**
六時間目終了の鐘が鳴って、今日一日の授業日程を終えた。
後は掃除をして、ホームルームで下校だ。なんてことない一日が終わろうとしている。
今週から、私は体育館の掃除当番になった。サエリともも恵と一緒に渡り廊下を使って体育館に向かうと、先にきていたクラスメイトたちは、玄関ホールに集まっていた。
その中には、沢見くんの姿もあった。
私のクラスは男女ともに先生が適当に決めた四つの班に分けられ、一週間ごとに掃除場所をローテーションする。主に体育館の掃除に割り当てられて、三班分の人数が割かれる。私は二班で、四班の沢見くんとは先週ぶりに掃除場所が一緒になった。
遅れてやってきたクラスメイトも輪に入ってきて、「それじゃあ、掃除場所決めていこう」と誰かが言った。メンバーが変わる月曜日に、体育教官室を含む広い体育館のどこを掃除するかを決める。「私女子トイレ」「俺はギャラリー」と半年以上一緒にやってきた間隔で、だいたい誰がどの場所に行くかは宣言しつつも暗黙の了解で決まっている。
次々にクラスメイトがやりたい場所をあげていく中で、いつも人気がない場所があった。
「じゃあ、佳純また後でねー」
そう言って女子トイレに連れ立っていくサエリともも恵に手を振り、私は唯一名前を呼ばれなかったいつもの場所へ向かった。
入学の時から私の掃除場所。ギャラリーから舞台袖に続く階段と、舞台上の掃き掃除、そしてごみ捨て。
体育館はとにかく広くて、いろんな場所に人員を割かなければいけない。だからひとりっきりで掃除しなければいけない場所は、当然人気があるはずもなく。入学当初はサエリ達とも特別仲が良かったわけじゃないから、私が「それなら」と引き受けた。以来、誰が宣言することもなくあそこは私の定位置になっていた。
舞台袖の掃除用具入れから持ってきた箒で階段を掃いていく。カンっ、カンっ、と箒の音だけが、ひとりきりの空間に響く。あまり掃除範囲が広くないから、一人でも事足りる。他の子たちと同じように、玄関ホールでモップレースをしたり、女子トイレで泡だらけになったり、そういうことに憧れていないと言えば嘘になる。
でも、階段の踊り場の小窓から見える景色の色がきれいなことは、今のところクラスの中では私しか知らない秘密、だと思う。ちょうど構内に植えてある楓の木が絵画のような画角で見える。春や夏には青葉が真っ青な空に映え、秋は鮮やかな紅葉が夕日に眩しく、少し前に雪が降った時なんかは、くすんだ鈍色の空から舞降る雪が、葉をすっかり落とした枝に積もる様子が絵本のように神秘的だった。
今日はそんな小窓から見える夜の始まりを思わせる空に、小沙菜優越感を覚えながら、丁寧に階段を掃いて行く。それが終わると、舞台の上のモップをかけて、カーテンで隔たれた舞台袖に設置されているごみ箱を確認する。ギャラリーへと続く階段と反対側は倉庫としての役目も多少果たしているせいで卓球台や、体操用のマットが置いてある。休日、昼休みと部活生のたまり場になっているのでごみも溜まる。ペットボトルや燃えるゴミをごみ捨て場に放りなげて、また舞台袖に戻ると、ゴミ箱の前に誰かがいた。
その人は私に気づくと、こちらを振り返った。
――沢見くんは、私がいない間に、すべてのごみ箱に新しいゴミ袋を設置してくれていたようだった。
「え、あの……」
『あの! ちょっと待ってて! 手洗ってくるから! 待っててください!』
沢見くんはそう「言う」と、三段飛ばしで階段を上がっていった。ギャラリーと階段を繋ぐ鉄製扉の蝶番がギイっとこすれる大きな音が聞こえて、足音が遠ざかっていく。
(なんで、沢見くんが……?)
