放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。
向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。
「……で?」
壁にもたれながら章吾は睨みつける。
レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」
「まあな」
冷たく返したが、心の奥はざわついていた。
レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。
「君も、同じでしょ?」
一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」
かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。
「なら、共闘しようよ」
「は?」
思わず聞き返す。
「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。
静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」
レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」
風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。
*
寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。
章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。
画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。
パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。
「……ここだな」
低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。
「まずいな、これは」
レジナルドがぽつりと言った。
さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。
「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」
「ちょっと待って。この画像、反転してる」
レジナルドが、気づく。
「そうか。もう1回、画像検索だ」
章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。
結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。
絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。
「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」
章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。
──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。
*
夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。
目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。
画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。
「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
静かな、冷えた声。
章吾は一瞬目を伏せた。
──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……
しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。
「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。
(こいつ……!)
章吾の額に、一筋の汗がつたった。
蒼い目が、章吾を捉える。
重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。
それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。
レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。
「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」
独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。
(……嫌われた、か)
章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。
こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。
自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。
*
その日の夜。
章吾の部屋に、ノックの音が響く。
あいつだ。章吾の心は知っていた。
心臓の鼓動が早くなる。
(……あいつは、俺に何て言うかな)
汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。
──そこには、アルジャーノンが立っていた。
「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
瞬間、章吾は目を見開いた。
(俺のことを、信じている)
胸が熱い。苦しい。
「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
かすれた声で、絞り出すように言った。
「Hiwatari、それはどういう──」
言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。
小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。
音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。
まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。
頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。
ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。
(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)
答えは、どこにもなかった。
*
深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。
胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。
(Hiwatari)
あのときの声が耳にこびりついて離れない。
『お前に結婚なんてしてほしくない』
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。
かすれた声で、
「Shogo……」
呼んでしまった。
瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。
「……な、なにを。私はいったい──」
もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。
Shogo──
(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)
震える手で毛布をぎゅっと掴む。
夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。
朝の寄宿舎。
章吾は、ネクタイを結びながら鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。
目の下の隈が、ひどく濃い。昨夜、ほとんど眠れなかった。
(……あいつ)
思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと軋む。昨日、口にしてしまった言葉が、耳の奥で繰り返される。
「お前に結婚なんてしてほしくない」
言ってしまった。もう、ごまかせない。
ネクタイの結び目を思いきり締めたせいで、喉が詰まる。それでも緩める気にはなれなかった。
──戻れない。そんな気がしたから。
(俺は……)
(あいつを、諦めたくない)
それだけは、はっきりしていた。
深く息を吐いてジャケットに袖を通し、ドアを開ける。
一度歩み出した足は、決して止まらなかった。
*
ロビーの隅。章吾はソファに座り、教科書をぱらぱらとめくっていた。……フリだった。内容なんて頭に入ってこない。
原因は、目の前でコーラをちゅーちゅー吸いながら、ニヤニヤしているチャドだ。
(……なんだよ、あいつ)
ちら、とだけ目を向ける。睨んだつもりだったが、まったく効果はない。
「……見んな」
低く呟くと、チャドは嬉しそうに肩をすくめた。
「いやぁ~、青春っていいなって思ってさ」
「は?」
「べっつに~」
にやぁっと笑うその顔が、ひたすらイラつく。心の中で何度も深呼吸。感情を顔に出していないはずなのに、心臓だけが勝手に暴れていた。
金色の髪、透き通る瞳。そして──あの言葉。
『お前に結婚なんてしてほしくない』
(……言っちまったもんな)
(取り消せねぇよな)
教科書の角を指先でぎりぎりと押し潰す。チャドのニヤニヤも、レジナルドの視線も、全部、無視したかった。
でも、もう遅い──誰よりも、自分が一番わかっていた。
午前二時。
アルジャーノンは、眠れなかった。
「お前はもう、俺の『友達』じゃない」
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
章吾の、ふたつの言葉。それは──友情の否定ではなく、愛の告白だったのかもしれない。
ベッドに仰向けたまま、アルジャーノンは目を閉じた。それなのに、眠りは来なかった。脳裏には、章吾の顔が焼きついていた。
ふいに、あの言葉が脈を打つ。
(──もし、私がそれに応えるなら)
思考が静かに、だが確かに、ある場所へと辿り着く。
彼を選ぶということは──この家を、父を、未来を、問うことだ。
アルジャーノンは、ゆっくりと身を起こした。毛布が肩から滑り落ち、足元に積もる。
机の上には、薄明かりの中で揺れる便箋があった。書きかけの手紙。書き出せなかった未来。
彼は一歩、また一歩と歩み寄る。時計の針は、午前三時を指していた。
ランプの灯りが、かすかに揺れている。筆を手にしてから、長い沈黙があった。
便箋には、自分の名前だけが書かれている。
「Algernon Fawcett-Ravensdale」
父が与えた名。家が背負わせた名。
けれど今、それはただの「名」だった。
(──私は、それを、誰のために残す?)
