扉が、ノックされた。

「Hiwatariくん。修理が完了したそうだ」

 寮監督の落ち着いた声に、章吾は思わず振り向いた。扉の外に立つ男の背後には、別の職員がふたり、控えるように立っていた。

「えっ……?」
「君の部屋だよ。今朝には家具も整っていたらしい」

 まるで予約していた部屋に案内されるような調子だった。

 章吾は一瞬、言葉を失った。そんな急な話、昨日の時点では何も聞いていなかったはずだ。

 目をやると、アルジャーノンが窓際でティーカップを手にしていた。その目は外の景色の一点を見つめたまま動かない。

「……急だな」

 ようやく絞り出した章吾の言葉に、アルジャーノンはゆっくりとこちらを見た。

「そうだな」

 それ以上、彼は何も言わなかった。

 監督生が一歩下がり、「案内します」と促す。

 章吾は立ち上がり、最後にもう一度部屋を見渡した。数日前には見知らぬ場所だった空間が、なぜか今は、背中にひっかかるように名残を残す。

 何もなかったように整った部屋。何も言わないままの相手。それでも、章吾は直感していた。

 ──これは、誰かの「意思」だ。

 そしてその誰かが、ただの寮職員ではないことも、薄々わかっていた。



 食堂を出たあと、ふたりは並んで廊下を歩いた。靴音だけが、石造りの床に小さく響く。落ち着かない気持ちで、章吾はただ前を向く。

(……なんだよ、この空気)

 何か言わなきゃ、と思った。沈黙が、耐えられなかった。

「……そろそろ、荷物まとめないとな」

 軽い調子のつもりだった。でも、声は思った以上に乾いていた。

 アルジャーノンが、ぴたりと足を止める。章吾も立ち止まった。振り返ると、アルジャーノンは何かを言いかけて、やめた。

 無言で、並んで歩き出した。それぞれ、胸の中に答えのないざわざわを抱えながら。春の光だけが、廊下の先を白く照らしていた。




 章吾はスーツケースの前で、手を止めた。荷物は少ない。すぐに終わる。しかし、ひとつずつ物を詰めるたび、胸の奥がざわついた。

(……ここで終わりにするのが、いちばん平和なんだろ)

 ふたりでいることで、何かを壊してしまうくらいなら。

 これ以上、あいつが周囲から変な目で見られるくらいなら。自分が引くのが、きっと正解なのだ。

(これが、あいつのため……かもしれない)

 理由づけのように、そう思った。そう思うことでしか、自分の胸の苦しさに抗えなかった。

 ──そのときだった。

「……夜まで、ここにいてくれないか」

 後ろから、低く落ちる声。章吾は、驚いて振り返った。

「……は?」

 アルジャーノンは視線を落としたまま、もう一度、言った。

「……夜まで。今日で最後だなんて、……思いたくなかった」

 その声は、震えてはいなかった。それでも、どこか切実だった。

 章吾は、言葉を失った。

(なんで、そんな顔で言うんだよ)

(俺は、おまえのために離れようとしてたのに……)

 理屈も距離も、胸の奥のざわつきも、全部が意味を失っていく。

(ずるいよ、おまえ……そんな顔すんなよ)

 断れるはずがなかった。

「……わかった」

 小さくうなずいたとき、アルジャーノンの肩が、すこしだけ落ちた。

 ほんのわずかでも、安心したような気配が漂っていた。

 なにか、大切なものがひっそりと結び直された気がした。