ルームメイトは貴族様 ー俺たちは雷で結ばれたー

 放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。

 向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。

「……で?」
 壁にもたれながら章吾は睨みつける。

 レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」

「まあな」
 冷たく返したが、心の奥はざわついていた。

 レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。

「君も、同じでしょ?」

 一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」

 かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。

「なら、共闘しようよ」
「は?」
 思わず聞き返す。

「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
 ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。

 静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」

 レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」

 風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。



 寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。

 章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。

 画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。

 パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
 数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。

「……ここだな」
 低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。

「まずいな、これは」
 レジナルドがぽつりと言った。

 さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。

「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
 章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」

「ちょっと待って。この画像、反転してる」
 レジナルドが、気づく。

「そうか。もう1回、画像検索だ」

 章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。

 結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。

 絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。

「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
 冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」

 章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
 口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。

 ──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。



 夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。

 目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。

 画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。

「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
 静かな、冷えた声。

 章吾は一瞬目を伏せた。
 ──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……

 しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。

「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
 レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。

(こいつ……!)
 章吾の額に、一筋の汗がつたった。

 蒼い目が、章吾を捉える。
 重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。

 それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。



 レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。

「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」

 独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。

(……嫌われた、か)

 章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。

 こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。

 自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。



 その日の夜。

 章吾の部屋に、ノックの音が響く。

 あいつだ。章吾の心は知っていた。 

 心臓の鼓動が早くなる。

(……あいつは、俺に何て言うかな)

 汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。

 ──そこには、アルジャーノンが立っていた。

「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
 瞬間、章吾は目を見開いた。

(俺のことを、信じている)

 胸が熱い。苦しい。

「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
 アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
 
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
 かすれた声で、絞り出すように言った。

「Hiwatari、それはどういう──」
 言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。


 小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。

 音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。

 まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。

 頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。

 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。

(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)

 答えは、どこにもなかった。





 深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。

 胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。

(Hiwatari)

 あのときの声が耳にこびりついて離れない。

『お前に結婚なんてしてほしくない』

 たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。

 かすれた声で、
「Shogo……」

 呼んでしまった。

 瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。

「……な、なにを。私はいったい──」
 もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。

 Shogo──

(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)

 震える手で毛布をぎゅっと掴む。

 夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。
 朝の寄宿舎。

 章吾は、ネクタイを結びながら鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。
 目の下の隈が、ひどく濃い。昨夜、ほとんど眠れなかった。

(……あいつ)

 思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと軋む。昨日、口にしてしまった言葉が、耳の奥で繰り返される。

「お前に結婚なんてしてほしくない」

 言ってしまった。もう、ごまかせない。

 ネクタイの結び目を思いきり締めたせいで、喉が詰まる。それでも緩める気にはなれなかった。

 ──戻れない。そんな気がしたから。

(俺は……)

(あいつを、諦めたくない)

 それだけは、はっきりしていた。
深く息を吐いてジャケットに袖を通し、ドアを開ける。

 一度歩み出した足は、決して止まらなかった。



 ロビーの隅。章吾はソファに座り、教科書をぱらぱらとめくっていた。……フリだった。内容なんて頭に入ってこない。

 原因は、目の前でコーラをちゅーちゅー吸いながら、ニヤニヤしているチャドだ。

(……なんだよ、あいつ)

 ちら、とだけ目を向ける。睨んだつもりだったが、まったく効果はない。

「……見んな」

 低く呟くと、チャドは嬉しそうに肩をすくめた。

「いやぁ~、青春っていいなって思ってさ」

「は?」

「べっつに~」

 にやぁっと笑うその顔が、ひたすらイラつく。心の中で何度も深呼吸。感情を顔に出していないはずなのに、心臓だけが勝手に暴れていた。

 金色の髪、透き通る瞳。そして──あの言葉。

『お前に結婚なんてしてほしくない』

(……言っちまったもんな)

(取り消せねぇよな)

 教科書の角を指先でぎりぎりと押し潰す。チャドのニヤニヤも、レジナルドの視線も、全部、無視したかった。

 でも、もう遅い──誰よりも、自分が一番わかっていた。
 午前二時。
 アルジャーノンは、眠れなかった。

「お前はもう、俺の『友達』じゃない」
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」

 章吾の、ふたつの言葉。それは──友情の否定ではなく、愛の告白だったのかもしれない。

 ベッドに仰向けたまま、アルジャーノンは目を閉じた。それなのに、眠りは来なかった。脳裏には、章吾の顔が焼きついていた。

 ふいに、あの言葉が脈を打つ。

(──もし、私がそれに応えるなら)

 思考が静かに、だが確かに、ある場所へと辿り着く。

 彼を選ぶということは──この家を、父を、未来を、問うことだ。

 アルジャーノンは、ゆっくりと身を起こした。毛布が肩から滑り落ち、足元に積もる。

 机の上には、薄明かりの中で揺れる便箋があった。書きかけの手紙。書き出せなかった未来。

 彼は一歩、また一歩と歩み寄る。時計の針は、午前三時を指していた。




 ランプの灯りが、かすかに揺れている。筆を手にしてから、長い沈黙があった。

 便箋には、自分の名前だけが書かれている。

「Algernon Fawcett-Ravensdale」
 父が与えた名。家が背負わせた名。
 けれど今、それはただの「名」だった。
(──私は、それを、誰のために残す?)