静かに視線を落とす。記憶の底から、章吾の声が蘇る。
『……お前に、結婚なんてしてほしくない』
(……どうして、あのとき言えなかったのだ)
(あれは、私のすべてを試された問いだったのに)
彼の脳裏に浮かぶのは──笑う顔。ぶっきらぼうな口調。時々、泣きそうな目。
「……もし、父があいつを認めないと言ったら」
声に出してみると、それはずしりと重く胸に落ちた。
「……情けないな」
ぽつりと呟いて、ランプの火を絞る。部屋はさらに薄暗くなり、心の内だけが明るく燃える。
アルジャーノンは、そっと左手の薬指を見つめた。そこにはまだ何もない──だが、彼を迎える準備は始まっていた。
「何年かかったって、いい」
そして、筆を走らせる。
Shogo──
その一文字の中に、彼は国より重い決意を込めた。
未来がどう転んでも、この気持ちだけは変わらない。
この手で守る相手は、もう決まっている。誰の許しもいらない。
ただ、君の心がほしい。
君しかいない。
便箋には、整然と文字が並んでいく。それはまるで、誓いのように強い愛の詩だった。
ロンドンの夏は、思ったよりも涼しい。
日暮れにはまだ早い午後。光を受けた建物の壁が、白く眩しく輝いている。
そんな街角に、ひとり立ち止まる姿があった。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。
英国の名門、由緒正しき血を引く青年。
彼の視線の先には、ロイヤル・アッシュ。王侯貴族御用達の老舗宝飾店だった。
(──これなら)
慎重に思いを込めて、アルジャーノンはショーウィンドウにそっと指を伸ばした。
きらめく細工。控えめで上品な輝き。
(彼に、似合う)
微かな笑みが、彼の唇をかすめた。迷いはなかった。
この気持ちを形にするなら、これしかないと思った。
アルジャーノンは、息を整え、店内に足を踏み入れる。
ベルの音が軽やかに響いた。そして、静かに店員に告げる。
「──こちらの指輪を、見せていただけますか」
まるで運命に、そっと手を伸ばすように。
その数メートル先。
カフェのテラス席に座っていた男が、その光景を目撃していた。
レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
彼は、細めた目越しに、すべてを見ていた。
それから……すくりと立ち上がった。
目指すはあの日本人、Shogo Hiwatari。
ただひとつ、冷たい策略だけが動き始めた。
*
週末の午後。寄宿舎の廊下を歩いていた章吾は、角を曲がった先でふと足を止めた。
(……ん?)
先を行く誰かの背中。金色の髪。細身の制服。
アルジャーノン。
でも、どこか様子が違う。彼は周囲を気にするように振り返りながら、小さな箱を抱えていた。
光沢のある包装紙。リボンで丁寧に結ばれた、きれいな四角。
(……なにあれ?)
章吾は、思わず柱の影に隠れてしまっていた。
アルジャーノンは箱を胸に抱えながら、誰にも見られたくないような様子で、階段を下りていく。
(プレゼント……?)
