雨が降り出したのは、夕食を終えた頃だった。
最初は静かだった雨音が、じわじわと激しさを増し、やがて風が窓を軋ませ始めた。春の終わりにしては、あまりに荒々しい嵐。
章吾はひとり、灯りのついた部屋で机に向かっていた。だが、ノートの文字はまったく頭に入ってこない。
ガラス越しに響く風と雨の不穏なリズムが、胸の奥のざわつきを煽ってくる。
「……うるせぇっての……」
無理やり独り言で紛らわせようとするも、ペンを握る手がかすかに震えていた。
ピカッ。
窓の外が、昼間のように一瞬真っ白になる。
──ドンッ!!!
「っ……!」
爆音のような雷鳴が、天井を突き破るように響いた直後。
照明が、ぱちん、と音を立てて消えた。
寄宿舎全体が、瞬く間に沈黙と闇に沈む。
章吾の心臓が、ぎゅうっと縮こまった。
──息が、できない。
ただの停電。それはわかっていた。でも、頭より先に、体が凍りついていた。
──地震だ。
──また、あの夜が来た。
視界が奪われる前に脳裏に焼き付いている記憶が、雪崩のように押し寄せる。
瓦礫の音、割れた皿、母の叫び声。助けを呼ぶ声も、泣き声も、全て飲み込まれた暗闇。
「……やだ……やめてくれ」
喉の奥で声にならない声が漏れる。
がたがたと震える手でスマートフォンを探り、わずかな光を頼りに扉へ駆け出した。
「っ……!」
廊下に飛び出した瞬間、誰かとぶつかった。
バランスを崩し、背中から床に倒れ込む。スマートフォンが転がり、暗がりの中にぼんやりと光を投げた。
「大丈夫か」
その声に、反射的に肩が跳ねた。
──知っている声。
「Hiwatari……だろう?」
光の中で、はっきりと輪郭が浮かび上がった。アルジャーノンだった。
章吾は、呼吸ができなかった。喉が詰まり、涙が止まらない。
「だいじょ……ぶ、じゃ、ない……っ」
震えながら、ようやく絞り出した声。みっともないなんて思う余裕もなかった。この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がしていた。
「落ち着け。大丈夫だ。何も壊れていない。停電だけだ」
アルジャーノンの声は、静かだった。急がず、諭すような調子で、一語一語が胸に沁み込んでいく。
章吾は、ひざを抱えて座り込むしかなかった。冷たい床が背中にしみる。頭の中は真っ白なのに、恐怖だけが鮮やかに残っている。
「……むり……嫌だ……こわい……」
震える唇から、こぼれた言葉は子どもみたいだった。そんな自分が情けなくて、でも、それすら言葉にできなかった。
「……怖くない。私がいる」
その一言に、章吾はぴたりと動きを止めた。アルジャーノンが、ゆっくりと膝をつき、そっと背中に手を添えてくる。
優しくて、あたたかい掌。力を加えるでもなく、ただそこに在るように。中を、ゆっくりと、一定のリズムで撫でてくれる。
「っ……あ……」
喉が詰まり、しゃくりあげるように泣いた。でも──不思議と、少しずつ呼吸が整っていった。掌から伝わる体温が、じんわりと心に染みてくる。
(……この人が、いてくれてよかった)
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。こわばっていた指が少しずつゆるみ、瞼が静かに震えた。
そして章吾は、はっきりと気づいた。
──好きだ。
この人の声が、この人の手が、他の誰でもなく自分に向けられていることが、こんなにも安心するなんて、知らなかった。
でも──その安堵は、あまりにも唐突に破られる。
バチン。
どこかのブレーカーが作動する音がして、ぱっと廊下の照明が点いた。眩しい光が、容赦なくふたりを照らす。
章吾は反射的に顔を背けた。目元を腕で覆いながら、ぎゅっと膝を抱える。
(見ないでくれ)
涙でぐしゃぐしゃの顔。情けないほど取り乱した姿。震えながら縋っていた自分。
たった今まで闇の中だから許せていたのに、光が差した途端、それらが恥ずかしさとなって全身を焼く。
でも──それだけじゃない。
さっき、思ってしまった。
(……好きだ)
その感情が、はっきりしてしまった今。彼の顔を見るのが、怖かった。顔を上げれば、きっとアルジャーノンの目がある。まっすぐな、あの目。
あの目を、今の自分に向けられるのが、どうしようもなく、こわい。
消えかけた涙が、また目尻ににじんだ。
アルジャーノンは何も言わず、静かに立ち上がった。
その金髪が、光に照らされて輝いていた。
瞳は、驚くほど青くて、澄んでいて──まっすぐに章吾を見ていた。
「もう、大丈夫か」
「……ありがと。マジで助かった」