 静かに視線を落とす。記憶の底から、章吾の声が蘇る。

『……お前に、結婚なんてしてほしくない』

(……どうして、あのとき言えなかったのだ)
(あれは、私のすべてを試された問いだったのに)

 彼の脳裏に浮かぶのは──笑う顔。ぶっきらぼうな口調。時々、泣きそうな目。

「……もし、父があいつを認めないと言ったら」

 声に出してみると、それはずしりと重く胸に落ちた。

「……情けないな」

 ぽつりと呟いて、ランプの火を絞る。部屋はさらに薄暗くなり、心の内だけが明るく燃える。

 アルジャーノンは、そっと左手の薬指を見つめた。そこにはまだ何もない──だが、彼を迎える準備は始まっていた。

「何年かかったって、いい」

 そして、筆を走らせる。

 Shogo──

 その一文字の中に、彼は国より重い決意を込めた。

 未来がどう転んでも、この気持ちだけは変わらない。

 この手で守る相手は、もう決まっている。誰の許しもいらない。

 ただ、君の心がほしい。

 君しかいない。

 便箋には、整然と文字が並んでいく。それはまるで、誓いのように強い愛の詩だった。
 ロンドンの夏は、思ったよりも涼しい。

 日暮れにはまだ早い午後。光を受けた建物の壁が、白く眩しく輝いている。

 そんな街角に、ひとり立ち止まる姿があった。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。

 英国の名門、由緒正しき血を引く青年。

 彼の視線の先には、ロイヤル・アッシュ。王侯貴族御用達の老舗宝飾店だった。

(──これなら)

 慎重に思いを込めて、アルジャーノンはショーウィンドウにそっと指を伸ばした。

 きらめく細工。控えめで上品な輝き。

(彼に、似合う)

 微かな笑みが、彼の唇をかすめた。迷いはなかった。

 この気持ちを形にするなら、これしかないと思った。

 アルジャーノンは、息を整え、店内に足を踏み入れる。

 ベルの音が軽やかに響いた。そして、静かに店員に告げる。

「──こちらの指輪を、見せていただけますか」

 まるで運命に、そっと手を伸ばすように。

 その数メートル先。

 カフェのテラス席に座っていた男が、その光景を目撃していた。

 レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 彼は、細めた目越しに、すべてを見ていた。

 それから……すくりと立ち上がった。
 目指すはあの日本人、Shogo Hiwatari。

 ただひとつ、冷たい策略だけが動き始めた。



 週末の午後。寄宿舎の廊下を歩いていた章吾は、角を曲がった先でふと足を止めた。

(……ん?)

 先を行く誰かの背中。金色の髪。細身の制服。

 アルジャーノン。

 でも、どこか様子が違う。彼は周囲を気にするように振り返りながら、小さな箱を抱えていた。

 光沢のある包装紙。リボンで丁寧に結ばれた、きれいな四角。

(……なにあれ?)

 章吾は、思わず柱の影に隠れてしまっていた。

 アルジャーノンは箱を胸に抱えながら、誰にも見られたくないような様子で、階段を下りていく。

(プレゼント……?)

 気づかれないようにそっと後を追ったが、途中で人の気配に紛れ、彼の姿は見えなくなった。

 ──残されたのは、自分の胸に残る、妙なざわめきだけ。

(誰に渡すんだよ、あれ)

