ロンドンの夏は、思ったよりも涼しい。

 日暮れにはまだ早い午後。光を受けた建物の壁が、白く眩しく輝いている。

 そんな街角に、ひとり立ち止まる姿があった。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。

 彼の視線の先には、ロイヤル・アッシュ。王侯貴族御用達の老舗宝飾店だった。

(──これなら)

 慎重に思いを込めて、アルジャーノンはショーウィンドウにそっと指を伸ばした。

 きらめく細工。控えめで上品な輝き。

(彼に、似合う)

 微かな笑みが、彼の唇をかすめた。迷いはなかった。

 この気持ちを形にするなら、これしかないと思った。

 アルジャーノンは、息を整え、店内に足を踏み入れる。

 ベルの音が軽やかに響いた。そして、静かに店員に告げる。

「──こちらの指輪を、見せていただけますか」

 まるで運命に、そっと手を伸ばすように。

 その数メートル先。

 カフェのテラス席に座っていた男が、その光景を目撃していた。

 レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 彼は、細めた目越しに、すべてを見ていた。

 それから……すくりと立ち上がった。
 目指すはあの日本人、Shogo Hiwatari。

 ただひとつ、冷たい策略だけが動き始めた。



 週末の午後。寄宿舎の廊下を歩いていた章吾は、角を曲がった先でふと足を止めた。

(……ん?)

 先を行く誰かの背中。金色の髪。細身の制服。

 アルジャーノン。

 でも、どこか様子が違う。彼は周囲を気にするように振り返りながら、小さな箱を抱えていた。

 光沢のある包装紙。リボンで丁寧に結ばれた、きれいな四角。

(……なにあれ?)

 章吾は、思わず柱の影に隠れてしまっていた。

 アルジャーノンは箱を胸に抱えながら、誰にも見られたくないような様子で、階段を下りていく。

(プレゼント……?)

 気づかれないようにそっと後を追ったが、途中で人の気配に紛れ、彼の姿は見えなくなった。

 ──残されたのは、自分の胸に残る、妙なざわめきだけ。

(誰に渡すんだよ、あれ)

 胸の奥で、小さな棘が疼く。確かめたくても、確かめられない。問いただす資格なんて、自分にはないから。

 ──ただのクラスメイトなら。

 ──ただの寄宿舎のルームメイトなら。

 こんなふうに、気になって仕方ないなんて、ありえない。

 章吾はそっと自分の胸を押さえた。



 夕方。
「Hiwatari君。ちょっといいかな?」

 声をかけられたとき、章吾は中庭のベンチでぼんやりしていた。

 振り返れば、そこには、見慣れたブラウンヘアの少年──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 柔らかな笑みの裏で、彼の目はどこか遠くを見ていた。 

「アルジーは昔から特別だった。けど、僕には彼を幸せにする力がない。だから、せめて……」

 彼はポケットに手を突っ込み、言葉を呑んだ。

「……なに?」

 章吾はそっけなく返す。

 一方、レジナルドは気にも留めず、隣に腰を下ろした。

「君、アルジーと……ずいぶん親しそうだよね」

 レジナルドの声は軽いけれど、指がポケットで震えている。

 章吾は目を細めた。何だ、この違和感。

「彼、もうすぐ婚約するらしいよ。ロイヤル・アッシュの令嬢と」

 ──時が、止まった。

「……は?」

 章吾は、反射的にレジナルドを見た。

「噂だよ。ロイヤル・アッシュ家の令嬢とね。家柄も、資産も申し分ない」

 言葉の途中で、ほんの一瞬、声が引っかかった。レジナルドの視線が、芝生に落ちる。

「さっき、ロイヤル・アッシュで何か買ってたみたいだし」

 笑顔が、貼りつけたみたいに不自然だ。章吾の胸がざわついた。

「嘘、だろ」

 掠れた声に、レジナルドが肩を小さくすくめる。

「まあ、君には関係ない話かもしれないけど」

 章吾の視界が、ゆらりと揺れた。

 ロンドンの夏の空は、まだ明るい。

 それに対し胸の奥に落ちた影は、どうしようもなく濃かった。



 それから数日。

 どこか、様子がおかしい気がしていた。

 アルジャーノンはいつも通りに話すし、表情も変わらない。

 だが──ふとしたときに視線がぶつかると、彼はほんの一瞬だけ、目を伏せる。

 章吾の脳裏に、あのときの「箱」が浮かぶ。

(あの箱……やっぱ、誰かに渡したのか?)

