──その日、空は嘘をついていた。
 降らないふりをして、ふたりを、傘の下へ押し込めるために。

「午後からガーデンパーティ開催だってさ!」
 チャドが、朝食のソーセージをもぐもぐしながら叫んだ。

  「ふーん」と章吾が他人事のように流していると、アルジャーノンが当然のように付け加えた。

「伝統行事だからな。参加は必須だ」

 紅茶の香りがふわりと立った。
 英国の伝統行事。紅茶。古城の庭園。悪くない。
少なくとも、日本では体験できなかった空気が、そこにはある。

「当然だが、君も私と同伴だ」
「は?」
「別々に動いても、我々『ルームシェア中』だろう。目立つからな」
「……めんどくさ」とは言いつつも、章吾は断らなかった。

 結局、今日もまた、「ふたりきり」の時間を過ごすことになる。
 灰色の、重たい雲が空を覆っていた。



 ガーデンパーティが始まったのは、昼を少し過ぎたころだった。

「さっきから、やたら視線感じるんだけど」

 章吾がぼそっと呟いた。アルジャーノンは、腕を組んだまま視線を巡らせる。

「当然だ。我々は異色の組み合わせだからな。君が日本人で、私が王室奨学生。目立つのは仕方がない」
「それにしたって、ジロジロ見すぎだろ……」
「君が不用意に目立つからだ」
「俺のせいかよ」

 そんなくだらない言い合いをしているときだった。

「あの……!」

 背後から、控えめな声が聞こえた。声をかけてきたのは、近隣の女子校の生徒だった。栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女。

「これ、落としました……」

 彼女が差し出したのは、章吾のスケジュール帳だった。どうやらポケットから落ちたららしい。

「あー、サンキュ。助かった」

 受け取って、軽く頭を下げる。少女は、少し顔を赤らめた。

「もしかして、日本人の方ですか?遠い国なのにすごいなあって……」
「え?」

 章吾は素で戸惑った。それを──横で見ていたアルジャーノンは、内心をざわつかせていた。

(……何を、当然のように話しかけている)

 視線が無意識に鋭くなるのを、自分でも止められなかった。
 少女はそれに気づいたのか、きゅっと身をすくめた。

「あ……す、すみません!邪魔してごめんなさい!」

 言うなり、彼女は足早に立ち去っていった。
 取り残された章吾が、苦笑まじりに肩をすくめる。

「なんか、悪いことしたかな」
「……知らん」
 冷たく答えた自分自身に、アルジャーノンは顔をしかめた。

 君は、私の隣にいるべきだ──そんな言葉が、喉の奥まで上ってきた。だが、それを口に出すことは、できなかった。




 ぽつ、ぽつ、と。空から、冷たい粒が落ちてきた。

「……来たな」

 章吾がぼそっと呟く。
 曇っていた空は、ついに限界を迎えたらしい。あっという間に、細かい霧雨が庭全体を包み始めた。

 生徒たちは、ざわめきながらテントや校舎へと走り始める。

 章吾は上着のポケットをまさぐった。が、傘なんて持っていない。

「おい、おまえは?」
「当然だ。英国紳士たるもの、備えは怠らん」

 そう言うと、アルジャーノンは背筋を伸ばして、優雅な仕草で小さめの黒い傘を広げた。

 ぱさり、と開いた傘は、章吾ひとり分の体をぎりぎり覆えるかどうか、というサイズだった。

「……ちっさくね?」
「紳士用は本来これが標準だ。むしろ合理的だろう」
「合理性とかいらねぇから。びっちょびちょだろ」
「文句を言う暇があるなら、早く入れ」

「はいはい」
 章吾はため息まじりにアルジャーノンの隣に滑り込んだ。当然、距離は近い。

 肩がわずかに触れる。互いの体温が、じわりと傘の内側にこもる。

「近すぎだろ……」
「この傘の半径では、これが最適解だ。文句を言うなら濡れるがいい」
「言い方がムカつくな」
「それは君の心が未熟だからだ」

 そんなやり取りをしていても、章吾はふと、アルジャーノンの横顔に目を奪われていた。

 少し濡れた金髪。まっすぐな鼻筋。光をたたえた青い瞳。

 ……雨のせいだ。こんなに綺麗に見えるのは、たぶん、雨のせいだ。

 自分にそう言い聞かせながら、章吾は視線をそらした。

(これ以上、距離を詰めたら……)

 何か、決定的に変わってしまいそうで。でも、傘の中のこの狭い世界から、出ていく勇気もなかった。

「走るぞ」

 アルジャーノンが短く告げた。

「え、いや、この傘で走るとか無理だろ」

 章吾の抗議を待たず、アルジャーノンはぐいと腕を引いた。片手で傘を支え、もう片方の手で章吾を引っ張る。雨脚はどんどん強くなり、すでに足元はぬかるんでいる。

「うわっ、すべっ──」

 その瞬間だった。章吾の足元がぬかり、バランスを崩す。倒れる、と思ったとき──

 バランスを崩した章吾の身体が傾く。反射的に伸びた腕が、彼の腰を掴んだ。

 手のひら越しに、湿った制服の下から伝わる熱。それは自分の体温ではない。彼のものだった。

「……大丈夫か」

 耳元に落ちた声は、妙に近くて、妙に熱かった。章吾は、小さく息を呑む。

 すぐに身を引いたつもりだった。なのに傘の下は狭すぎて、肩が離れない。

 目が合う。近すぎる距離。呼吸が、混ざりそうだった。

「……っ」  

 雨の音だけが、ふたりを包み込んでいた。章吾は一歩、後ろへ。
 
 顔を少しでも動かせば、触れてしまいそうだった。

 
「……」

「……」

 言葉は出なかった。代わりに、呼吸だけがやけにうるさく響く。

 アルジャーノンが、肩越しに視線を逸らす。吸い込んだ息が、浅い。
 
 校舎へ向かうあいだ、ふたりはほとんど話さなかった。濡れた芝を踏む足音と、傘の内側で交わる呼吸だけが、静かに続いていた。

 章吾がふと隣を見ると、いつもより少しだけ、気を抜いた顔。

(……やばい)

 こんなに近くて、まだ「ただのルームメイト」でいられるのか。いや──きっと、彼も。

「……すまなかった」

 ふいに、アルジャーノンが低く言った。

「は?」
「君を、無理に引っ張った。軽率だった」

 章吾は肩をすくめる。

「……別に、ケガしてねぇし」
「それでも……傷つけたくはない」

 空気が、変わった。

 章吾は一瞬、言葉を失い、苦し紛れに笑ってみせる。

「……貴族様ってやつは、責任感バカ高ぇな」
「黙れ」

ふたり同時に笑って、また黙った。

 傘の内側は狭い。どこまでが自分の鼓動で、どこまでが相手のものか、もうわからない。

 雨音も、ざわめきも、遠ざかる。

 ──こんな時間が、また来たらいい。きっと隣の彼も、同じことを思っていた。