 胸の奥で、小さな棘が疼く。確かめたくても、確かめられない。問いただす資格なんて、自分にはないから。

 ──ただのクラスメイトなら。

 ──ただの寄宿舎のルームメイトなら。

 こんなふうに、気になって仕方ないなんて、ありえない。

 章吾はそっと自分の胸を押さえた。



 夕方。
「Hiwatari君。ちょっといいかな?」

 声をかけられたとき、章吾は中庭のベンチでぼんやりしていた。

 振り返れば、そこには、見慣れたブラウンヘアの少年──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。

 柔らかな笑みの裏で、彼の目はどこか遠くを見ていた。 

「アルジーは昔から特別だった。けど、僕には彼を幸せにする力がない。だから、せめて……」

 彼はポケットに手を突っ込み、言葉を呑んだ。

「……なに?」

 章吾はそっけなく返す。

 一方、レジナルドは気にも留めず、隣に腰を下ろした。

「君、アルジーと……ずいぶん親しそうだよね」

 レジナルドの声は軽いけれど、指がポケットで震えている。

 章吾は目を細めた。何だ、この違和感。

「彼、もうすぐ婚約するらしいよ。ロイヤル・アッシュの令嬢と」

 ──時が、止まった。

「……は?」

 章吾は、反射的にレジナルドを見た。

「噂だよ。ロイヤル・アッシュ家の令嬢とね。家柄も、資産も申し分ない」

 言葉の途中で、ほんの一瞬、声が引っかかった。レジナルドの視線が、芝生に落ちる。

「さっき、ロイヤル・アッシュで何か買ってたみたいだし」

 笑顔が、貼りつけたみたいに不自然だ。章吾の胸がざわついた。

「嘘、だろ」

 掠れた声に、レジナルドが肩を小さくすくめる。

「まあ、君には関係ない話かもしれないけど」

 章吾の視界が、ゆらりと揺れた。

 ロンドンの夏の空は、まだ明るい。

 それに対し胸の奥に落ちた影は、どうしようもなく濃かった。



 それから数日。

 どこか、様子がおかしい気がしていた。

 アルジャーノンはいつも通りに話すし、表情も変わらない。

 だが──ふとしたときに視線がぶつかると、彼はほんの一瞬だけ、目を伏せる。

 章吾の脳裏に、あのときの「箱」が浮かぶ。

(あの箱……やっぱ、誰かに渡したのか?)

 まさかと思いつつも、頭の中では勝手に想像が広がっていく。

 そして甦ったのは、彼の父親への一言。

 ──「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」

 遠い日の記憶が、再び章吾の胸をえぐる。

 優しさも、笑顔も、ただの同情に見えてくる。そんなやつじゃないって、知っているのに。

(だったらもう……)

 章吾は、机に突っ伏した。何も考えたくなかった。でも、考えずにはいられない。どうして、こんなにも、目が離せないんだろう。

 頭の中では、もうずっと、あいつのことしか浮かばなかった。



 寄宿舎の裏庭にある小さなベンチ。
 章吾は、ひとりそこに腰を下ろしていた。

 低い雲がゆっくりと流れていく。

 頭の中では、何度もあの顔がよぎっていた。

 アルジャーノンの、曖昧に逸らされたまなざし。      
 笑わない唇。
 遠ざかっていく気配。

(……もう、無理なんじゃねぇか)

 そんな声が、胸のどこかで囁いていた。

 ──コトン。

 突然、冷たいものが膝の上に置かれた。
 見れば、缶のコーラ。

「ほい。Shogo、甘いの好きだったよな?」

 チャドだった。やけに軽い調子で、隣に座る。

「……何、急に」

「いや、見てらんないからさ」
 彼は肩をすくめた。

「な、Shogo。俺、イギリス来てもう半年だけど、ヘンリー・フォードの言葉だけは今でも覚えてんだ」

 章吾は、ちらと目を向ける。

 チャドはコーラを開けて、喉を鳴らしたあとで、ぽつりと口を開いた。

「“Indecision is often worse than wrong action.”
──決断しないことは、間違った行動よりタチが悪い」

「……なに、それ」

「つまりは、そういうこと。動けるうちに、動いとけって話」

 どこか他人事みたいに言って、チャドは立ち上がる。

「じゃ、俺は先帰ってるわ。……で、Shogo。あいつのこと、ほんとに好きならさ」

 振り向いたその顔は、思いのほか真剣だった。

「勝手に終わらせんなよ」

 章吾は、その背を見送ることしかできなかった。

 そして──胸の奥が、ゆっくりと、疼きはじめていた。


 チャドの背が見えなくなったあとも、章吾はしばらく動けなかった。

 手に持った缶のコーラはぬるくなり、握る指先だけが冷たかった。

(勝手に……終わらせんな、か)

 呟いた言葉が、胸のどこかで跳ね返る。

(でも……終わったのかもしれない)

 最近のアルジャーノンは、視線を逸らす。

 いつものように近づいても、どこか間がある。

 あれだけまっすぐだった目が、どこか戸惑っていた。

 ──まるで、自分の気持ちが重荷になったみたいに。

(……それでも、俺、好きなんだよ)

 ふいに、記憶がよみがえる。中庭で見かけた、あの姿。

 箱を抱え、誰にも見られないように歩いていた後ろ姿。

(……なあ、あれって)

 ひとつの可能性が、静かに胸を打つ。

(だったら)

 章吾は、缶を芝の上にそっと置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 胸の奥で、まだぐらぐらと何かが揺れている。でも、それでも。