気づかれないようにそっと後を追ったが、途中で人の気配に紛れ、彼の姿は見えなくなった。
──残されたのは、自分の胸に残る、妙なざわめきだけ。
(誰に渡すんだよ、あれ)
胸の奥で、小さな棘が疼く。確かめたくても、確かめられない。問いただす資格なんて、自分にはないから。
──ただのクラスメイトなら。
──ただの寄宿舎のルームメイトなら。
こんなふうに、気になって仕方ないなんて、ありえない。
章吾はそっと自分の胸を押さえた。
*
夕方。
「Hiwatari君。ちょっといいかな?」
声をかけられたとき、章吾は中庭のベンチでぼんやりしていた。
振り返れば、そこには、見慣れたブラウンヘアの少年──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
柔らかな笑みの裏で、彼の目はどこか遠くを見ていた。
「アルジーは昔から特別だった。けど、僕には彼を幸せにする力がない。だから、せめて……」
彼はポケットに手を突っ込み、言葉を呑んだ。
「……なに?」
章吾はそっけなく返す。
一方、レジナルドは気にも留めず、隣に腰を下ろした。
「君、アルジーと……ずいぶん親しそうだよね」
レジナルドの声は軽いけれど、指がポケットで震えている。
章吾は目を細めた。何だ、この違和感。
「彼、もうすぐ婚約するらしいよ。ロイヤル・アッシュの令嬢と」
──時が、止まった。
「……は?」
章吾は、反射的にレジナルドを見た。
「噂だよ。ロイヤル・アッシュ家の令嬢とね。家柄も、資産も申し分ない」
言葉の途中で、ほんの一瞬、声が引っかかった。レジナルドの視線が、芝生に落ちる。
「さっき、ロイヤル・アッシュで何か買ってたみたいだし」
笑顔が、貼りつけたみたいに不自然だ。章吾の胸がざわついた。
「嘘、だろ」
掠れた声に、レジナルドが肩を小さくすくめる。
「まあ、君には関係ない話かもしれないけど」
章吾の視界が、ゆらりと揺れた。
ロンドンの夏の空は、まだ明るい。
それに対し胸の奥に落ちた影は、どうしようもなく濃かった。
*
それから数日。
どこか、様子がおかしい気がしていた。
アルジャーノンはいつも通りに話すし、表情も変わらない。
だが──ふとしたときに視線がぶつかると、彼はほんの一瞬だけ、目を伏せる。
章吾の脳裏に、あのときの「箱」が浮かぶ。
(あの箱……やっぱ、誰かに渡したのか?)
まさかと思いつつも、頭の中では勝手に想像が広がっていく。
そして甦ったのは、彼の父親への一言。
──「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」
遠い日の記憶が、再び章吾の胸をえぐる。
優しさも、笑顔も、ただの同情に見えてくる。そんなやつじゃないって、知っているのに。
(だったらもう……)
章吾は、机に突っ伏した。何も考えたくなかった。でも、考えずにはいられない。どうして、こんなにも、目が離せないんだろう。
頭の中では、もうずっと、あいつのことしか浮かばなかった。
*
寄宿舎の裏庭にある小さなベンチ。
章吾は、ひとりそこに腰を下ろしていた。
低い雲がゆっくりと流れていく。
頭の中では、何度もあの顔がよぎっていた。
アルジャーノンの、曖昧に逸らされたまなざし。
笑わない唇。
遠ざかっていく気配。
(……もう、無理なんじゃねぇか)
そんな声が、胸のどこかで囁いていた。
──コトン。
突然、冷たいものが膝の上に置かれた。
見れば、缶のコーラ。
「ほい。Shogo、甘いの好きだったよな?」
チャドだった。やけに軽い調子で、隣に座る。
「……何、急に」
「いや、見てらんないからさ」
彼は肩をすくめた。
「な、Shogo。俺、イギリス来てもう半年だけど、ヘンリー・フォードの言葉だけは今でも覚えてんだ」
章吾は、ちらと目を向ける。
チャドはコーラを開けて、喉を鳴らしたあとで、ぽつりと口を開いた。
「“Indecision is often worse than wrong action.”
──決断しないことは、間違った行動よりタチが悪い」
「……なに、それ」
「つまりは、そういうこと。動けるうちに、動いとけって話」
どこか他人事みたいに言って、チャドは立ち上がる。
「じゃ、俺は先帰ってるわ。……で、Shogo。あいつのこと、ほんとに好きならさ」
振り向いたその顔は、思いのほか真剣だった。
「勝手に終わらせんなよ」
章吾は、その背を見送ることしかできなかった。
そして──胸の奥が、ゆっくりと、疼きはじめていた。
チャドの背が見えなくなったあとも、章吾はしばらく動けなかった。
