雷が落ちた瞬間、人生も軌道を外れた。

「大好きだ、アルジャーノン」

 ずぶ濡れの制服。肩に打ちつける雨。
 息がかかる距離で、黙って抱きしめていた。

 頬に触れる髪が冷たくて、それでも温かかった。

 ──それから、物語は遡る。
 すべての始まりだった、あの朝へ。



 ロンドンの街に、冷たい雨が降っていた。

「……最悪。なんで今日なんだよ」

 日渡章吾は、泥の跳ねた革靴にうんざりしながら、キャリーバッグを引く。
 目の前には──石造りの校舎、Elargrave College(エラグレイヴ・カレッジ)。

 完璧に刈り込まれた芝生に、どこか博物館めいた静けさが漂っていた。

(……こたつとみかんの方が、百万倍ありがたい)

 しかし、父は言った。

「一流のリーダーには、一流の学び舎を」

 こうして章吾は、この全寮制の男子校に、放り込まれたのだった。
 額をぬぐいながら、章吾は深く溜息をつく。

「……日本帰りてぇ」

 その瞬間だった。
 空が、雷鳴で裂けた。

 思わず顔を上げた、その先に──ひとりの少年が、中庭に立っていた。

 金色の髪。濡れたような青い瞳。
 何もかもが現実離れしているのに、視線だけが真っ直ぐだった。

 章吾は、言葉を失っていた。
 彼の唇が、確かに動いた。

「……君は、誰だ」

 声は聞こえない。それでも、わかる気がした。
 章吾は、ふいと視線を逸らし、キャリーバッグの取っ手を握り直す。胸の鼓動がおさまらない。

──たった一度、目が合っただけなのに。
 その一瞬が、目に焼き付いて離れなかった。



 雷は、いつの間にか遠ざかっていた。悪天候にもかかわらず、講堂の中は不自然なほど静かだった。

(……なんだったんだ、あれ)

 泥。雨。雷光。
 金色の髪。青い瞳。
 ──そして、あの視線。

 ほんの数秒の出来事なのに、頭の奥で、何度も繰り返している。

 ふう、と浅く息を吐いて、章吾は椅子に腰を下ろした。
 正面には重厚なパイプオルガン。ステンドグラス越しの雨空が、鈍く滲んで見える。

 壇上では、式典が粛々と進んでいた。
 校長、卒業生代表、理事──よく通る声が、雨音の記憶を上書きしていく。

 ……そして。

 次に舞台に現れたのは──あの、雷のなかの少年だった。

 燕尾服に身を包み、静かに立つ。一切の無駄がない、完璧な所作。照明に浮かぶ姿は、まるで絵画のようだった。

「在校生代表、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」

(……名前、長っ)

 章吾は思わず眉をひそめた。

 アルジャーノンは、壇上から視線を滑らせるように客席を見渡した。その動きは淀みなく、美しく、冷たかった。

 目が合った──ような気がした。
 その一瞬、章吾の背筋に、微かな緊張が走った。

 続いて、式次第は「新入生成績発表」に移っていく。壇上に立った校長が、名を告げた。

「Top of the class──Shogo Hiwatari」
(首席──日渡 章吾)

 講堂に、ざわめきが広がった。

 すぐに気づく。多くの視線が、自分に向いていることに。

「無名のアジア人が首席?」
 目は何も言わないけれど、空気は語っている。

(……ふぅん)

 章吾は無表情のまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、壇上を見た。

 あの金髪の少年が、いた。

 それから、目が合った。彼の眉が、ほんのわずかに跳ねる。

──敵意。

(……なるほど)

 章吾は、鼻で笑った。そして、口の端を少しだけ吊り上げる。

 ざわめきも視線も、敵意も。そのすべてが、なぜか心地よかった。

(最悪な始まりも──悪くない。ちょっと、面白い)



 寄宿舎の扉を開けるなり、陽気な声が飛んできた。

「チャドリー・モンゴメリー! みんなチャドって呼んでる! よろしくな!」

 言うが早いか、がっしりと肩を抱かれる。

「ようこそ俺のテリトリーへ! ……ってのは冗談だけどさ、まずはハウスルールな!」

 章吾は思わず半歩引いた。けれど、目の前の少年の明るさは、思っていたより悪くなかった。

 手渡されたのは、一枚の紙。手書きで書かれた「ゆるすぎるルール」が並んでいた。

「カップラーメンは奪い合い禁止」
「夜中に叫ぶのは週2まで」
 ──ツッコミどころしかない。

(……ま、ちょっとくらいなら。ここで、やってみてもいいかも)

 そう思いながら、個室の扉に手をかけた──その瞬間だった。

 雷が、落ちた。

「……は?」

 破裂音と同時に、空気が弾け飛ぶ。机の上のノートは宙を舞い、コンセントからは火花が散った。

 天井からは、信じがたいほどの雨水。バケツをひっくり返したような音とともに、部屋が水浸しになる。

 完全に、災害区域。

 そこへ、タオル片手にチャドが飛び込んできた。

「おいおいマジかよ! お前、呪われてんのか!?」

 章吾は、ぽたぽたと雫を垂らす髪をかき上げながら、小さく笑った。

「……笑うしかねぇだろ」



 その夜。

 廊下に響く革靴の音とともに、章吾はハウスマスターに呼び出された。

「Hiwatari。君の部屋は当分使えん。よって──」

 重厚な扉の前で、淡々とそう告げられる。扉が開いた先に、立っていたのは──

 燕尾服。金色の髪。
 そして、突き刺すような視線。

 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。

「……気の毒だが、私の部屋はリゾートホテルではない。首席でも、間違うことがあるのだな」

 完璧な仮面の奥に、確かな敵意がにじんでいる。   
 章吾は肩をすくめ、ふっと笑った。

「光栄だな、ルームメイト。俺から『学ぶ』いいチャンスだ」

 その瞬間、アルジャーノンの眉が、ぴくりと動いた。

「……最悪だ」
「どういたしまして」

 窓の外、再び雷鳴が空を引き裂く。ぶつかる視線。剥き出しのプライド。
 稲光が、ふたりの間に一本の裂け目を走らせる。

 しかし、章吾の胸は思いがけず高鳴っていた。
(……こいつとの喧嘩、楽しいかも)

 嵐よりも危うく、どこまでも惹かれ合う、ふたりのルームシェアが──静かに幕を開けた。