「……なあ、俺のこと、見てるよな?」

 朝の食堂。カップを手にしたまま、章吾がふいに言った。

 アルジャーノンはスプーンをじゃりと鳴らしながら、顔を上げる。

「何の話だ」
「いや、最近……視線、感じるっていうか」
「君の『自意識過剰』ではないか?」
「マジで言ってんの?」
章吾は目を細めて、訝しげに相手を見返す。

「っていうかさ。お前、角砂糖入れすぎだろ」
「……君には関係ない。五個だけだ」
 アルジャーノンは、いかにも当然という口ぶりだった。

「甘すぎんだろそれ」
「甘さは、心の余白だ」
 どこか誇らしげな態度に、章吾は吹き出した。

「君は甘さを避ける。だから、人生もほろ苦い」
「……はいはい、お貴族様」
 そう返しながらも、頬のあたりが自然と緩んでいた。

 ……ただの、くだらない朝の会話。
 なのに、そんなやりとりが少しだけ心地よかった。

 ふと、脳裏をよぎった。

(案外、ルームシェアも悪くないかもな)

 ──だが。日常なんて、いつだって崩れるものだ。




「さて、今日は『貴族制の変遷』について」

 静かに始まった授業で、チョークが黒板を走る。

「British Peerage System」

 白い文字の向こうで、章吾の喉が、かすかに鳴った。

(……嫌なテーマきた)

 ひやりと背筋が凍る。

「日本は、戦後に華族制度が廃止されましたね」

 教授の目が、ふいにこちらを向いた。

「Hiwatari君。君の家は?」

 ……一瞬、空気が止まった。

「元・男爵家のひ孫です」

 そう答えると、何人かがくすっと笑った。冗談めいた空気の中に「棘」があった。

 アルジャーノンが、何かを言いかけた気がした。章吾はそれを断ち切るように、ペンを動かし続けた。

(……こっちじゃ、笑い話なんだよ。いくら日本で『日渡家』が有名でも)

 黒板に並ぶ「Duke」「Earl」「Marquess」。 目の前の貴族たちと、自分との隔たり。それが胸に刺さって、抜けなかった。


 授業後。廊下で、章吾はアルジャーノンとすれ違おうとした。そのとき。

「……君のことを、家柄で測るつもりはない」
 その声は、穏やかで、あたりまえのように優しかった。

 章吾の肩が、ぴくりと動く。

「そういうとこが、ムカつくんだよ」

 真っ直ぐすぎる目。なんでだろう、それが少しだけ腹立たしかった。

 わかったような顔をするなよ。わかってないくせに。

「お前には、わかんねぇだろ」

 アルジャーノンの瞳が、わずかに揺れた。不意に、胸の奥に沈めていた記憶が顔を出す。


「章吾。おうちのこと、誇っていいのよ」

 ──母の声だった。

 優しくて、やわらかくて。でももう、どこにも届かない声。家が壊れたあの日、誇りも、安心も、全部なくなった。

 だから今は、自分で守らなきゃいけない。プライドも、居場所も、誰にも任せられない。

「わかろうとしている。君が思っている以上に」

 アルジャーノンの声が、低く、静かに響いた。

 章吾は机の縁を握りしめた。

「だったら──俺の劣等感、イメージできるのかよ」

 喉の奥がつまって、声が震えた。

 アルジャーノンは、目を伏せて、ぽつりと呟く。

「……わからないことはある。しかし、君を一人にすることはできない」

「勝手にすれば」

 章吾は立ち上がる。椅子を引く音だけが、教室に残った。
 アルジャーノンはただ、黙ってその背中を見送った。



(感情は、言葉にするものではない)

 アルジャーノンは、そう教えられてきた。喜びも怒りも、愛さえも──静かに、沈黙の中に封じ込めるものだと。

 それなのに、その沈黙は──あまりにも、届かなかった。

(もし、言葉で届くのなら)

 胸の奥で、何かがつかえていた。その先を言葉にしようとするのに、どうしても声にならなかった。

 ふたりのあいだに、また沈黙が落ちる。それは深く、重く、そして、痛かった。

 同時に、その沈黙の向こうにあるものを──もう少しだけ知りたくなっていた。

 なぜなら、あの背中が、どうしようもなく、放っておけなかったからだ。