手に持った缶のコーラはぬるくなり、握る指先だけが冷たかった。
(勝手に……終わらせんな、か)
呟いた言葉が、胸のどこかで跳ね返る。
(でも……終わったのかもしれない)
最近のアルジャーノンは、視線を逸らす。
いつものように近づいても、どこか間がある。
あれだけまっすぐだった目が、どこか戸惑っていた。
──まるで、自分の気持ちが重荷になったみたいに。
(……それでも、俺、好きなんだよ)
ふいに、記憶がよみがえる。中庭で見かけた、あの姿。
箱を抱え、誰にも見られないように歩いていた後ろ姿。
(……なあ、あれって)
ひとつの可能性が、静かに胸を打つ。
(だったら)
章吾は、缶を芝の上にそっと置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
胸の奥で、まだぐらぐらと何かが揺れている。でも、それでも。
(走って、ぶつける。怖くても、伝える)
──そう決めた瞬間、足が自然と前へと動き出していた。
*
回廊の角を曲がった瞬間、視界の端で金色の光が揺れた。
アルジャーノン。彼もまた、ひとりで歩いていた。肩越しに差し込む光に、髪がふわりと透けていた。
「……Hiwatari?」
声が届いた瞬間には、もう、止まれなかった。
章吾はそのまま、正面から歩み寄る。胸の奥で、何かがごうごうと燃えている。
(止まんなくていい。もう、止まりたくない)
言葉にすれば、何かが壊れるかもしれない。
でも、言わなければ──本当に、何も手に入らない気がして。
章吾は、一歩、踏み出した。
「おい、アルジャーノン」
呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいだった。でも、もう引き返せなかった。
「……お前、本気で、それでいいのかよ」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。一瞬、アルジャーノンの瞳が揺れる。
「……何のことを──」
「ロイヤル・アッシュの婚約話だよ!」
ぶつけるように叫んだ。声が裏返って、自分でも驚いた。
「そんなの……絶対に、嫌だ」
心臓が暴れている。何をどこまで伝えたくて叫んでるのか、自分でももうよく分からなかった。
ただ、言わなきゃいけないことが、確かにあった。
拳を握り、唇を噛む。
消えない想いが、胸の奥から、溢れ出した。
「俺……」
言葉が、つっかえて出てこない。喉が焼けるように熱いのに、声だけが遠かった。
「俺、お前がいないと、ダメなんだよ……」
やっとの思いで吐き出した声は、涙の味がした。声も、手も、足元も震えてる。
それでも、伝えたかった。
「好きだって、言ってんだよ」
絞るような声だった。情けないくらいに、弱くて、不器用で、まっすぐな言葉。
アルジャーノンの顔が、揺れていた。
何かを言いかけて、言葉を呑み込むような目をしていた。
沈黙が、重くのしかかる。
「……もういい。言ったから、それでいい」
そう言い捨てて、章吾は背を向けた。
逃げたかった。自分の感情からも、あの目の意味からも。
背を向け、走り出す。目の奥が熱かった。泣きたくなんかないのに、顔がどうしようもなく歪んでいた。
廊下に、足音が響く。
「Hiwatari!」
寮の自室まで一気に駆け上がり、扉を閉める。肩で息をしながら、鍵をかけ、背中でドアを支えた。
ノブが揺れる。
「……Hiwatari。話を……」
「帰れ!」
叫んでしまった。
しばらくして、足音が遠ざかる。
部屋に残されたのは、呼吸の音と、ひとり分の鼓動だけだった。
(バカだな、俺……)
ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かないまま、薄暗い部屋に落ちていった。
夜。
談話室の空気は、日中の熱気をわずかに残しながらも、どこか冷たかった。
章吾は、革張りのソファに沈みこみ、天井をぼんやり見上げていた。
照明の灯りもまばらで、薄暗い空間には、置きっぱなしの雑誌や空き缶だけが散らばっていた。
(……バカみてぇだ)
喉の奥で笑って、傍らのテーブルに手を伸ばす。
──“CIDER”
ラベルの涼しげな色彩。深く考えずにプルタブを引いた。
シュッと空気が抜ける音。
ごくり、ごくり。
炭酸が喉を滑り落ちていく。
(……ちょっと、苦い)
そう思ったけれど、構わずもう一口。
何もかも、どうでもよかった。
誰にも求められていない気がして。
ふと、視界が傾いた。頭がぼうっと熱い。足元がふらつく。
(……あれ?)