彼は教室掃除の担当だったはずだ。
もしかして代わりにごみ袋を変えてくれたのだから、お礼を言うべきだろ言うか。でも、どうして沢見くんがここの勝手を知っているのだろう。
ふと、舞台上の影に追いやられているグランドピアノの椅子に目が留まる。そこには、有名パティスリーのロゴの入っている、白い紙袋と、見覚えのある折り畳み傘が置いてあった。
(私が沢見くんに貸した傘と、似てる……)
また鈍い音を立てて頭上の扉が開いた。駆け足で階段を下りてきた沢見くんは、嵐のように舞い戻って、グランドピアノの椅子に置いてあった紙袋と、折り畳み傘を、私に差し出してきた。
『これ、傘のお礼です。本当にありがとう』
「え、でも……」
『本当に助かりました。だから、もらってくれると、ありがたいです』
私が傘をたまたま持っていた傘を貸すのは、たまたま隣の席にいた私に沢見くんが教科書を貸してくれたのだから当然のこと。でもこんな大層なもの、持って帰ったらみんなになんていわれるかわからない。嬉しいと思ってしまう自分は確かにいるのに、変に勘繰られるのではないかと、素直に厚意を受け取ることもできなかった。
『でも、迷惑だったかな』
不安げな声にハッとする。そんなことはない、と言いかけて、ふと保健室での出来事が思い出された。
「……おかしく、ないですか?」
思わず口走ってしまい、慌てて手で口を覆うけれど時すでに遅し。沢見くんは目を丸くして私を見ていた。
『どうして?』
取り繕うこともできずに、唇をかんだ。ごまかすことなんてできないから、おとなしく口を開いた。
「だって……お礼が、過多というか」
心臓が、聞こえてしまうんじゃないかというほどに大きく、速く、胸をたたいている。
「私がスマホを壊してしまって……。教科書も貸してもらって。傘を貸した、のに……それで、お礼をもらうのは……割に、合わない気が、して……」
つっかえながらも、打ち明ける。
(しゃべりすぎただろうか。)
そんな不安に駆られる。
けれど、沢見くんはすぐに相好を崩した。
『僕のセリフだったのに』
会話がキャッチボールのようだと感じるのは、いつぶりだろう。いつもは壁打ちにすらならず、私ばかりがミットを持つか、あるいはただ投げられるボールに当たるばかりだったのに。
『それなら、どういたしまして、ですか?』
「どうして、疑問形……?」
『だって、何をどういえばいいのか、わからなくなっちゃった』
「沢見くんは、そのままで。……ありがとう、は、私のセリフ……です」
『でも僕ら、お互いの助けになったでしょ? だから僕も、ありがとう、です』
「そうじゃ、ないのに……」
『細かいことはいいじゃないですか。僕が、伝えたいだけだから』
初めて会話をした時から思っていたことだが、ほとんど「普通の人」と同じテンポで会話ができることに、改めて驚く。現代の音声読み上げソフトはかなりの高性能らしい。最初だって、しっかりと驚いているイントネーションだったし、今の会話はずいぶんと落ち着いていて、おどけているようなニュアンスも伝わる。
時々SNSで見かけるAIのしゃべりは、ここまで正確に人間の抑揚をつかむことはできないでいるのに、どんなアプリを使えばこんな再現性の高いものになるのだろうと不思議だ。そしてもう一つ不思議といえば、沢見くんのフリック入力も、なかなかに早かった。
「かーすーみー」
サエリが私を呼びながら、舞台に向かってくる。沢見くんもそれに気づいて、『それじゃあ、また。ありがとう』と残して、階段を駆け上がっていった。
「掃除終わった?」
「お、終わった」
「ねえ、今だれかいた?」
「って、その紙袋何?」
隠し損ねた紙袋を指されて、私は気づかれないように小さく息を吐いた。
「お礼を、もらって……」
「え、お礼?」
