、その横顔をまっすぐ見ることができなかった。

(……特別、か)

 胸のどこかが、きゅっと締めつけられるようだった。

「おまえ、機嫌悪い?」

「そんなことはない」

 返ってきたのは即答だったが、言葉の端がやけに尖っていた。

 章吾は眉をひそめた。朝までは、もっと自然に話せていたのに。

「……なら、いいけど」

 それ以上、踏み込めなかった。拳を握ったまま、ただ隣にいることしかできない。

 横目でそっと見ると、案の定、目が合った。深い青。アルジャーノンの瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。

「……っ」

 慌てて視線を逸らす。
 あの目は、何を見ていたんだろう。



 放課後。古びた渡り廊下を歩きながら、章吾は首をひねる。

(……あれ、スケジュール帳、どこやったっけ)

 教室に置いたか、それとも昼のベンチか──そんなことを考えていたところで、背後から声がかかった。

「Hiwatari」

 振り返ると、制服姿のアルジャーノンが立っていた。手には、探していたあのスケジュール帳。

「……君のものか?」

「あ、悪い。気づかなかった」

 受け取った瞬間、指先に触れた水気に気づいた。彼の手が濡れている。

(……俺のこと、探してくれたのか)

 思わず胸が熱くなる。不機嫌なんかじゃなかった。あいつは、ずっと、変わらずそこにいたんだ。

「……サンキュ」

 ぽつりと漏らした声に、アルジャーノンがほんの少しだけ目を細めたように見えた。

「礼には及ばない」

 短い沈黙が落ちる。

 ──そして、

「……君が隣にいないと、多少、調子が狂うな」

 一瞬、章吾の呼吸が止まった。何も言えずにいると、アルジャーノンがふっと口元をゆるめた。

「気にするな。貴族のくせに、私は精神が脆弱なのだ」
「……は?」

 思わず吹き出しそうになりながら、肩を軽く小突く。

「おまえ、ほんとめんどくせぇな」
「自覚している」

 どちらも目を合わせなかったけれど、少しだけ笑っていた。
 ふたりの距離は、またひとつ近づいていた。
 寄宿舎の石畳を、春の風がそっとすり抜けていく。
 放課後のラウンジには、紅茶の香りが漂っていた。

 章吾はカップ片手にソファへ沈み込み、隣ではアルジャーノンが本を読んでいる。いつもの距離、いつもの空気。

 ──たった一言で、ぐちゃぐちゃにされるとも知らずに。

「なあなあ!」

 スコーンと紅茶を両手に抱えたチャドが、能天気に駆け寄ってきた。

「Shogo、アルジー! おまえらさあ──」
「……何だ、アメリカ人」
「うるさい、要件だけ言え」

 ふたりの冷ややかな応対にも、チャドは悪びれず笑った。

「おまえら、一緒にいすぎじゃね?」
「「は?」」

 声が見事に重なり、章吾はカップを傾けかけ、アルジャーノンも本をぱたりと閉じた。

「え?違うか?」
 チャドは笑いながら続けた。

「「ちがう!!」」

 即座に声を揃えて否定したラウンジには、微妙な沈黙が落ちた。

 章吾は顔が熱くなるのを感じ、アルジャーノンも微妙に耳が赤い。どう取り繕うかもわからず、ふたりはひたすら紅茶をすする。チャドはお構いなしにスコーンを頬張りながら、にやにやと眺めていた。

 たったそれだけのこと。それだけなのに、胸の奥はぎゅっと締めつけられていた。



 朝。寄宿舎はまだ薄暗い。
 章吾は毛布にくるまったまま、ぼんやりと目を開けた。

 デスクの前には、制服に袖を通したアルジャーノン。鏡の前できっちりとネクタイを締めている。──いつも通りのはず、なのに。

(……顔、合わせんの、気まずい)

 胸の奥に、妙なざわめきが残っていた。

(……ぜってー今日も、茶化される)