手にした缶を見つめる。
──“CIDER”
イギリスでは、それは立派なアルコールだと、思い出すにはもう遅かった。
ソファに崩れるように体を預ける。顔が熱い。心臓が、うるさい。
(……だっせぇ)
かすかに笑った。どうしてこんなことになったのか。きっと、ぜんぶ、あいつのせいだ。
「……Hiwatari?」
背後から聞こえた声。ゆっくり顔を向けると、淡い金髪を揺らすアルジャーノンがいた。
「あー……アルジー?」
口調は緩く、舌が回っていなかった。
「君……酔っているのか?」
「サイダー……飲んだ」
章吾は、にへらと笑う。笑いながら、そのまま寄りかかる。
アルジャーノンの胸元に、額が触れる。
「おい、しっかりしろ」
「うるさい……」
章吾は、ふらりと手を伸ばし──
制服の胸元を掴んで、引き寄せた。
そのまま、頬へと唇を寄せる。
一瞬、世界が止まった。
炭酸の残り香と、柔らかな感触。
触れた、というより、ぶつけた。理性も、言葉も、全部、放り投げて。
「……すき、だったのに」
ぼそりと落ちた一言が、アルジャーノンの心臓を凍らせた。呼吸が止まる。
「Hiwatari……っ」
反射的に、章吾を突き放した。
章吾は尻もちをつき、床にへたりこんだ。見上げる視線が、酔いで濡れていた。
その中には、かすかに「わかっていた」諦めがあった。
「……な、にをするんだ」
掠れた声。
アルジャーノンは震える手を見つめる。何かを叫びそうになって、喉を閉ざした。
「君は……君は、何を……」
言いかけて、言葉が崩れた。額に浮いた汗が、一滴、床に落ちる。
拳が宙に浮かぶ。章吾は目を閉じた。
(殴られる)
そのとき──
「……っ!」
手のひらが打たれたのは、アルジャーノン自身の頬だった。
パチン。乾いた音。
「落ち着け、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」
名を名乗ったその声は、震えていた。
「君には、怒っていない……」
そして、踵を返す。章吾を振り返らずに、扉を開けて出ていく。閉じた音が、冷たく部屋に響いた。
章吾は、床に座り込んでいた。
目の奥が熱く、泣くに泣けなかった。
(……叩かれたわけでもないのに)
(どうして、こんなに痛いんだ)
自分からぶつけたくせに、予想通りの拒絶に、心が空になっていく。
*
そして──そのすべてを見ていた、ひとりの影が。
レジナルド。暖炉の火の前で、ただ静かに目を閉じていた。
「……アルジー」
声にならない呼びかけ。
「君が誰を見ていても、構わない。でも」
「僕は、ずっと君を見ていたんだ」
静かに揺らぐ炎は、彼の心をなだめていた。
朝。
空には、黒い雲が低く垂れこめていた。風は生ぬるく、雨をはらんだ空気が寄宿舎の廊下にまで重くのしかかっている。
──カツン、カツン。
水気を含んだ石造りの床を、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、迷いのない足取りで歩いていた。
足元に反射する光がゆらぎ、彼の姿も、歩みの影も、わずかに歪んでいた。
右手には、小さな黒い箱。
掌の中に、ずっと隠し持ってきたもの。
長く温めて、言葉にできずにいた想いを封じた、それは──
(……本当は、昨夜、渡すつもりだったのだ)
けれど、あの言葉。あの口づけ。
酔いに任せた行為だとしても、あまりに幼く、痛々しくて。突き放してしまった自分が、今も胸の奥で鈍く疼いていた。
(……あんな真似をされても)
(それでも、私は──)
怒ってなどいなかった。
触れられた頬に、まだ微かな温度が残っている気がして、アルジャーノンは無意識に足を速めた。
指先に伝わる箱の重みが、心臓の鼓動と重なり合う。
「ずっと、伝えたかったのだ」
迷いはなかった。
たとえ、彼がどんな顔をしようとも。たとえ、傷つけられた昨日が、すぐには癒えなかったとしても。
この箱に込めたものだけは──渡さなければならない。
「君が必要だ」と伝えるために。
それは贈り物ではなかった。未来を、預けるための小さな鍵だった。
──そんなとき。
廊下の向こうから、章吾が現れた。ぼさぼさの寝癖のまま、片手にバッグを引きずりながら。
二人の視線が、ぶつかった。
その瞬間、章吾の顔色がさっと変わった。
アルジャーノンが持つ箱に、視線が釘付けになる。
「……それ、誰に渡すんだよ」
章吾の声は、低く、震えていた。
アルジャーノンが、言おうとした次の瞬間──
章吾は、アルジャーノンの手から、乱暴に箱を奪い取った。
「おい、Hiwatari ──!」
驚きに声を上げたときには、章吾はもう、駆け出していた。
雨の匂いが濃くなる中、章吾は、奪った箱を胸に抱えて、石畳の向こうへと消えていった。
「返せ、Hiwatari !!」
怒声が、雷鳴とともに廊下に響き渡った。アルジャーノンは、何も迷わず、彼のあとを追った。
バサバサと制服を叩く雨。
石畳に打ち付けるような轟音。
夏のロンドンに、とうとう嵐が降り始めた。
章吾は、ずぶ濡れになりながら走った。
ポケットの中の箱を、力いっぱい握りしめて。
(くそっ、くそ!)
(俺にじゃない。……あの、お嬢様に渡すための──)
思考はぐしゃぐしゃで、目の前も、雨でぐしゃぐしゃに滲んで見えた。
こんなこと、したくないのに。止まれなかった。
雷が頭上で轟いた。
ゴロゴロゴロ──ドンッ!