二人が首をかしげるのも、無理はないと思う。基本的に人付き合いは苦手なキャラだし、頼まれたら断れないってだけで、自分から進んで誰かに親切をするということは、幼いころに比べたら少なくなっていたから。
「教科書を貸した、お礼を……沢見くんから、もらって」
「え、沢見?」
怪訝そうな顔つきになった二人に、さらに追及されるかと身構えたが、二人は紙袋に印字されたロゴに目の色を変えた。
「わ、パティスリー エレじゃない、それ?」
「え、マジじゃん。てか、むしろ妥当では?」
「でも、やっぱり春の予感なの?」
「そ、そんなんじゃ、ないよ」
二人をなだめるように声をかける。そして、グランドピアノの椅子を直すフリをして、明日必ず取りに来ると心の中で誓いながらそこに折り畳み傘を置き、二人のあとを追って舞台から降りた。
教室に戻ると、当然奈々未と沙菜からも関心を持たれ、そのまま放課後女子会を開催する流れとなった。
「沢見のあの音声? って結構すごいよね。なんのアプリなんだろ」
フードコートで頼んだポテトと、私が沢見くんからもらったドラジェをつまみながら、沙菜が言った。
沢見くんがくれたのは、雑誌でも取り上げられるような名店、パティスリー エレのドラジェだった。あの小窓から見える空のようなパステルブルーの丸い箱に、柔らかな白い雲と同じ色のリボンがかけられて、蓋を開けると色とりどりの砂糖でコーティングされたアーモンドが所狭しと淡く輝いていた。
「なんだっけ。今まで関心持ったことないからわかんない」
「考えてみれば、常人と同じテンポで会話してるの、すごいよね」
「沢見って何者なの?」
「あんまり興味持ったことないから知らない」
「この辺の中学じゃないんだっけ?」
「同中のひと、確かいなかった気もする」
「曖昧過ぎない?」
どんだけ沢見に興味ないんだよ、ときゃらきゃらみんなが笑う。
教室に戻って四人から「いいなー」と、ほんのり妬みのようなものを含んだ目を向けられてしまっては「みんなで食べよう」と言わざるを得なかった。「私、実はアーモンド苦手なんだよね」という言葉も添えて。
こんなことになってしまって残念に思っている私は、やっぱり醜い。
みんなはきれいに手入れされた細い指で、パステルカラーのアーモンドをつまみ、艶めくリップの塗られた口の中に放り込む。私は油にぬれた指でポテトをつまみながら、その光景を眺めていた。
「ていうか本当に沢見について、機械でしゃべる以外の情報ないんだけど」
「それな、未知すぎる」
「でもさ、悪い奴ではないよね、しゃべれないってだけで」
「そうね、しゃべれないってだけで」
それほど沢見くんについて語ることがないのか、だんだん歯切れが悪くなってくる。
沢見亮雅という名前は、この学校の生徒なら一度は目にしたことがあると思う。校内で唯一「スマホでしゃべるひと」だから。一応沢見くんは「健常者」ではないので、授業中のスマホの使用も、発言時のみ許可されている。
そんな半分「ロボット」のような彼を見に、入学当時はいろんな私たちの教室にやってきていた。さながら動物園の来園者のようで、私たちは自分が見られているわけではなかったが、勝手に動物園の動物の気分を理解した。あんな見世物のようになって、その実沢見くんはどう思っているのだろうとひそかに同情していたが、本人は慣れているようで案外けろりとしていた。それに、自分のハンディキャップを気にしない彼は、すぐに周りと打ち解けていった。
「でもさ、沢見が恋愛対象になるかって言ったら……やっぱり、ならないよね」
もも恵の言葉に、他の三人は迷いなく頷いた。当然その好奇の視線は、私にも向けられるわけで。
「ねえ、佳純はどうなの? ぶっちゃけあり?」
「男子でこんな風にお礼してくれるとか、結構本気なんじゃない? っておもっちゃうけどなー」
「あ、そうじゃん。だって浅田はこんなお礼、くれなかったよね」