 そう思うと、布団の中がやけに安全に思えた。しかし、いつまでも逃げていられない。

 章吾は、ごそごそと毛布から這い出る。

「……おはよう」

「おはよう」

 また、同時だった。気まずさが音を立てるような間が流れ、ふたりは同時に視線を逸らした。

「……今日、講義サボりてぇ」

 ぽつりと漏れた本音。言い訳がましくない、それだけの気持ち。

「……私も、あまり行きたくはない」

 アルジャーノンの声もまた、小さく、低かった。

 ふたりして顔を合わせず、ぼそぼそと交わすやりとり。

 心臓は馬鹿みたいにうるさくて、息をするたび胸がきしんだ。

 沈黙のなか、アルジャーノンがそっと章吾の毛布を拾い上げる。丁寧にたたんで、ベッドの端に置いた。

「……行くぞ」
「……ああ」

 笑われるのは怖いが、ひとりでいることのほうが、ずっと怖かった。

 触れられない距離。でも、すぐ隣にいる。──それだけで、今日は少し前を向けそうだった。



 昼休みの校庭。チャドは相変わらず元気だった。

「なあなあ、放課後、みんなで街に出ね?」

 章吾は生返事で聞き流す。隣では、アルジャーノンが静かに本を読んでいた。

 そしてまた、唐突にチャドが爆弾を投げた。

「なあ! お前ら、本当に『なんでもない』のか?」

「……」

「……」

 空気が凍った。チャドはお構いなしに続ける。

「どう考えても、お似合いな気がするんだよな~」

 言葉を失うふたり。その静寂を破ったのは、アルジャーノンだった。彼は静かに本を閉じ、顔を上げずに言った。

「お似合い……?」
 わずかに間を置いて、彼は低く呟いた。

「我々の関係は──ただのルームメイトだ」

 淡々とした口調。チャドは「マジで?」ときょとんとする。

 章吾は、ぐっと唇を噛み締めた。否定しなきゃと思った。笑い飛ばさなきゃと思った。なのに、胸の奥に、鋭い痛みが走った。

(あいつは、男だぞ)

(俺は、女が好きなはずだろ)

(……普通に考えろ、俺)

 一方、アルジャーノンも、胸の奥に言葉にならない震えを覚えていた。

(私は、フォーセット家を継ぐ者だ)

(妻を娶り、子をなすべき立場だ)

(それ以外など、許されるはずがない)

 なぜ、視線を逸らせない。なぜ、こんなにも胸が苦しい。

 チャドはというと、無邪気にスコーンを頬張っめいる。まるで、すべてが冗談でできているみたいに。

 チャドは知らない。ふたりの痛みと、その動揺を。
 夜、寄宿舎。

 章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。

 毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。

 ──お似合い……?
 ──我々の関係は──ただのルームメイトだ。

 アルジャーノンの、あの冷静な台詞。

(……俺も同意すればよかった)

(なのに)

 あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。

 なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。

 隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。

 顔を上げた、その瞬間──目が、合った。

(……)

(……)

 ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。



 夜半。

 寄宿舎には、静寂が満ちていた。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。眠れなかったのだ。

 こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。

 それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。

 ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。

 小柄な体。硬さを隠した寝顔。
 どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。

(……馬鹿げている)

 私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。

 アルジャーノンは、きつく目を閉じた。

 だが、なぜだ。
 胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。
 ──守りたい。

 理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。
 そんな自分が、ひどく怖かった。

「私は、どうかしている」

 静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。



 夜明け前。
 章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。

 部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。

 寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。

 あたたかいものが、すぐそばにある気がした。

 目を凝らすと、暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。

 章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。

 なんで、そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。
 何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。

(バカか、俺)

 毛布を引き寄せて、顔を隠す。

 眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。

 静かな夜。小さな、あたたかい距離。
 
 章吾は、目を閉じながら、ぽつりと呟いた。

「……ずっと、こうしていられたらいいのに」



 朝。

 窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。
 
 章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。

 デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。

 ネクタイを締める手。
 カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。

(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)

 夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。

 アルジャーノンは、知らないふりをしている。
 章吾も、知らないふりをするしかなかった。

「……おはよう」
「……ああ」

 章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。

「……今日、天気悪そうだな」
「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」
「ふーん」

 何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。

本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。



 夕方。

 寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。
 寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。

 会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。

 ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。

(でも……触れたい)

 歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。

 肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。

(でも、ダメだ)

(あいつは、男だ)

(それに──)
 
 ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。

 いつもの姿。──のはずだった。

 ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。

 章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。

(……だめだ)

(これ以上、近づいたら)

 自分が、どうなるかわからなかった。
 章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。

 同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。

 ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。

 心だけは、必死で叫んでいた。

 君に、触れたい。

 その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。
 昼休み、寄宿舎の裏庭。

 章吾は、ベンチに腰かけ、スマホを手のひらでいじくり回していた。

「……なあ、チャド」

「ん? なんだよ、ブラザー!」

 陽気なアメリカン、チャドがにこにこ顔を向ける。
 章吾は、少し顔を赤らめ、低く続けた。

「……彼女、作りてぇんだけど」

 チャドは目を丸くした。

「マジか! いいじゃん!……でも、本当に『彼女』がほしいのか? 」

 一瞬、間が空いた。

「ほ、ほしい。だから、アプリとかないのかよ」

 章吾はスマホを握りしめる。必死だった。自分に言い聞かせるように。

(俺は……ふつうだ。女が好きなんだ)

