朝。寄宿舎には目覚ましよりも早く、不機嫌な舌打ちが響いた。

──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルの声だった。

「おい、起きろ」

 肩をぐいと揺さぶられて、章吾は反射的に呟いた。

「……ママぁ……」

 その瞬間、意識が一気に冴える。

「ふむ、Hiwatariはママと同室か」
「ち、ちが……っ!」

 章吾は慌てて布団に潜り込んだ。耳の奥までじんわりと熱くなる。

 ふと、空気が止まった気がした。布団越しに、彼の視線を感じる。

(……見てる?)

 笑ったのか、呆れたのか。──それとも。

「起きろ、Hiwatari。私はママではない」

 その言葉の優しさに、胸がどきりと高鳴った。



 
 章吾にとって、初めての授業が始まった。
 開始早々、章吾は手を上げる。

「先生。そこ、符号が逆です」

 教室に、ざわめきが起こった。
 
 教師が「よく気づいたね。書き間違えていた」と決まり悪そうに頭を下げた。
 
 その中で──アルジャーノンからの視線。
 まっすぐに、射貫くように。

「見んなよ、貴族」

 言いながら、内心はもっと騒がしい。あの目に触れるたび、心の奥がざわっと揺れる。

 アルジャーノンはほんの少し、口元を動かした。

「君のことなど、見ていない」

 そんな風に、聞こえた。

 そして視線だけが、妙に胸に残った。


 授業が終わり、章吾は中庭を歩いていた。

「あの留学生、何者だ」というざわめきの中で、声をかけてきたのは、クラスメイトのエミールだ。

「君、すごいよね。さっきの、なんで気づいたの?」
「ああ、それは……」
 章吾が説明しようとしていると、目の端にアルジャーノンが映った。

 そしてその隣には、ひとりの少年。

 ふたりの距離は、近い。

「ねぇ、アルジー。まさか本気で彼のこと、気にかけてる?」

「はは、レジー。Hiwatariはそんなんじゃないよ」

 声が届いた。

(……俺のこと?)

 足が、止まった。声は軽く笑っていたのに、胸の奥がきゅっと縮まる。

──レジー。アルジー。

 親しげな呼び名が、ひどく遠く感じた。

 その瞬間、アルジャーノンがこちらに目を向けた。少し遅れて、隣の少年も。

 レジーと呼ばれたその少年は、章吾と目が合うと、にやりと片頬を上げた。

 そのままゆっくりと視線を逸らし、アルジャーノンの肩に軽く手を添えて、踵を返す。

 アルジャーノンも、それに続くように奥へと消えていった。

(……誰だよ、あいつ)

 胸の奥で、ひとつ音がした。ぱきりと、ヒビが入るような音。

 「章吾?」

 クラスメイトのエミールにも、返事ができない。

 笑うふりはできた。でも、気持ちは笑ってなんかいなかった。

 ──あんな顔、俺には向けたことなかったくせに。

 あの目、あの笑い声、あの距離。

(……何なんだよ、お前)

 ざわつく心をごまかすように、章吾は足早に歩き出した。あの光景だけが、脳裏にこびりついて離れなかった。



 夜。ペンを走らせながら、ふと顔を上げる。

──向こうのベッドから、アルジャーノンが見ていた。

 目が合って、すぐに逸らされる。

「……なに、見てた?」
「君が先に見ていた」
「は? いや、そっちが先に──」
「証拠は?」

 ムカついて、思わず笑ってしまう。アルジャーノンもふ、と目元を緩めた。

 敵でも、ただのルームメイトでもない──気づけば、あの目を追ってしまう。

(これって──?)

 章吾は、ランプの明かりをそっと落とした。暗闇の中で、鼓動だけが熱を持っていた。