(走って、ぶつける。怖くても、伝える)

 ──そう決めた瞬間、足が自然と前へと動き出していた。



 回廊の角を曲がった瞬間、視界の端で金色の光が揺れた。

 アルジャーノン。彼もまた、ひとりで歩いていた。肩越しに差し込む光に、髪がふわりと透けていた。

「……Hiwatari?」

 声が届いた瞬間には、もう、止まれなかった。

 章吾はそのまま、正面から歩み寄る。胸の奥で、何かがごうごうと燃えている。

(止まんなくていい。もう、止まりたくない)

 言葉にすれば、何かが壊れるかもしれない。

 でも、言わなければ──本当に、何も手に入らない気がして。

 章吾は、一歩、踏み出した。

「おい、アルジャーノン」

 呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいだった。でも、もう引き返せなかった。

「……お前、本気で、それでいいのかよ」

 静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。一瞬、アルジャーノンの瞳が揺れる。

「……何のことを──」

「ロイヤル・アッシュの婚約話だよ!」

 ぶつけるように叫んだ。声が裏返って、自分でも驚いた。

「そんなの……絶対に、嫌だ」

 心臓が暴れている。何をどこまで伝えたくて叫んでるのか、自分でももうよく分からなかった。

 ただ、言わなきゃいけないことが、確かにあった。

 拳を握り、唇を噛む。

 消えない想いが、胸の奥から、溢れ出した。

「俺……」

 言葉が、つっかえて出てこない。喉が焼けるように熱いのに、声だけが遠かった。

「俺、お前がいないと、ダメなんだよ……」

 やっとの思いで吐き出した声は、涙の味がした。声も、手も、足元も震えてる。

 それでも、伝えたかった。

「好きだって、言ってんだよ」

 絞るような声だった。情けないくらいに、弱くて、不器用で、まっすぐな言葉。

 アルジャーノンの顔が、揺れていた。

 何かを言いかけて、言葉を呑み込むような目をしていた。

 沈黙が、重くのしかかる。

「……もういい。言ったから、それでいい」

 そう言い捨てて、章吾は背を向けた。
 逃げたかった。自分の感情からも、あの目の意味からも。

 背を向け、走り出す。目の奥が熱かった。泣きたくなんかないのに、顔がどうしようもなく歪んでいた。

 廊下に、足音が響く。

「Hiwatari!」

 寮の自室まで一気に駆け上がり、扉を閉める。肩で息をしながら、鍵をかけ、背中でドアを支えた。

 ノブが揺れる。

「……Hiwatari。話を……」

「帰れ!」

 叫んでしまった。

 しばらくして、足音が遠ざかる。

 部屋に残されたのは、呼吸の音と、ひとり分の鼓動だけだった。

(バカだな、俺……)

 ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かないまま、薄暗い部屋に落ちていった。
 夜。

 談話室の空気は、日中の熱気をわずかに残しながらも、どこか冷たかった。

 章吾は、革張りのソファに沈みこみ、天井をぼんやり見上げていた。

 照明の灯りもまばらで、薄暗い空間には、置きっぱなしの雑誌や空き缶だけが散らばっていた。

(……バカみてぇだ)

 喉の奥で笑って、傍らのテーブルに手を伸ばす。

──“CIDER”

 ラベルの涼しげな色彩。深く考えずにプルタブを引いた。
 シュッと空気が抜ける音。

 ごくり、ごくり。
 炭酸が喉を滑り落ちていく。

(……ちょっと、苦い)

 そう思ったけれど、構わずもう一口。
 何もかも、どうでもよかった。
 誰にも求められていない気がして。 

 ふと、視界が傾いた。頭がぼうっと熱い。足元がふらつく。

(……あれ?)

 手にした缶を見つめる。

 ──“CIDER”

 イギリスでは、それは立派なアルコールだと、思い出すにはもう遅かった。

 ソファに崩れるように体を預ける。顔が熱い。心臓が、うるさい。

(……だっせぇ)