 あいつに惹かれてなんか、いない。だから、証明しなきゃ。

 チャドは嬉々としてスマホを取り出す。

「これ、超オススメのマッチングアプリな。恋愛なら俺に任せとけ。とにかく行動あるのみだ!」

「マジか」

 章吾もスマホを開き、画面を覗き込んだ。その瞬間だった。

 背後から、ひやりとした声が飛んだ。

「何をしている?」

 振り返ると──アルジャーノンが、蒼い瞳でじっと立っていた。


 アルジャーノンは、静かに歩み寄ってきた。

 制服の上着が風に揺れる。佇まいは端正だが、足取りには苛立ちがにじんでいた。

「……Hiwatari」

「な、なんだよ」

 章吾はスマホを慌てて背中に隠した。まるで悪いことをした子供みたいに。

 アルジャーノンは一歩、ぐっと踏み込んだ。

 目が合った瞬間、章吾は息を呑む。その蒼い瞳には、見たこともない怒りが宿っていた。

「未成年だろう。マッチングアプリは禁止だ」

 ぴしゃりとした口調。冷静な言葉なのに、どこか焦りが混ざっている。

(……なに、マジギレ?)

 章吾はまばたきした。その横でチャドが小声で呟く。

「お、おい……アルジー、超マジ顔だぞ……」
「……別に、ただ彼女作りたかっただけだろ」

 章吾がぼそっと言い訳すると、アルジャーノンの眉がびくりと動いた。

「……愚か者め」
「な、なんだよ!」
「君が……そのような、見ず知らずの相手に身を預けるなど──あってはならない」

 声が少しだけ上ずっていた。普段の彼からは想像もつかない動揺が、滲んでいた。

「知らない相手にそそのかされたら、どうする。
 そのような者に、君を傷つけさせるわけにはいかない」

 一瞬、口をつぐむ。

「それでもまだ、『誰でもいい』なんて言えるのか?」

 章吾は、ごくりと喉を鳴らした。叱られているはずなのに、どこか、胸が締めつけられた。

「……なんで、そんな真剣なんだよ」

 その問いに、アルジャーノンの唇がわずかに震える。何かを言いかけて、やめたように見えた。

「君は……そんなもので、心を与えるべき人じゃない」

「は?」

「君には、もっと大事にしてくれる人が──」

 言いかけたところで、アルジャーノンは目を逸らした。ほんのわずか、耳が赤くなっていた。

 章吾の胸が、どくんと跳ねる。

(……なんだよ。なにを言いかけたんだよ)

「……俺、別に誰でもいいわけじゃないし」

 そう呟くと、アルジャーノンの肩がふっと緩んだ。

「ならば……最初から、やめてくれ」

 その声音は、さっきよりも少しだけ、優しかった。
 章吾はスマホをポケットにしまいながら、呟く。

「わかったよ。もうやんねぇよ、マッチングアプリなんか」

 アルジャーノンは、どこか安堵したように息を吐いた。

「当然だ」

 そう言った彼の耳は、やっぱり赤かった。

「……嬉しそうな顔すんな」

 章吾が言うと、アルジャーノンは少しだけ顔を背けた。

「嬉しくなど、していない」

「嘘つけ。耳、真っ赤だぞ」

 否定はなかった。その仕草が、何より雄弁だった。

 章吾は、思わず小さく笑った。

(……やっぱバカだ、俺)

 言い合ってばかりなのに、どうしてこんなふうに、心が温かくなるんだろう。



 夕暮れの校庭。

 ふたりは、特に言葉もなく並んで歩いた。章吾は、心の中で呟く。

(……ま、別に。悪くないかもな)