章吾は小さく、けれどしっかりと言った。
アルジャーノンは目を細めた。
まるで、安堵と優しさとを同時に浮かべるような、そんな表情だった。
ふたりの間に、言葉がなくても通じ合う何かが流れていた。
章吾はそっと立ち上がり、壁にもたれかかる。
「……俺さ、前に地震で家が壊れたことあんだ」
それはずっと喉の奥に詰まっていたものでもあった。
「真夜中に、家、揺れて……天井、落ちて。
母親の声も聞こえなくなって。
真っ暗の中で、誰かに触れるのも怖くて──でも、ひとりじゃいられなかった」
声が少し震えていた。それでも話しながら、どこか少しだけ心が軽くなっていくのを感じていた。
アルジャーノンは何も言わず、黙ってその話を聞いてくれていた。
「……怖かったんだよ、あのとき」
章吾はそう言いながら、ふっと笑った。情けなくて、恥ずかしくて、でもどこかで笑うしかないと思っていた。
アルジャーノンはその横顔を、黙って見つめていた。
「それ以来、暗闇とか、音とか……ダメになっちまってさ。普段は平気なふりしてても、急にスイッチ入ると、もう……動けなくなる」
「それは、自然なことだ。誰だって、恐怖には形がある」
低く、落ち着いた声だった。無理に励まそうとするわけでもなく、ただ寄り添うような言葉。
その言葉の響きが、心にやさしく触れた。
「……おまえ、なんか兄貴っぽいな」
ふと、章吾が口にした。言ってから、少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。
アルジャーノンは小さく瞬きをして、口元をゆるめた。
「そうかもしれんな。私は、六人兄弟の長男だ」
「……は?」
章吾は思わず、ぽかんと口を開けた。
「六人……って、マジで?!」
「ああ。弟も、妹もいる。あまり騒がしくて、いつも私はひとり静かな場所を探していた」
言いながら、どこか懐かしそうな口調だった。
章吾は驚きながらも、なんとなく納得したような気がした。
「そっか……だから、なんか落ち着いてんのか。背中さすんのとか、めっちゃ慣れてたし」
「子どもはよく泣く。あやすのも、背中をさするのも、だいたい長男の仕事だ」
「へぇ、じゃあ、俺も子ども扱いされてたってことかよ」
ぼやきながらも、その声はどこか照れていた。
アルジャーノンは、静かに笑った。そして、思う。
──この少年は、まるで昔の弟のようだ。でも、もっと脆くて、不器用で、守りたくなる。
照明が復旧した寮の廊下には、もうあの闇は残っていなかった。
章吾は窓の外をちらりと見た。雷は遠ざかり、雨も音を潜めている。嵐はもう、過ぎ去ったのかもしれない。
「なあ」
口を開くと、さっきまで張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
「お前、あん時……なんであんなに落ち着いてたんだよ。俺なんか、ガチでヤバかったのに」
「私は、暗闇が嫌いではない。静かで、余計なものが見えないからな」
アルジャーノンの言葉はいつも通りだった。章吾は、ふっと笑った。
「そっか。でも、ほんとにありがとな」
「礼には及ばない。私は、君の兄のようなものだからな」
「言ったな、それ」
小さく言い返して、ふたりは再び静かになった。
章吾はゆっくりとアルジャーノンのほうを見た。その金髪も、碧い瞳も、もう見慣れたはずなのに──今夜は、なぜだかやけに綺麗に見えた。
(こいつのこと、好きだ)
それは、静かに心の中で何度も繰り返された確信だった。
「じゃ、俺……そろそろ部屋、戻るわ」
「……ああ」
章吾が背を向けて歩き出したとき、後ろから優しい声がかかった。
「なあ、Hiwatari」
「ん?」
「……私の隣は、暗くないぞ」
その言葉に、章吾は驚いたように顔を上げる。
ほんの数秒の間を置いて、彼はふいとそっぽを向いた。
「……何言ってんだ」
その一言に、アルジャーノンはくすりと笑った。
「Hiwatari──また、明日」
章吾は立ち止まって、振り返らずに手をあげた。兄弟のように温かく、信頼をもって。
最初は静かだった雨音が、じわじわと激しさを増し、やがて風が窓を軋ませ始めた。春の終わりにしては、あまりに荒々しい嵐。
章吾はひとり、灯りのついた部屋で机に向かっていた。だが、ノートの文字はまったく頭に入ってこない。
ガラス越しに響く風と雨の不穏なリズムが、胸の奥のざわつきを煽ってくる。
「……うるせぇっての……」
無理やり独り言で紛らわせようとするも、ペンを握る手がかすかに震えていた。
ピカッ。
窓の外が、昼間のように一瞬真っ白になる。
──ドンッ!!!