 かすかに笑った。どうしてこんなことになったのか。きっと、ぜんぶ、あいつのせいだ。

「……Hiwatari?」

 背後から聞こえた声。ゆっくり顔を向けると、淡い金髪を揺らすアルジャーノンがいた。

「あー……アルジー?」

 口調は緩く、舌が回っていなかった。

「君……酔っているのか?」
「サイダー……飲んだ」

 章吾は、にへらと笑う。笑いながら、そのまま寄りかかる。
 アルジャーノンの胸元に、額が触れる。

「おい、しっかりしろ」
「うるさい……」

 章吾は、ふらりと手を伸ばし──
 制服の胸元を掴んで、引き寄せた。

 そのまま、頬へと唇を寄せる。

 一瞬、世界が止まった。
 炭酸の残り香と、柔らかな感触。

 触れた、というより、ぶつけた。理性も、言葉も、全部、放り投げて。

「……すき、だったのに」

 ぼそりと落ちた一言が、アルジャーノンの心臓を凍らせた。呼吸が止まる。

「Hiwatari……っ」

 反射的に、章吾を突き放した。

 章吾は尻もちをつき、床にへたりこんだ。見上げる視線が、酔いで濡れていた。

 その中には、かすかに「わかっていた」諦めがあった。

「……な、にをするんだ」

 掠れた声。

 アルジャーノンは震える手を見つめる。何かを叫びそうになって、喉を閉ざした。

「君は……君は、何を……」

 言いかけて、言葉が崩れた。額に浮いた汗が、一滴、床に落ちる。

 拳が宙に浮かぶ。章吾は目を閉じた。

(殴られる)

 そのとき──

「……っ!」

 手のひらが打たれたのは、アルジャーノン自身の頬だった。

 パチン。乾いた音。

「落ち着け、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」

 名を名乗ったその声は、震えていた。

「君には、怒っていない……」

 そして、踵を返す。章吾を振り返らずに、扉を開けて出ていく。閉じた音が、冷たく部屋に響いた。

 章吾は、床に座り込んでいた。
 目の奥が熱く、泣くに泣けなかった。

(……叩かれたわけでもないのに)
(どうして、こんなに痛いんだ)

 自分からぶつけたくせに、予想通りの拒絶に、心が空になっていく。




 そして──そのすべてを見ていた、ひとりの影が。

 レジナルド。暖炉の火の前で、ただ静かに目を閉じていた。

「……アルジー」

 声にならない呼びかけ。

「君が誰を見ていても、構わない。でも」

「僕は、ずっと君を見ていたんだ」

 静かに揺らぐ炎は、彼の心をなだめていた。
 朝。

 空には、黒い雲が低く垂れこめていた。風は生ぬるく、雨をはらんだ空気が寄宿舎の廊下にまで重くのしかかっている。

 ──カツン、カツン。 

 水気を含んだ石造りの床を、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、迷いのない足取りで歩いていた。

 足元に反射する光がゆらぎ、彼の姿も、歩みの影も、わずかに歪んでいた。

 右手には、小さな黒い箱。
 掌の中に、ずっと隠し持ってきたもの。

 長く温めて、言葉にできずにいた想いを封じた、それは──

(……本当は、昨夜、渡すつもりだったのだ)

 けれど、あの言葉。あの口づけ。

 酔いに任せた行為だとしても、あまりに幼く、痛々しくて。突き放してしまった自分が、今も胸の奥で鈍く疼いていた。

(……あんな真似をされても)

(それでも、私は──)

 怒ってなどいなかった。

 触れられた頬に、まだ微かな温度が残っている気がして、アルジャーノンは無意識に足を速めた。

 指先に伝わる箱の重みが、心臓の鼓動と重なり合う。

「ずっと、伝えたかったのだ」

 迷いはなかった。

 たとえ、彼がどんな顔をしようとも。たとえ、傷つけられた昨日が、すぐには癒えなかったとしても。

 この箱に込めたものだけは──渡さなければならない。

 「君が必要だ」と伝えるために。

 それは贈り物ではなかった。未来を、預けるための小さな鍵だった。

 ──そんなとき。

 廊下の向こうから、章吾が現れた。ぼさぼさの寝癖のまま、片手にバッグを引きずりながら。

 二人の視線が、ぶつかった。

 その瞬間、章吾の顔色がさっと変わった。

 アルジャーノンが持つ箱に、視線が釘付けになる。

「……それ、誰に渡すんだよ」

 章吾の声は、低く、震えていた。
 アルジャーノンが、言おうとした次の瞬間──

 章吾は、アルジャーノンの手から、乱暴に箱を奪い取った。

「おい、Hiwatari ──!」

 驚きに声を上げたときには、章吾はもう、駆け出していた。

 雨の匂いが濃くなる中、章吾は、奪った箱を胸に抱えて、石畳の向こうへと消えていった。

「返せ、Hiwatari !!」

 怒声が、雷鳴とともに廊下に響き渡った。アルジャーノンは、何も迷わず、彼のあとを追った。


 バサバサと制服を叩く雨。
 石畳に打ち付けるような轟音。

 夏のロンドンに、とうとう嵐が降り始めた。

 章吾は、ずぶ濡れになりながら走った。

 ポケットの中の箱を、力いっぱい握りしめて。

(くそっ、くそ!)

(俺にじゃない。……あの、お嬢様に渡すための──)

 思考はぐしゃぐしゃで、目の前も、雨でぐしゃぐしゃに滲んで見えた。

 こんなこと、したくないのに。止まれなかった。

 雷が頭上で轟いた。

 ゴロゴロゴロ──ドンッ!