 すると、アルジャーノンがちらりとこちらを見た。章吾は慌てて目を逸らす。

「……変な顔すんな」

「失礼な。君の顔ほどではない」

「は?」

 軽く小突きあいながら、ふたりの歩幅は、自然とぴたりと揃った。

 傾いた夕陽が、ふたりの影をそっと重ねた。 
「Hiwatari。君に伝えておくことがある」

 昼食後の時間、アルジャーノンは静かにそう切り出した。

「なんだよ。昼休みに説教か?」
「違う、音楽の先生に言われた。君に、『やってみたい楽器はないか』と。個人音楽レッスンは必修なのだ」

「はぁ? めんどくせぇ」

 章吾は気だるげにそっぽを向く。アルジャーノンは動じず、軽く顎で音楽棟の方を示した。

「行こう。どうせ暇だろう」
「おい、引っ張んなって……って、うわ、腕っ……!」

 音楽室に着くまでに、三度章吾は「帰っていい?」と聞いた。アルジャーノンはすべて無視した。


 室内にはグランドピアノと、整然と並んだ譜面台。 その真ん中に置かれた長椅子に、章吾はふてくされたように腰を下ろした。

「ピアノはどうだ?」

 と、アルジャーノン。

「まあまあかな」

 章吾は肩をすくめ、無造作にピアノに手を置いた。 そして、何の前触れもなく──音が溢れ出す。

 指が鍵盤の上を滑るたび、部屋の空気が震えた。

 アルジャーノンは言葉を失った。

「……君、本当にそれ、独学か?」
「まーな。レッスンは子供のころ受けたけど」

 さらりと答える章吾に、アルジャーノンはますます眉をひそめた。

「……お前も、弾いてみろよ」
「ならば、私はヴァイオリンを弾こう」

 そう言って、アルジャーノンは静かに棚からヴァイオリンを取り出した。

 アルジャーノンは黙って、構えた。音が、弦からこぼれ落ちる。

 エルガーの『愛の挨拶』。

 そのやさしい旋律が、音楽室に満ちていく。 章吾は吸い込まれるようにその音に耳を傾けた。

「いいじゃん。教えて」

 その一言に、アルジャーノンの指がふと止まる。

「……私がか?」

「うん。今、弾いてみたい」

 アルジャーノンは少しだけ目を伏せ、ヴァイオリンを差し出した。

「では──構えはこう。右手は弓、左手はネックを支える。そう、そこ……」

 ふたりの距離が、ぐっと近づいた。アルジャーノンの手が、そっと章吾の手を導く。温かい指先が、弓の握り方を教えるように触れる。

「こう。……力を抜いて」
「ち、近くね?」
「君の握りが不器用だからだ」

 からかいのような、真面目なような口調。
 しかし章吾の心臓は、先ほどからずっと落ち着かない。

 耳元で響く低い声。わずかに触れ合う肩と肩。

 そして、アルジャーノンが後ろから腕をまわすようにして、構えを整えた瞬間だった。

 章吾が顔を上げる。
 アルジャーノンも同時に、章吾の手元から顔をのぞき込む。

 ふたりの顔が──ほんの数センチのところで、止まった。

 視線が重なる。息が、かかった。

(……えっ)

 どちらともなく、呼吸が止まる。このまま、ほんの少し動けば、唇が……!
 アルジャーノンの蒼い瞳が、すぐそこにあった。章吾の目が見開かれる。

「っ……すまない!」

 先に離れたのは、アルジャーノンだった。距離を取るように一歩下がり、ヴァイオリンをきゅっと抱え込む。

「ご、ごめん……!」

 章吾も弓を置き、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。

 音楽室の空気が、しん、と静まり返る。雷の前のような、張り詰めた静けさだった。


「……その、弾きたいって言ったの、取り消してもいい?」

 沈黙を破ったのは、章吾だった。

「いや。教えよう」

 意外にも、アルジャーノンの声は落ち着いていた。が、その耳はほんのりと赤い。

「さっきのは……事故だからな」
「わかってるよ」

 目を合わさずに言い合うふたりは、まるで何かの稽古のようにぎこちない。だが、その空気は少しずつ和らいでいく。


「もう一度、構えからだ」

 アルジャーノンが再び後ろに立つ。章吾は頬を赤らめながらも、素直に身を預けた。

「右肩にヴァイオリンを乗せて。左手は指板を支えて」

 低い声が、背後から優しく響く。少し前とは違う。指導の声には、ほんのわずかな微笑みが混じっていた。

「こうか?」

「……悪くない」

 章吾の手元に、アルジャーノンの長い指がそっと重なる。弓の木肌ごしに、彼の体温がにじんだ。

 指が、そっと弓を導く。

 弦を擦った瞬間、小さな音がふるえた。不格好でも、それは「ふたりで出した最初の音」だった。

「お、出た……!」

 章吾が小さく笑った。アルジャーノンも、その横顔を見て、ふっと息をついた。

(……この人は、本当に掴みどころがない)