「っ……!」
爆音のような雷鳴が、天井を突き破るように響いた直後。
照明が、ぱちん、と音を立てて消えた。
寄宿舎全体が、瞬く間に沈黙と闇に沈む。
章吾の心臓が、ぎゅうっと縮こまった。
──息が、できない。
ただの停電。それはわかっていた。でも、頭より先に、体が凍りついていた。
──地震だ。
──また、あの夜が来た。
視界が奪われる前に脳裏に焼き付いている記憶が、雪崩のように押し寄せる。
瓦礫の音、割れた皿、母の叫び声。助けを呼ぶ声も、泣き声も、全て飲み込まれた暗闇。
「……やだ……やめてくれ」
喉の奥で声にならない声が漏れる。
がたがたと震える手でスマートフォンを探り、わずかな光を頼りに扉へ駆け出した。
「っ……!」
廊下に飛び出した瞬間、誰かとぶつかった。
バランスを崩し、背中から床に倒れ込む。スマートフォンが転がり、暗がりの中にぼんやりと光を投げた。
「大丈夫か」
その声に、反射的に肩が跳ねた。
──知っている声。
「Hiwatari……だろう?」
光の中で、はっきりと輪郭が浮かび上がった。アルジャーノンだった。
章吾は、呼吸ができなかった。喉が詰まり、涙が止まらない。
「だいじょ……ぶ、じゃ、ない……っ」
震えながら、ようやく絞り出した声。みっともないなんて思う余裕もなかった。この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がしていた。
「落ち着け。大丈夫だ。何も壊れていない。停電だけだ」
アルジャーノンの声は、静かだった。急がず、諭すような調子で、一語一語が胸に沁み込んでいく。
章吾は、ひざを抱えて座り込むしかなかった。冷たい床が背中にしみる。頭の中は真っ白なのに、恐怖だけが鮮やかに残っている。
「……むり……嫌だ……こわい……」
震える唇から、こぼれた言葉は子どもみたいだった。そんな自分が情けなくて、でも、それすら言葉にできなかった。
「……怖くない。私がいる」
その一言に、章吾はぴたりと動きを止めた。アルジャーノンが、ゆっくりと膝をつき、そっと背中に手を添えてくる。
優しくて、あたたかい掌。力を加えるでもなく、ただそこに在るように。中を、ゆっくりと、一定のリズムで撫でてくれる。
「っ……あ……」
喉が詰まり、しゃくりあげるように泣いた。でも──不思議と、少しずつ呼吸が整っていった。掌から伝わる体温が、じんわりと心に染みてくる。
(……この人が、いてくれてよかった)
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。こわばっていた指が少しずつゆるみ、瞼が静かに震えた。
そして章吾は、はっきりと気づいた。
──好きだ。
この人の声が、この人の手が、他の誰でもなく自分に向けられていることが、こんなにも安心するなんて、知らなかった。
でも──その安堵は、あまりにも唐突に破られる。
バチン。
どこかのブレーカーが作動する音がして、ぱっと廊下の照明が点いた。眩しい光が、容赦なくふたりを照らす。
章吾は反射的に顔を背けた。目元を腕で覆いながら、ぎゅっと膝を抱える。
(見ないでくれ)
涙でぐしゃぐしゃの顔。情けないほど取り乱した姿。震えながら縋っていた自分。
たった今まで闇の中だから許せていたのに、光が差した途端、それらが恥ずかしさとなって全身を焼く。
でも──それだけじゃない。
さっき、思ってしまった。
(……好きだ)
その感情が、はっきりしてしまった今。彼の顔を見るのが、怖かった。顔を上げれば、きっとアルジャーノンの目がある。まっすぐな、あの目。
あの目を、今の自分に向けられるのが、どうしようもなく、こわい。
消えかけた涙が、また目尻ににじんだ。
アルジャーノンは何も言わず、静かに立ち上がった。
その金髪が、光に照らされて輝いていた。
瞳は、驚くほど青くて、澄んでいて──まっすぐに章吾を見ていた。
「もう、大丈夫か」
「……ありがと。マジで助かった」
章吾は小さく、けれどしっかりと言った。