一瞬、昼間みたいに空が白く光る。
「──Hiwatari !」
後ろから追いかける声。それでも、章吾は止まらなかった。
怖かった。
これ以上、向き合うのが。
(お前の言葉を聞いたら、もう二度と引き返せねぇ気がして──)
「返せ!」
叫ぶ声が、すぐ背後まで迫る。息を切らして走るアルジャーノンが、必死に手を伸ばしてくるのが分かった。
章吾は、ようやく歩みを緩めた。息が切れて、喉が焼けるほど痛かった。
振り返った。
そこにいたのは、金髪がぐっしょりと濡れ、蒼い目が怒りと悲しみに揺れている、アルジャーノンだった。
「……なんで逃げるんだ、君は!」
雨に負けない声で、アルジャーノンが叫ぶ。
「俺のことなんか──ただの友達なんだろ!」
章吾もまた、怒鳴り返した。
「貴族のお坊ちゃんらしく、ちゃんとふさわしい相手に指輪渡して、立派な結婚でもしてくれよ!」
雷が、また空を裂いた。だが、その音よりも、
アルジャーノンの怒りに震える声が、鮮烈に響いた。
「君は──君は、何もわかっていない!!」
ずぶ濡れのふたり。
交差する視線。
雷雨の中、ついに、ふたりの心が正面からぶつかろうとしていた。
「……わかってねぇよ、俺は!」
章吾は、箱を胸に押しつけながら叫んだ。
「ロイヤル・アッシュ家のご令嬢なんか、俺に勝ち目ねぇしよ!」
髪をぐしゃぐしゃに濡らしながら、アルジャーノンが一歩、近づいてきた。
「なぜだ、Hiwatari 。なぜ君だけが、そんなにも、自分を低く見る?」
その声は、今にも泣きそうだった。
「だって、俺は庶民だし、背ぇ低いし、口わりぃし……っ!」
「……お前なんかに──」
喉まで出かけた言葉を、拳で口元に押し当てて、噛み殺す。
その目は真っ赤に濡れていた。
「でも、それでも、俺は……っ!──お前が、好きなんだよ!!」
怒鳴るように叫んだその瞬間、身体からすべての力が抜けた。
章吾は膝をつき、地面に崩れ落ちた。
ポケットから滑り落ちた箱が、カラン、と音を立てて、地面を転がる。
雷が空を引き裂いた。
閃光のなか、アルジャーノンの目が、見開かれたまま震えていた。
彼は一歩、また一歩と、章吾に近づいていく。
その目には、怒りでも戸惑いでもない、ひたすらに焼けるような痛みが滲んでいた。
そして、地面に転がった箱を拾い上げると、しゃがみ込み、章吾と同じ目線に膝を落とした。
「君は……馬鹿だ」
低く、震える声。
「なぜ君は、そんなにも、自分を踏みつけてまで、私を愛そうとするんだ……」
章吾は泣いていた。涙が雨と混じり、区別もつかなかった。
「ロイヤル・アッシュの婚約? あれは父の望みだった。私が選んだのは、最初から君だけだ」
アルジャーノンの声は震えていた。
「その箱は、君に渡すつもりだった」
章吾が顔を上げた。涙が、雨と混じる。
「最初から、ずっとだ」
そう言ったアルジャーノンの頬にも、涙が流れていた。
雷鳴が遠ざかる。
ゆっくりと、箱を開く。
中には、小さな銀の指輪。
雨粒を受けても、その輝きは失われなかった。
章吾は、ぽかんと箱を見つめた。
「……俺に?」
「……君にしか、渡すつもりはない。この指輪は君との未来を誓うものだ」
アルジャーノンは、まっすぐに章吾の目を見た。
「最初から、ずっとだ。婚約話など……すべて断ってある」
章吾は、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で、やっと、やっと、小さく笑った。
「……ほんと、バカだな、俺」
泣き笑いしながら、そっと手を伸ばす。
震える指で、指輪を摘み上げる。
そして、自分の薬指に、そっとはめた。
「これで……絶対、離れねぇ」
雨音のなか、章吾の声は小さくても、誰より強かった。
「私も、永遠に離さない」
雨は、容赦なく降り続いていた。制服も、髪も、指先もびしょ濡れだったけれど。
それでも、章吾の心だけは、少しずつ温かくなっていった。
アルジャーノンは、静かに手を伸ばした。
指輪をはめた章吾の手を、まるで壊れものを扱うように、そっと包み込む。
「これからも──」
低く、震える声でアルジャーノンが言った。
「何があっても、君を信じる」
章吾の胸は、ぎゅっと締めつけられた。この手を、もう二度と離したくない。