 だからこそ、離したくないのかもしれない──そんな思いが、胸の奥に灯った。



「……さっき、あぶなかったな」

 章吾がぽつりと呟いた。

「……何がだ」
「……わかってんだろ。あと少しで、唇、ぶつかってた」

 アルジャーノンの手が止まる。

「……君は、気にしているのか?」

 章吾は苦笑した。

「するだろ、ふつう」
「そうか」
「……お前は、しないわけ?」

 問い詰めるような章吾の声に、アルジャーノンは言葉を詰まらせた。

「……した。気にしている」

 ふたりの間に、また沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどよりもずっと柔らかかった。

「ま、事故だしな」
 章吾が、ぼそっと言う。

「事故、か」
 アルジャーノンはヴァイオリンをケースに片づける。

「……でも、悪い気はしなかった」
 その言葉に、章吾の手がピクリと動いた。

「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」
「事実だからな」

 どこか照れくさそうに、アルジャーノンはケースを棚に戻す。

「また弾きたいと思ったら、いつでも来るといい」
「勝手に開放していいのかよ、音楽室」
「私の名前を出せば、問題ない」
「……お前、便利だな」

 ふたりは肩を並べて部屋を出た。

 廊下の窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。さっきまでの張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。


 礼拝堂の鐘が、遠くで鳴った。次の授業が始まるまで、あと数分。

「……なあ」

 章吾がぽつりと声を上げる。

「ん?」
「今日、……たのしかった」
 アルジャーノンの足が、一瞬止まる。そして振り返り、章吾を見る。

「私も、だ」
 
 章吾は照れ隠しのように鼻をこすり、先に歩き出す。

「……また教えろよ」
「もちろん」

 その返事が聞こえてくると、どこかくすぐったくて、うれしくなった。
 
 音楽室の出来事は、誰にも話さない。

 ふたりだけの、ちょっとした「秘密」として、胸にしまっておこうと思った。

 厚い雲の切れ間から差す光が、さっきの弓の一音を思い出させるように、ふたりの肩を照らした。
 ──女の話なのに、どうして、あいつの顔が浮かぶんだ。

「なぁ、Shogo!昨日、彼女がベッドでさぁ〜……」

 チャドの能天気な声が、談話室中に響き渡る。空気が、ぴきりと張り詰めた。

 周囲にいた生徒たちが、ちらりとこちらを見て、小さく笑う。

 章吾はカップを持つ手をぎゅっと握りしめた。
 震える指先。顔が真っ赤になるのが、自分でもわかった。

「マジで赤いな」「アジア人って純情だよな」
 無神経な囁き声が、ぐさりと胸に刺さる。

 ほんの一瞬、映像が頭に浮かんだ。ベッドの上、頬を染めた──アルジャーノンの姿。

(……なっ)

 脳が真っ白になった。なんでだ。なんで、あいつなんだ。女の子を想像しろよ。そう言われたのに。

 浮かぶのは、金髪と蒼い瞳。ネクタイを緩めた、あの穏やかな横顔。

(やめろ!!)

 絶叫するような気持ちを抑えきれず、章吾はカップを机に叩きつけた。
 大きな音が、談話室に響く。

 また、ざわりと視線が集まった。

 そのときだった。

 静かに、椅子が引かれる音。

 章吾が顔を上げると、無表情のアルジャーノンが立っていた。凍りつくような蒼い瞳。

 無言でチャドに歩み寄る。

「……君には、品というものがないのか?」

 静かな声だった。それでいて、空気を凍らせるほど冷たかった。

 チャドが肩をすくめる。

「いやいや、Shogoがかわいくって、つい……」
「他人を辱しめて笑いものにするなど、紳士のすることではない」

 ぴたりと、談話室の空気が止まった。チャドは蒼白になり、逃げるように去っていく。

(……なんだよ、あいつ)

 ──俺を、助けてくれた。
 胸が、ざわざわした。

 無意識に、隣に立つアルジャーノンを見上げた。彼は、紅茶のカップを持つ指も、姿勢も、すべてが端正で整っていた。

 でも、目が合いそうで合わない。それは、わざとなのか、偶然なのか。

 章吾には──分からなかった。

 ──談話室にひとり残されたアルジャーノンは、カップを見つめたまま、動かなかった。

 指先で、そっと縁をなぞる。

(……君は、私を壊す)

 誰にも届かない声が、胸の奥で響いていた。