 一瞬、昼間みたいに空が白く光る。

「──Hiwatari !」

 後ろから追いかける声。それでも、章吾は止まらなかった。

 怖かった。
 これ以上、向き合うのが。

(お前の言葉を聞いたら、もう二度と引き返せねぇ気がして──)

「返せ!」

 叫ぶ声が、すぐ背後まで迫る。息を切らして走るアルジャーノンが、必死に手を伸ばしてくるのが分かった。

 章吾は、ようやく歩みを緩めた。息が切れて、喉が焼けるほど痛かった。

 振り返った。

 そこにいたのは、金髪がぐっしょりと濡れ、蒼い目が怒りと悲しみに揺れている、アルジャーノンだった。

「……なんで逃げるんだ、君は!」

 雨に負けない声で、アルジャーノンが叫ぶ。

「俺のことなんか──ただの友達なんだろ!」

 章吾もまた、怒鳴り返した。

「貴族のお坊ちゃんらしく、ちゃんとふさわしい相手に指輪渡して、立派な結婚でもしてくれよ!」

 雷が、また空を裂いた。だが、その音よりも、
アルジャーノンの怒りに震える声が、鮮烈に響いた。

「君は──君は、何もわかっていない!!」

 ずぶ濡れのふたり。
 交差する視線。

 雷雨の中、ついに、ふたりの心が正面からぶつかろうとしていた。

「……わかってねぇよ、俺は!」

 章吾は、箱を胸に押しつけながら叫んだ。

「ロイヤル・アッシュ家のご令嬢なんか、俺に勝ち目ねぇしよ!」

 髪をぐしゃぐしゃに濡らしながら、アルジャーノンが一歩、近づいてきた。

「なぜだ、Hiwatari 。なぜ君だけが、そんなにも、自分を低く見る?」

 その声は、今にも泣きそうだった。

「だって、俺は庶民だし、背ぇ低いし、口わりぃし……っ!」
「……お前なんかに──」

 喉まで出かけた言葉を、拳で口元に押し当てて、噛み殺す。

 その目は真っ赤に濡れていた。

「でも、それでも、俺は……っ!──お前が、好きなんだよ!!」

 怒鳴るように叫んだその瞬間、身体からすべての力が抜けた。

 章吾は膝をつき、地面に崩れ落ちた。

 ポケットから滑り落ちた箱が、カラン、と音を立てて、地面を転がる。

 雷が空を引き裂いた。

 閃光のなか、アルジャーノンの目が、見開かれたまま震えていた。

 彼は一歩、また一歩と、章吾に近づいていく。

 その目には、怒りでも戸惑いでもない、ひたすらに焼けるような痛みが滲んでいた。

 そして、地面に転がった箱を拾い上げると、しゃがみ込み、章吾と同じ目線に膝を落とした。

「君は……馬鹿だ」
 低く、震える声。

「なぜ君は、そんなにも、自分を踏みつけてまで、私を愛そうとするんだ……」

 章吾は泣いていた。涙が雨と混じり、区別もつかなかった。

「ロイヤル・アッシュの婚約? あれは父の望みだった。私が選んだのは、最初から君だけだ」

 アルジャーノンの声は震えていた。

「その箱は、君に渡すつもりだった」

 章吾が顔を上げた。涙が、雨と混じる。

「最初から、ずっとだ」

 そう言ったアルジャーノンの頬にも、涙が流れていた。

 雷鳴が遠ざかる。

 ゆっくりと、箱を開く。

 中には、小さな銀の指輪。
 雨粒を受けても、その輝きは失われなかった。

 章吾は、ぽかんと箱を見つめた。

「……俺に?」

「……君にしか、渡すつもりはない。この指輪は君との未来を誓うものだ」

 アルジャーノンは、まっすぐに章吾の目を見た。

「最初から、ずっとだ。婚約話など……すべて断ってある」

 章吾は、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で、やっと、やっと、小さく笑った。

「……ほんと、バカだな、俺」

 泣き笑いしながら、そっと手を伸ばす。
 震える指で、指輪を摘み上げる。

 そして、自分の薬指に、そっとはめた。

「これで……絶対、離れねぇ」

 雨音のなか、章吾の声は小さくても、誰より強かった。

「私も、永遠に離さない」



 雨は、容赦なく降り続いていた。制服も、髪も、指先もびしょ濡れだったけれど。

 それでも、章吾の心だけは、少しずつ温かくなっていった。

 アルジャーノンは、静かに手を伸ばした。

 指輪をはめた章吾の手を、まるで壊れものを扱うように、そっと包み込む。

「これからも──」

 低く、震える声でアルジャーノンが言った。

「何があっても、君を信じる」

 章吾の胸は、ぎゅっと締めつけられた。この手を、もう二度と離したくない。

 この気持ちを、絶対に裏切りたくない。だから、章吾も、必死で声を絞り出した。

「……俺も、信じる」

「お前が俺を好きでいてくれるってこと──信じる」

 アルジャーノンが、ふっと微笑んだ。 

 雨の中でも、その微笑みは、確かに光って見えた。



 ふたりは、ゆっくりと距離を詰めた。
 どちらからともなく、腕を伸ばす。そして、互いの体を、ぎゅっと抱きしめた。
 ずぶ濡れのまま、冷たくなった指先も、濡れた背中も、全部、力いっぱい抱き寄せた。