この気持ちを、絶対に裏切りたくない。だから、章吾も、必死で声を絞り出した。
「……俺も、信じる」
「お前が俺を好きでいてくれるってこと──信じる」
アルジャーノンが、ふっと微笑んだ。
雨の中でも、その微笑みは、確かに光って見えた。
ふたりは、ゆっくりと距離を詰めた。
どちらからともなく、腕を伸ばす。そして、互いの体を、ぎゅっと抱きしめた。
ずぶ濡れのまま、冷たくなった指先も、濡れた背中も、全部、力いっぱい抱き寄せた。
「……ごめん」
章吾が、肩に顔を押しつけながら、震える声で呟いた。
「……ごめん、アルジャーノン」
彼は初めて、彼の名前を呼んだ。
「謝るな。……私も、臆病だった」
頭上では、また雷が轟いた。もはやふたりを遮るものは何もなかった。
雨音に包まれながら、ふたりはただ、ひたすらに、互いの体温を確かめ合った。
どれだけ冷たい雨に打たれても。この想いだけは、絶対に冷めないと、強く、強く誓った。
*
雨は、いつの間にか小降りになっていた。雷も遠ざかり、空の向こうに淡い光が滲んでいた。
石畳に打ちつけていた雨粒も、今は静かに染み込んでいく音しか聞こえない。ふたりは、まだ抱きしめ合っていた。
「……大好きだ、アルジャーノン」
冷たかったはずの体温は、今ではお互いのぬくもりで満ちている。
「Shogo」
アルジャーノンが、低い声で名前を呼んだ。
章吾は、顔を上げた。
目が赤く腫れているのも、ずぶ濡れの髪も、全部お互い様だった。
「これから先、どんなに遠く離れる日が来ても」
アルジャーノンは、濡れた指先で、章吾の頬をそっとなぞった。
「私は、必ず君のもとへ戻る」
章吾は目を見開き、そして、ぎゅっとアルジャーノンの制服を掴んだ。
「……離れねぇよ。お前がどこに行っても、俺が迎えに行く。雨の日も、雷の日も」
アルジャーノンの胸元に、章吾の拳が小さく震えていた。
彼の蒼い瞳が、揺れた。
「雷には気をつけろ、Shogo」
「打たれないように?」
「ああ。でも、雷には感謝している」
「俺たちは雷で結ばれた──ってな」
互いに、笑った。
ぼろぼろで、みっともなくて、それでも一番、本物の笑顔だった。
ふたりは、静かに指を絡ませた。
雨がやんだ空に、ほんの少し、虹のような光が滲んでいた。
「約束だな。ずっと一緒だ」
「……ああ、約束だ」
雨に濡れた石畳の上で、ふたりは未来へと誓いを交わす。
それは、「雷の日に始まった物語」の、終わりではなく──続きだった。
指先の指輪が、閃光できらりと輝いた。
遠ざかる雷鳴が、ふたりの誓いに静かに応えた。
雨は、夜のうちにすっかりやんでいた。
早朝の空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から、少しだけ柔らかな光が覗いている。
「紅茶、いるか?」
低い声が、カップを持つ手越しに届いた。
「……うん。砂糖は、一つ」
章吾は素直に答えた。珍しいことに、アルジャーノンも何も言わなかった。
ふたりは、寮の談話室の窓辺に並んで座っていた。
制服は着替えていたが、髪はまだ湿っている。お互いに、乾かすのも忘れていた。
テーブルの上には、あたたかい湯気の立つティーカップと、焼きたてのスコーン。
どちらも、特別なものではないが、これ以上ないほど満ち足りた時間だった。
章吾は、指先で薬指を触れた。そこには、まだ慣れない感触の指輪がある。
「ほんとに……これ、俺がもらってよかったのか?」
ポツリと漏らした言葉に、隣から小さなため息が返る。
「また言うのか、君は」
「いや……なんか、夢みてぇだなって」
アルジャーノンは、静かに笑った。
「これは夢ではない。そして君が思うより、私は本気だ」
章吾は、照れたように顔をそらす。
「……だったら、お前のその笑い方、やめろよ。なんか、負けた気になるじゃん」
「勝敗ではない。これは、誓いだ」
指先が、そっと重なった。そこにあるぬくもりを、互いに確かめるように。
「……なあ」
「うん?」
「卒業したらさ、いっしょに暮らすのって、アリか?」
「もちろん。だが、条件がある」
「は?」
「君が、私の家に来てくれるなら」
章吾は目を丸くしたが、すぐに噴き出した。
「じゃあ、お前が日本に来いよ。うちのコタツ、最高だぞ」