 まさかと思いつつも、頭の中では勝手に想像が広がっていく。

 そして甦ったのは、彼の父親への一言。

 ──「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」

 遠い日の記憶が、再び章吾の胸をえぐる。

 優しさも、笑顔も、ただの同情に見えてくる。そんなやつじゃないって、知っているのに。

(だったらもう……)

 章吾は、机に突っ伏した。何も考えたくなかった。でも、考えずにはいられない。どうして、こんなにも、目が離せないんだろう。

 頭の中では、もうずっと、あいつのことしか浮かばなかった。



 寄宿舎の裏庭にある小さなベンチ。
 章吾は、ひとりそこに腰を下ろしていた。

 低い雲がゆっくりと流れていく。

 頭の中では、何度もあの顔がよぎっていた。

 アルジャーノンの、曖昧に逸らされたまなざし。      
 笑わない唇。
 遠ざかっていく気配。

(……もう、無理なんじゃねぇか)

 そんな声が、胸のどこかで囁いていた。

 ──コトン。

 突然、冷たいものが膝の上に置かれた。
 見れば、缶のコーラ。

「ほい。Shogo、甘いの好きだったよな?」

 チャドだった。やけに軽い調子で、隣に座る。

「……何、急に」

「いや、見てらんないからさ」
 彼は肩をすくめた。

「な、Shogo。俺、イギリス来てもう半年だけど、ヘンリー・フォードの言葉だけは今でも覚えてんだ」

 章吾は、ちらと目を向ける。

 チャドはコーラを開けて、喉を鳴らしたあとで、ぽつりと口を開いた。

「“Indecision is often worse than wrong action.”
──決断しないことは、間違った行動よりタチが悪い」

「……なに、それ」

「つまりは、そういうこと。動けるうちに、動いとけって話」

 どこか他人事みたいに言って、チャドは立ち上がる。

「じゃ、俺は先帰ってるわ。……で、Shogo。あいつのこと、ほんとに好きならさ」

 振り向いたその顔は、思いのほか真剣だった。

「勝手に終わらせんなよ」

 章吾は、その背を見送ることしかできなかった。

 そして──胸の奥が、ゆっくりと、疼きはじめていた。


 チャドの背が見えなくなったあとも、章吾はしばらく動けなかった。

 手に持った缶のコーラはぬるくなり、握る指先だけが冷たかった。

(勝手に……終わらせんな、か)

 呟いた言葉が、胸のどこかで跳ね返る。

(でも……終わったのかもしれない)

 最近のアルジャーノンは、視線を逸らす。

 いつものように近づいても、どこか間がある。

 あれだけまっすぐだった目が、どこか戸惑っていた。

 ──まるで、自分の気持ちが重荷になったみたいに。

(……それでも、俺、好きなんだよ)

 ふいに、記憶がよみがえる。中庭で見かけた、あの姿。

 箱を抱え、誰にも見られないように歩いていた後ろ姿。

(……なあ、あれって)

 ひとつの可能性が、静かに胸を打つ。

(だったら)

 章吾は、缶を芝の上にそっと置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 胸の奥で、まだぐらぐらと何かが揺れている。でも、それでも。

(走って、ぶつける。怖くても、伝える)

 ──そう決めた瞬間、足が自然と前へと動き出していた。



 回廊の角を曲がった瞬間、視界の端で金色の光が揺れた。

 アルジャーノン。彼もまた、ひとりで歩いていた。肩越しに差し込む光に、髪がふわりと透けていた。

「……Hiwatari?」

 声が届いた瞬間には、もう、止まれなかった。

 章吾はそのまま、正面から歩み寄る。胸の奥で、何かがごうごうと燃えている。

(止まんなくていい。もう、止まりたくない)

 言葉にすれば、何かが壊れるかもしれない。

 でも、言わなければ──本当に、何も手に入らない気がして。

 章吾は、一歩、踏み出した。

「おい、アルジャーノン」

 呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいだった。でも、もう引き返せなかった。

「……お前、本気で、それでいいのかよ」

 静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。一瞬、アルジャーノンの瞳が揺れる。

「……何のことを──」

「ロイヤル・アッシュの婚約話だよ!」

 ぶつけるように叫んだ。声が裏返って、自分でも驚いた。

「そんなの……絶対に、嫌だ」

 心臓が暴れている。何をどこまで伝えたくて叫んでるのか、自分でももうよく分からなかった。

 ただ、言わなきゃいけないことが、確かにあった。

 拳を握り、唇を噛む。

 消えない想いが、胸の奥から、溢れ出した。

「俺……」

 言葉が、つっかえて出てこない。喉が焼けるように熱いのに、声だけが遠かった。

「俺、お前がいないと、ダメなんだよ……」

 やっとの思いで吐き出した声は、涙の味がした。声も、手も、足元も震えてる。

 それでも、伝えたかった。

「好きだって、言ってんだよ」

 絞るような声だった。情けないくらいに、弱くて、不器用で、まっすぐな言葉。

 アルジャーノンの顔が、揺れていた。

 何かを言いかけて、言葉を呑み込むような目をしていた。

 沈黙が、重くのしかかる。

「……もういい。言ったから、それでいい」

 そう言い捨てて、章吾は背を向けた。
 逃げたかった。自分の感情からも、あの目の意味からも。

 背を向け、走り出す。目の奥が熱かった。泣きたくなんかないのに、顔がどうしようもなく歪んでいた。

 廊下に、足音が響く。

「Hiwatari!」

 寮の自室まで一気に駆け上がり、扉を閉める。肩で息をしながら、鍵をかけ、背中でドアを支えた。

 ノブが揺れる。

「……Hiwatari。話を……」

「帰れ!」

 叫んでしまった。

 しばらくして、足音が遠ざかる。

 部屋に残されたのは、呼吸の音と、ひとり分の鼓動だけだった。

(バカだな、俺……)

 ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かないまま、薄暗い部屋に落ちていった。