物をくれたらいいのか、と言われれば必ずしもそうではないけれど、うれしかったことに変わりはなかった。だからと言って、恋愛対象として彼を見ているかと言われれば、現状と私の答えとしては「ノー」ではある。まだそんなにお互いを知り合っているわけでもないし、今日は面と向かって会話したけれど、まだ沢見くんとの距離感も図りかねている。
でも、そう口にすることで、彼の存在を否定しているととらえられてしまいそうで、私は慎重に言葉を選んだ。
「お礼をくれたのは……うれしかったよ」
「……それだけ?」
「……それだけ、かな」
答えると、みんなは「だよねー」と少し安心したような表情をする。
「沢見、確かにいい奴とは思うけど、それだけっていうか」
「佳純はもっと別な人と付き合ってほしいかな」
「わかるー」
都合のいいように解釈してくれた彼女たちに、私はあいまいに笑った。
高級お菓子を前にしてはしゃぐ彼女たちの言葉のとげは、しっかりと感じ取っていた。だから、自分から傘を貸したことは、決して言わないでおこうと心に決めつつ、これ以上話さなくてよくなったことに安堵する。
彼女たちの指には、砂糖が溶けてついている。パステルカラーのピンク、オレンジ、青 黄、緑そして白。その宝石の粒はカリっと乾いた良い音を立て、私はすっかり冷えてぱさぱさしてきた細いポテトを咀嚼する。ウーロン茶で流し込むと、塩気の中に、苦みを感じ取った。
「でも佳純、かわいそう。こんなおいしいもの食べられないなんて。
彼女たちは同情を示しつつも、ほのかな優越感をにじませてドラジェをつまんだ。
「もし仮に沢見が佳純に気が合ったとしても、リサーチ不足でマイナスかな」
「事前に好きなものの調査ができてなかったとしても、苦手なものをあげるようなやつは、モテないか」
彼女たちの甲高い笑い声が、ぼんやり遠ざかっていく。私も何か返事をしたかもしれない。でも自分の声も、周りの喧騒も、どんどん混ざって遠くにいって、意味をなさないただの「音」になっていく。
私は笑えているだろうか。そればかり、気になっていた。
六時間目終了の鐘が鳴って、今日一日の授業日程を終えた。
後は掃除をして、ホームルームで下校だ。なんてことない一日が終わろうとしている。
今週から、私は体育館の掃除当番になった。サエリともも恵と一緒に渡り廊下を使って体育館に向かうと、先にきていたクラスメイトたちは、玄関ホールに集まっていた。
その中には、沢見くんの姿もあった。
私のクラスは男女ともに先生が適当に決めた四つの班に分けられ、一週間ごとに掃除場所をローテーションする。主に体育館の掃除に割り当てられて、三班分の人数が割かれる。私は二班で、四班の沢見くんとは先週ぶりに掃除場所が一緒になった。
遅れてやってきたクラスメイトも輪に入ってきて、「それじゃあ、掃除場所決めていこう」と誰かが言った。メンバーが変わる月曜日に、体育教官室を含む広い体育館のどこを掃除するかを決める。「私女子トイレ」「俺はギャラリー」と半年以上一緒にやってきた間隔で、だいたい誰がどの場所に行くかは宣言しつつも暗黙の了解で決まっている。
次々にクラスメイトがやりたい場所をあげていく中で、いつも人気がない場所があった。
「じゃあ、佳純また後でねー」
そう言って女子トイレに連れ立っていくサエリともも恵に手を振り、私は唯一名前を呼ばれなかったいつもの場所へ向かった。
入学の時から私の掃除場所。ギャラリーから舞台袖に続く階段と、舞台上の掃き掃除、そしてごみ捨て。
体育館はとにかく広くて、いろんな場所に人員を割かなければいけない。だからひとりっきりで掃除しなければいけない場所は、当然人気があるはずもなく。入学当初はサエリ達とも特別仲が良かったわけじゃないから、私が「それなら」と引き受けた。以来、誰が宣言することもなくあそこは私の定位置になっていた。