「……コタツとは何だ」
「コタツってのはさ……帰ったら見せてやるよ」
朝日が、ようやく雲の隙間から差し込んできた。
ふたりのティーカップのなか、光がきらりと反射する。その向こうにある未来は、まだ霧がかかっているかもしれない。
それでも。
この朝を共に迎えたという、それだけで、もう十分だった。
章吾は、目を細めながら言った。
「おはよう。アルジャーノン」
アルジャーノンは、少しだけ驚いたようにこちらを見たあと、微笑んだ。
「……おはよう、Shogo」
窓の外では、小鳥が一声、鳴いた。新しい一日が、ふたりの上に始まっていた。
荘厳なパイプオルガンの音が、白い礼拝堂に響いていた。
日曜の朝。
子供たちが集まる合唱団は、清らかな声で賛美歌を練習していた。
その影。祭壇の裏で、小さな男の子が肩を震わせていた。
やわらかな金髪に青く澄んだ瞳。まだ幼いアルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルだった。
「……っ」
小さな手でぎゅっとローブを握りしめている。
さっき。歌の音程がずれてしまっただけで、お父様に「精神が弱い」と叱責された。
それが、あまりに悔しくて、悲しくて──涙を堪えきれなかった。
そんな彼のそばに、ふわりと影が落ちた。
「アルジー?」
にこにこ笑いながら近づいてきたのは、ブラウンヘアの、いたずらっぽい美少年──レジナルドだった。
「……みるな、レジー」
アルジャーノンは、ぷいっと顔を背けた。レジナルドは、くすっと笑った。
「アルジーは、がんばりやさんだね」
「……がんばってなど、いない……」
むくれながらも、震える声。
レジナルドは、そっとアルジャーノンの手を握った。小さな手、冷たい指先。
「ぼくは、アルジーのこと、かっこいいって思ってるよ」
「……っ、なぜだ」
「がんばってる姿、ちゃんと知ってるもん」
レジナルドは、きらきら笑った。太陽みたいに、あたたかく。
アルジャーノンは、目を見開いた。
そして──
「ありがとう、レジー……!」
しゃんと顔を上げ、笑った。
満面の、太陽みたいな笑顔で。
レジナルドは、その瞬間──小さな胸の奥に、ふわりと、あたたかい何かが灯るのを感じた。
(……かわいい)
(……すきだ)
そう、初めて思った。
まだ「恋」という言葉を知らなかったけれど、レジナルドは、確かにその瞬間──アルジャーノンに、恋をした。
*
ノートをめくる音が静かに響く。
図書室の隅、チャド、章吾、レジナルド、アルジャーノンが勉強していた。
ふと、章吾がぼそっと呟いた。
「なあ、レジナルド。おまえとアルジャーノンって、いつから知り合いなんだ?」
レジナルドは、楽しそうに笑った。
「アルジーと僕? 小さいころからだよ。ほら、家族ぐるみの付き合いだったから」
「へぇー」
章吾は気軽に相槌を打ったが、レジナルドはさらに爆弾を落とす。
「アルジー、昔は泣き虫だったんだよ? 礼拝堂の影で、よく泣いてたなぁ」
「っ」
アルジャーノンは、珍しく頬を赤く染めた。
「……くだらん話をするな、レジー」
「ふふ、だって可愛かったんだもん」
にこにこ。天使の微笑み。
「……おまえ、アルジーが好きだったのか?」
章吾が苦い顔で問いかける。
レジナルドは、まるで当然だというように頷いた。
「うん。あのとき、アルジーが僕に満面の笑みを向けて──それで、恋に落ちちゃったんだ」
章吾、即死。
「はぁ!?ちょ、待て待て待て!!!」
図書室に、章吾の絶叫が響く。
「なんだその運命みてぇなエピソードは!!ふざけんな!オレ知らねぇぞそんな話!!」
「だって、Hiwatari君には話してなかったもん」
レジナルドは、けろりと笑う。
「大事な思い出だからね、僕とアルジーだけの」
章吾は、地面に転がる。
「ぐぅぅぅ!!おまえら、なんなんだぁぁ!!」
「……くだらん」
アルジャーノンは、ふっと目をそらす。
が、その耳は赤かった。
レジナルドは、章吾のジタバタを見ながら、にっこり満足そうに笑った。
(やっぱり、可愛いものは、昔も今も、変わらないね)
心の中で、そっと呟きながら。
──そして章吾は、その夜ずっと、アルジャーノンを独占すべく、必死で勉強を手伝う羽目になったのだった。