夜。

 談話室の空気は、日中の熱気をわずかに残しながらも、どこか冷たかった。

 章吾は、革張りのソファに沈みこみ、天井をぼんやり見上げていた。

 照明の灯りもまばらで、薄暗い空間には、置きっぱなしの雑誌や空き缶だけが散らばっていた。

(……バカみてぇだ)

 喉の奥で笑って、傍らのテーブルに手を伸ばす。

──“CIDER”

 ラベルの涼しげな色彩。深く考えずにプルタブを引いた。
 シュッと空気が抜ける。

 ごくり、ごくり。
 炭酸が喉を滑り落ちていく。

(……ちょっと、苦い)

 そう思ったけれど、構わずもう一口。
 何もかも、どうでもよかった。
 誰にも求められていない気がして。 

 ふと、視界が傾いた。頭がぼうっと熱い。足元がふらつく。

(……あれ?)

 手にした缶を見つめる。

 ──“CIDER”

 イギリスでは、それは立派なアルコールだと、思い出すにはもう遅かった。

 ソファに崩れるように体を預ける。顔が熱い。心臓が、うるさい。

(……だっせぇ)

 かすかに笑った。どうしてこんなことになったのか。きっと、ぜんぶ、あいつのせいだ。

「……Hiwatari?」

 背後から聞こえた声。ゆっくり顔を向けると、淡い金髪を揺らすアルジャーノンがいた。

「あー……アルジー?」

 口調は緩く、舌が回っていなかった。

「君……酔っているのか?」
「サイダー……飲んだ」

 章吾は、にへらと笑う。笑いながら、そのまま寄りかかる。
 アルジャーノンの胸元に、額が触れる。

「おい、しっかりしろ」
「うるさい……」

 章吾は、ふらりと手を伸ばし──
 制服の胸元を掴んで、引き寄せた。

 そのまま、頬へと唇を寄せる。

 一瞬、世界が止まった。
 炭酸の残り香と、柔らかな感触。

 触れた、というより、ぶつけた。理性も、言葉も、全部、放り投げて。

「……すき、だったのに」

 ぼそりと落ちた一言が、アルジャーノンの心臓を凍らせた。呼吸が止まる。

「Hiwatari……っ」

 反射的に、章吾を突き放した。

 章吾は尻もちをつき、床にへたりこんだ。見上げる視線が、酔いで濡れていた。

 その中には、かすかに「わかっていた」諦めがあった。

「……な、にをするんだ」

 掠れた声。

 アルジャーノンは震える手を見つめる。何かを叫びそうになって、喉を閉ざした。

「君は……君は、何を……」

 言いかけて、言葉が崩れた。額に浮いた汗が、一滴、床に落ちる。

 拳が宙に浮かぶ。章吾は目を閉じた。

(殴られる)

 そのとき──

「……っ!」

 手のひらが打たれたのは、アルジャーノン自身の頬だった。

 パチン。乾いた音。

「落ち着け、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」

 名を名乗ったその声は、震えていた。

「君には、怒っていない……」

 そして、踵を返す。章吾を振り返らずに、扉を開けて出ていく。閉じた音が、冷たく部屋に響いた。

 章吾は、床に座り込んでいた。
 目の奥が熱く、泣くに泣けなかった。

(……叩かれたわけでもないのに)
(どうして、こんなに痛いんだ)

 自分からぶつけたくせに、予想通りの拒絶に、心が空になっていく。




 そして──そのすべてを見ていた、ひとりの影が。

 レジナルド。暖炉の火の前で、ただ静かに目を閉じていた。

「……アルジー」

 声にならない呼びかけ。

「君が誰を見ていても、構わない。でも」

「僕は、ずっと君を見ていたんだ」

 静かに揺らぐ炎は、彼の心をなだめていた。