「……ごめん」

 章吾が、肩に顔を押しつけながら、震える声で呟いた。

「……ごめん、アルジャーノン」

 彼は初めて、彼の名前を呼んだ。

「謝るな。……私も、臆病だった」

 頭上では、また雷が轟いた。もはやふたりを遮るものは何もなかった。

 雨音に包まれながら、ふたりはただ、ひたすらに、互いの体温を確かめ合った。

 どれだけ冷たい雨に打たれても。この想いだけは、絶対に冷めないと、強く、強く誓った。




 雨は、いつの間にか小降りになっていた。雷も遠ざかり、空の向こうに淡い光が滲んでいた。

 石畳に打ちつけていた雨粒も、今は静かに染み込んでいく音しか聞こえない。ふたりは、まだ抱きしめ合っていた。

「……大好きだ、アルジャーノン」

 冷たかったはずの体温は、今ではお互いのぬくもりで満ちている。

「Shogo」

 アルジャーノンが、低い声で名前を呼んだ。
 章吾は、顔を上げた。

 目が赤く腫れているのも、ずぶ濡れの髪も、全部お互い様だった。

「これから先、どんなに遠く離れる日が来ても」

 アルジャーノンは、濡れた指先で、章吾の頬をそっとなぞった。

「私は、必ず君のもとへ戻る」

 章吾は目を見開き、そして、ぎゅっとアルジャーノンの制服を掴んだ。

「……離れねぇよ。お前がどこに行っても、俺が迎えに行く。雨の日も、雷の日も」

 アルジャーノンの胸元に、章吾の拳が小さく震えていた。

 彼の蒼い瞳が、揺れた。

「雷には気をつけろ、Shogo」

「打たれないように?」

「ああ。でも、雷には感謝している」

「俺たちは雷で結ばれた──ってな」

 互いに、笑った。

 ぼろぼろで、みっともなくて、それでも一番、本物の笑顔だった。

 ふたりは、静かに指を絡ませた。

 雨がやんだ空に、ほんの少し、虹のような光が滲んでいた。


「約束だな。ずっと一緒だ」

「……ああ、約束だ」

 雨に濡れた石畳の上で、ふたりは未来へと誓いを交わす。

 それは、「雷の日に始まった物語」の、終わりではなく──続きだった。

 指先の指輪が、閃光できらりと輝いた。
 遠ざかる雷鳴が、ふたりの誓いに静かに応えた。
 雨は、夜のうちにすっかりやんでいた。

 早朝の空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から、少しだけ柔らかな光が覗いている。

「紅茶、いるか?」

 低い声が、カップを持つ手越しに届いた。

「……うん。砂糖は、一つ」

 章吾は素直に答えた。珍しいことに、アルジャーノンも何も言わなかった。

 ふたりは、寮の談話室の窓辺に並んで座っていた。

 制服は着替えていたが、髪はまだ湿っている。お互いに、乾かすのも忘れていた。

 テーブルの上には、あたたかい湯気の立つティーカップと、焼きたてのスコーン。

 どちらも、特別なものではないが、これ以上ないほど満ち足りた時間だった。

 章吾は、指先で薬指を触れた。そこには、まだ慣れない感触の指輪がある。

「ほんとに……これ、俺がもらってよかったのか?」

 ポツリと漏らした言葉に、隣から小さなため息が返る。

「また言うのか、君は」

「いや……なんか、夢みてぇだなって」

 アルジャーノンは、静かに笑った。

「これは夢ではない。そして君が思うより、私は本気だ」

 章吾は、照れたように顔をそらす。

「……だったら、お前のその笑い方、やめろよ。なんか、負けた気になるじゃん」

「勝敗ではない。これは、誓いだ」

 指先が、そっと重なった。そこにあるぬくもりを、互いに確かめるように。

「……なあ」

「うん?」

「卒業したらさ、いっしょに暮らすのって、アリか?」

「もちろん。だが、条件がある」

「は?」

「君が、私の家に来てくれるなら」

 章吾は目を丸くしたが、すぐに噴き出した。

「じゃあ、お前が日本に来いよ。うちのコタツ、最高だぞ」

「……コタツとは何だ」

「コタツってのはさ……帰ったら見せてやるよ」

 朝日が、ようやく雲の隙間から差し込んできた。

 ふたりのティーカップのなか、光がきらりと反射する。その向こうにある未来は、まだ霧がかかっているかもしれない。
それでも。