舞台袖の掃除用具入れから持ってきた箒で階段を掃いていく。カンっ、カンっ、と箒の音だけが、ひとりきりの空間に響く。あまり掃除範囲が広くないから、一人でも事足りる。他の子たちと同じように、玄関ホールでモップレースをしたり、女子トイレで泡だらけになったり、そういうことに憧れていないと言えば嘘になる。
でも、階段の踊り場の小窓から見える景色の色がきれいなことは、今のところクラスの中では私しか知らない秘密、だと思う。ちょうど構内に植えてある楓の木が絵画のような画角で見える。春や夏には青葉が真っ青な空に映え、秋は鮮やかな紅葉が夕日に眩しく、少し前に雪が降った時なんかは、くすんだ鈍色の空から舞降る雪が、葉をすっかり落とした枝に積もる様子が絵本のように神秘的だった。
今日はそんな小窓から見える夜の始まりを思わせる空に、小沙菜優越感を覚えながら、丁寧に階段を掃いて行く。それが終わると、舞台の上のモップをかけて、カーテンで隔たれた舞台袖に設置されているごみ箱を確認する。ギャラリーへと続く階段と反対側は倉庫としての役目も多少果たしているせいで卓球台や、体操用のマットが置いてある。休日、昼休みと部活生のたまり場になっているのでごみも溜まる。ペットボトルや燃えるゴミをごみ捨て場に放りなげて、また舞台袖に戻ると、ゴミ箱の前に誰かがいた。
その人は私に気づくと、こちらを振り返った。
――沢見くんは、私がいない間に、すべてのごみ箱に新しいゴミ袋を設置してくれていたようだった。
「え、あの……」
『あの! ちょっと待ってて! 手洗ってくるから! 待っててください!』
沢見くんはそう「言う」と、三段飛ばしで階段を上がっていった。ギャラリーと階段を繋ぐ鉄製扉の蝶番がギイっとこすれる大きな音が聞こえて、足音が遠ざかっていく。
(なんで、沢見くんが……?)
彼は教室掃除の担当だったはずだ。
もしかして代わりにごみ袋を変えてくれたのだから、お礼を言うべきだろ言うか。でも、どうして沢見くんがここの勝手を知っているのだろう。
ふと、舞台上の影に追いやられているグランドピアノの椅子に目が留まる。そこには、有名パティスリーのロゴの入っている、白い紙袋と、見覚えのある折り畳み傘が置いてあった。
(私が沢見くんに貸した傘と、似てる……)
また鈍い音を立てて頭上の扉が開いた。駆け足で階段を下りてきた沢見くんは、嵐のように舞い戻って、グランドピアノの椅子に置いてあった紙袋と、折り畳み傘を、私に差し出してきた。
『これ、傘のお礼です。本当にありがとう』
「え、でも……」
『本当に助かりました。だから、もらってくれると、ありがたいです』
私が傘をたまたま持っていた傘を貸すのは、たまたま隣の席にいた私に沢見くんが教科書を貸してくれたのだから当然のこと。でもこんな大層なもの、持って帰ったらみんなになんていわれるかわからない。嬉しいと思ってしまう自分は確かにいるのに、変に勘繰られるのではないかと、素直に厚意を受け取ることもできなかった。
『でも、迷惑だったかな』
不安げな声にハッとする。そんなことはない、と言いかけて、ふと保健室での出来事が思い出された。
「……おかしく、ないですか?」
思わず口走ってしまい、慌てて手で口を覆うけれど時すでに遅し。沢見くんは目を丸くして私を見ていた。
『どうして?』
取り繕うこともできずに、唇をかんだ。ごまかすことなんてできないから、おとなしく口を開いた。
「だって……お礼が、過多というか」
心臓が、聞こえてしまうんじゃないかというほどに大きく、速く、胸をたたいている。
「私がスマホを壊してしまって……。教科書も貸してもらって。傘を貸した、のに……それで、お礼をもらうのは……割に、合わない気が、して……」
つっかえながらも、打ち明ける。
(しゃべりすぎただろうか。)
そんな不安に駆られる。
けれど、沢見くんはすぐに相好を崩した。