アルジャーノンは目を細めた。
まるで、安堵と優しさとを同時に浮かべるような、そんな表情だった。
ふたりの間に、言葉がなくても通じ合う何かが流れていた。
章吾はそっと立ち上がり、壁にもたれかかる。
「……俺さ、前に地震で家が壊れたことあんだ」
それはずっと喉の奥に詰まっていたものでもあった。
「真夜中に、家、揺れて……天井、落ちて。
母親の声も聞こえなくなって。
真っ暗の中で、誰かに触れるのも怖くて──でも、ひとりじゃいられなかった」
声が少し震えていた。それでも話しながら、どこか少しだけ心が軽くなっていくのを感じていた。
アルジャーノンは何も言わず、黙ってその話を聞いてくれていた。
「……怖かったんだよ、あのとき」
章吾はそう言いながら、ふっと笑った。情けなくて、恥ずかしくて、でもどこかで笑うしかないと思っていた。
アルジャーノンはその横顔を、黙って見つめていた。
「それ以来、暗闇とか、音とか……ダメになっちまってさ。普段は平気なふりしてても、急にスイッチ入ると、もう……動けなくなる」
「それは、自然なことだ。誰だって、恐怖には形がある」
低く、落ち着いた声だった。無理に励まそうとするわけでもなく、ただ寄り添うような言葉。
その言葉の響きが、心にやさしく触れた。
「……おまえ、なんか兄貴っぽいな」
ふと、章吾が口にした。言ってから、少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。
アルジャーノンは小さく瞬きをして、口元をゆるめた。
「そうかもしれんな。私は、六人兄弟の長男だ」
「……は?」
章吾は思わず、ぽかんと口を開けた。
「六人……って、マジで?!」
「ああ。弟も、妹もいる。あまり騒がしくて、いつも私はひとり静かな場所を探していた」
言いながら、どこか懐かしそうな口調だった。
章吾は驚きながらも、なんとなく納得したような気がした。
「そっか……だから、なんか落ち着いてんのか。背中さすんのとか、めっちゃ慣れてたし」
「子どもはよく泣く。あやすのも、背中をさするのも、だいたい長男の仕事だ」
「へぇ、じゃあ、俺も子ども扱いされてたってことかよ」
ぼやきながらも、その声はどこか照れていた。
アルジャーノンは、静かに笑った。そして、思う。
──この少年は、まるで昔の弟のようだ。でも、もっと脆くて、不器用で、守りたくなる。
照明が復旧した寮の廊下には、もうあの闇は残っていなかった。
章吾は窓の外をちらりと見た。雷は遠ざかり、雨も音を潜めている。嵐はもう、過ぎ去ったのかもしれない。
「なあ」
口を開くと、さっきまで張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
「お前、あん時……なんであんなに落ち着いてたんだよ。俺なんか、ガチでヤバかったのに」
「私は、暗闇が嫌いではない。静かで、余計なものが見えないからな」
アルジャーノンの言葉はいつも通りだった。章吾は、ふっと笑った。
「そっか。でも、ほんとにありがとな」
「礼には及ばない。私は、君の兄のようなものだからな」
「言ったな、それ」
小さく言い返して、ふたりは再び静かになった。
章吾はゆっくりとアルジャーノンのほうを見た。その金髪も、碧い瞳も、もう見慣れたはずなのに──今夜は、なぜだかやけに綺麗に見えた。
(こいつのこと、好きだ)
それは、静かに心の中で何度も繰り返された確信だった。
「じゃ、俺……そろそろ部屋、戻るわ」
「……ああ」
章吾が背を向けて歩き出したとき、後ろから優しい声がかかった。
「なあ、Hiwatari」
「ん?」
「……私の隣は、暗くないぞ」
その言葉に、章吾は驚いたように顔を上げる。
ほんの数秒の間を置いて、彼はふいとそっぽを向いた。
「……何言ってんだ」
その一言に、アルジャーノンはくすりと笑った。
「Hiwatari──また、明日」
章吾は立ち止まって、振り返らずに手をあげた。兄弟のように温かく、信頼をもって。