 この朝を共に迎えたという、それだけで、もう十分だった。

 章吾は、目を細めながら言った。

「おはよう。アルジャーノン」

 アルジャーノンは、少しだけ驚いたようにこちらを見たあと、微笑んだ。

「……おはよう、Shogo」

 窓の外では、小鳥が一声、鳴いた。新しい一日が、ふたりの上に始まっていた。
 荘厳なパイプオルガンの音が、白い礼拝堂に響いていた。

 日曜の朝。
 子供たちが集まる合唱団は、清らかな声で賛美歌を練習していた。

 その影。祭壇の裏で、小さな男の子が肩を震わせていた。

 やわらかな金髪に青く澄んだ瞳。まだ幼いアルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルだった。

「……っ」

 小さな手でぎゅっとローブを握りしめている。

 さっき。歌の音程がずれてしまっただけで、お父様に「精神が弱い」と叱責された。

 それが、あまりに悔しくて、悲しくて──涙を堪えきれなかった。

 そんな彼のそばに、ふわりと影が落ちた。

「アルジー?」

 にこにこ笑いながら近づいてきたのは、ブラウンヘアの、いたずらっぽい美少年──レジナルドだった。

「……みるな、レジー」

 アルジャーノンは、ぷいっと顔を背けた。レジナルドは、くすっと笑った。

「アルジーは、がんばりやさんだね」

「……がんばってなど、いない……」

 むくれながらも、震える声。

 レジナルドは、そっとアルジャーノンの手を握った。小さな手、冷たい指先。

「ぼくは、アルジーのこと、かっこいいって思ってるよ」

「……っ、なぜだ」

「がんばってる姿、ちゃんと知ってるもん」

 レジナルドは、きらきら笑った。太陽みたいに、あたたかく。

 アルジャーノンは、目を見開いた。

 そして──

「ありがとう、レジー……!」

 しゃんと顔を上げ、笑った。

 満面の、太陽みたいな笑顔で。

 レジナルドは、その瞬間──小さな胸の奥に、ふわりと、あたたかい何かが灯るのを感じた。

(……かわいい)

(……すきだ)

 そう、初めて思った。

 まだ「恋」という言葉を知らなかったけれど、レジナルドは、確かにその瞬間──アルジャーノンに、恋をした。



 ノートをめくる音が静かに響く。

 図書室の隅、チャド、章吾、レジナルド、アルジャーノンが勉強していた。

 ふと、章吾がぼそっと呟いた。

「なあ、レジナルド。おまえとアルジャーノンって、いつから知り合いなんだ?」

 レジナルドは、楽しそうに笑った。

「アルジーと僕? 小さいころからだよ。ほら、家族ぐるみの付き合いだったから」

「へぇー」

 章吾は気軽に相槌を打ったが、レジナルドはさらに爆弾を落とす。

「アルジー、昔は泣き虫だったんだよ? 礼拝堂の影で、よく泣いてたなぁ」

「っ」

 アルジャーノンは、珍しく頬を赤く染めた。

「……くだらん話をするな、レジー」

「ふふ、だって可愛かったんだもん」

 にこにこ。天使の微笑み。

「……おまえ、アルジーが好きだったのか?」

 章吾が苦い顔で問いかける。
 レジナルドは、まるで当然だというように頷いた。

「うん。あのとき、アルジーが僕に満面の笑みを向けて──それで、恋に落ちちゃったんだ」

 章吾、即死。

「はぁ!?ちょ、待て待て待て!!!」

 図書室に、章吾の絶叫が響く。

「なんだその運命みてぇなエピソードは!!ふざけんな!オレ知らねぇぞそんな話!!」

「だって、Hiwatari君には話してなかったもん」

 レジナルドは、けろりと笑う。

「大事な思い出だからね、僕とアルジーだけの」

 章吾は、地面に転がる。

「ぐぅぅぅ!!おまえら、なんなんだぁぁ!!」

「……くだらん」

 アルジャーノンは、ふっと目をそらす。

 が、その耳は赤かった。

 レジナルドは、章吾のジタバタを見ながら、にっこり満足そうに笑った。

(やっぱり、可愛いものは、昔も今も、変わらないね)

 心の中で、そっと呟きながら。

 ──そして章吾は、その夜ずっと、アルジャーノンを独占すべく、必死で勉強を手伝う羽目になったのだった。

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