『僕のセリフだったのに』
会話がキャッチボールのようだと感じるのは、いつぶりだろう。いつもは壁打ちにすらならず、私ばかりがミットを持つか、あるいはただ投げられるボールに当たるばかりだったのに。
『それなら、どういたしまして、ですか?』
「どうして、疑問形……?」
『だって、何をどういえばいいのか、わからなくなっちゃった』
「沢見くんは、そのままで。……ありがとう、は、私のセリフ……です」
『でも僕ら、お互いの助けになったでしょ? だから僕も、ありがとう、です』
「そうじゃ、ないのに……」
『細かいことはいいじゃないですか。僕が、伝えたいだけだから』
初めて会話をした時から思っていたことだが、ほとんど「普通の人」と同じテンポで会話ができることに、改めて驚く。現代の音声読み上げソフトはかなりの高性能らしい。最初だって、しっかりと驚いているイントネーションだったし、今の会話はずいぶんと落ち着いていて、おどけているようなニュアンスも伝わる。
時々SNSで見かけるAIのしゃべりは、ここまで正確に人間の抑揚をつかむことはできないでいるのに、どんなアプリを使えばこんな再現性の高いものになるのだろうと不思議だ。そしてもう一つ不思議といえば、沢見くんのフリック入力も、なかなかに早かった。
「かーすーみー」
サエリが私を呼びながら、舞台に向かってくる。沢見くんもそれに気づいて、『それじゃあ、また。ありがとう』と残して、階段を駆け上がっていった。
「掃除終わった?」
「お、終わった」
「ねえ、今だれかいた?」
「って、その紙袋何?」
隠し損ねた紙袋を指されて、私は気づかれないように小さく息を吐いた。
「お礼を、もらって……」
「え、お礼?」
二人が首をかしげるのも、無理はないと思う。基本的に人付き合いは苦手なキャラだし、頼まれたら断れないってだけで、自分から進んで誰かに親切をするということは、幼いころに比べたら少なくなっていたから。
「教科書を貸した、お礼を……沢見くんから、もらって」
「え、沢見?」
怪訝そうな顔つきになった二人に、さらに追及されるかと身構えたが、二人は紙袋に印字されたロゴに目の色を変えた。
「わ、パティスリー エレじゃない、それ?」
「え、マジじゃん。てか、むしろ妥当では?」
「でも、やっぱり春の予感なの?」
「そ、そんなんじゃ、ないよ」
二人をなだめるように声をかける。そして、グランドピアノの椅子を直すフリをして、明日必ず取りに来ると心の中で誓いながらそこに折り畳み傘を置き、二人のあとを追って舞台から降りた。
教室に戻ると、当然奈々未と沙菜からも関心を持たれ、そのまま放課後女子会を開催する流れとなった。
「沢見のあの音声? って結構すごいよね。なんのアプリなんだろ」
フードコートで頼んだポテトと、私が沢見くんからもらったドラジェをつまみながら、沙菜が言った。
沢見くんがくれたのは、雑誌でも取り上げられるような名店、パティスリー エレのドラジェだった。あの小窓から見える空のようなパステルブルーの丸い箱に、柔らかな白い雲と同じ色のリボンがかけられて、蓋を開けると色とりどりの砂糖でコーティングされたアーモンドが所狭しと淡く輝いていた。
「なんだっけ。今まで関心持ったことないからわかんない」
「考えてみれば、常人と同じテンポで会話してるの、すごいよね」
「沢見って何者なの?」
「あんまり興味持ったことないから知らない」
「この辺の中学じゃないんだっけ?」
「同中のひと、確かいなかった気もする」
「曖昧過ぎない?」
どんだけ沢見に興味ないんだよ、ときゃらきゃらみんなが笑う。
教室に戻って四人から「いいなー」と、ほんのり妬みのようなものを含んだ目を向けられてしまっては「みんなで食べよう」と言わざるを得なかった。「私、実はアーモンド苦手なんだよね」という言葉も添えて。
こんなことになってしまって残念に思っている私は、やっぱり醜い。
みんなはきれいに手入れされた細い指で、パステルカラーのアーモンドをつまみ、艶めくリップの塗られた口の中に放り込む。私は油にぬれた指でポテトをつまみながら、その光景を眺めていた。
「ていうか本当に沢見について、機械でしゃべる以外の情報ないんだけど」
「それな、未知すぎる」
「でもさ、悪い奴ではないよね、しゃべれないってだけで」
「そうね、しゃべれないってだけで」
それほど沢見くんについて語ることがないのか、だんだん歯切れが悪くなってくる。
沢見亮雅という名前は、この学校の生徒なら一度は目にしたことがあると思う。校内で唯一「スマホでしゃべるひと」だから。一応沢見くんは「健常者」ではないので、授業中のスマホの使用も、発言時のみ許可されている。
そんな半分「ロボット」のような彼を見に、入学当時はいろんな私たちの教室にやってきていた。さながら動物園の来園者のようで、私たちは自分が見られているわけではなかったが、勝手に動物園の動物の気分を理解した。あんな見世物のようになって、その実沢見くんはどう思っているのだろうとひそかに同情していたが、本人は慣れているようで案外けろりとしていた。それに、自分のハンディキャップを気にしない彼は、すぐに周りと打ち解けていった。
「でもさ、沢見が恋愛対象になるかって言ったら……やっぱり、ならないよね」
もも恵の言葉に、他の三人は迷いなく頷いた。当然その好奇の視線は、私にも向けられるわけで。
「ねえ、佳純はどうなの? ぶっちゃけあり?」
「男子でこんな風にお礼してくれるとか、結構本気なんじゃない? っておもっちゃうけどなー」
「あ、そうじゃん。だって浅田はこんなお礼、くれなかったよね」
物をくれたらいいのか、と言われれば必ずしもそうではないけれど、うれしかったことに変わりはなかった。だからと言って、恋愛対象として彼を見ているかと言われれば、現状と私の答えとしては「ノー」ではある。まだそんなにお互いを知り合っているわけでもないし、今日は面と向かって会話したけれど、まだ沢見くんとの距離感も図りかねている。
でも、そう口にすることで、彼の存在を否定しているととらえられてしまいそうで、私は慎重に言葉を選んだ。
「お礼をくれたのは……うれしかったよ」
「……それだけ?」
「……それだけ、かな」
答えると、みんなは「だよねー」と少し安心したような表情をする。
「沢見、確かにいい奴とは思うけど、それだけっていうか」
「佳純はもっと別な人と付き合ってほしいかな」
「わかるー」
都合のいいように解釈してくれた彼女たちに、私はあいまいに笑った。
高級お菓子を前にしてはしゃぐ彼女たちの言葉のとげは、しっかりと感じ取っていた。だから、自分から傘を貸したことは、決して言わないでおこうと心に決めつつ、これ以上話さなくてよくなったことに安堵する。
彼女たちの指には、砂糖が溶けてついている。パステルカラーのピンク、オレンジ、青 黄、緑そして白。その宝石の粒はカリっと乾いた良い音を立て、私はすっかり冷えてぱさぱさしてきた細いポテトを咀嚼する。ウーロン茶で流し込むと、塩気の中に、苦みを感じ取った。
「でも佳純、かわいそう。こんなおいしいもの食べられないなんて。
彼女たちは同情を示しつつも、ほのかな優越感をにじませてドラジェをつまんだ。
「もし仮に沢見が佳純に気が合ったとしても、リサーチ不足でマイナスかな」
「事前に好きなものの調査ができてなかったとしても、苦手なものをあげるようなやつは、モテないか」
彼女たちの甲高い笑い声が、ぼんやり遠ざかっていく。私も何か返事をしたかもしれない。でも自分の声も、周りの喧騒も、どんどん混ざって遠くにいって、意味をなさないただの「音」になっていく。
私は笑えているだろうか。そればかり、気になっていた。

